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まなざしの向こう

「これはほんとうに事実なのか?」を問われた。
いつものことだ。言葉を発することができない障がい者の指に触れただけで相手の考えがわかるなんて! ……と、まずはその現実に驚く。と同時にむくむくと疑惑の心が生じるのだ。


通訳者が瞬時に指先から伝わる文字を読み取る。「あれはウソではないか?」と思う。流ちょうすぎる。通訳者が勝手にねつ造しているのではないか。その疑惑は常に指筆談についてまわる。
ゆっくり読み取るならまだしも、高速で指から伝わる情報を読みとる通訳者は、周りから見れば超能力者。「イカサマじゃないの?」と思う人も多いだろう。指筆談を社会に広めてきた柴田保之先生が、常に世間からの批判の目を受けながら活動してきたことはすぐに理解できた。
6月21日、原宿の会場で柴田先生と初めてお会いした。仏教系出版社・サンガ新社の主催で「指筆談」をテーマに柴田先生と仏教者の藤田一照さんが対談をするイベントにゲストとして参加。当事者の方たちが4名も参加して、実際に柴田先生の指筆談を間近で見るというありがたい機会をいただいた。
藤田一照さんは、柴田先生の指筆談を見て衝撃を受けたと言う。藤田さんは感じたままを素直に表現する方なので、イベントの間も多くの疑問を参加者と柴田先生に投げ掛けた。その疑問は指筆談を初めて見た人が抱く素朴な疑問であり、私もさんざん同じ質問を連発していたことを思い出した。
参加された障がい者………と呼ばれるみなさんは、言葉を発することが難しい。健常の子が発話する時期になっても言葉がでず、その行動が周りからは無秩序に見えるため「知能が発達していない」と評価されてきた。ことばを理解していない。一度、そう烙印を押すと、人は無自覚に他者を「思い込み」という牢屋に相手を閉じこめるのだ。
言葉を発せない人たちが、指筆談を通じて自らの思いを言葉で表現し始めた時は周りが驚愕する。えっ?そんなことを考えていたの?と。すぐには信じられないし、指筆談通訳者が優秀であるほど疑惑は深まる。「本当なのか? まるでテレパシーのようだ……」
最初は私もそう思った。
指筆談については、私のnoteマガジン「ヌー!」の創刊当初にルポを書いている。2016年の頃だ。友人、中津川浩章さんの紹介で埼玉県に住む土井響さんを訪ね、初めて指筆談体験した。この経緯を書いていると長くなるので、興味のある方は「ヌー!」を読んでみてください。
その後、響さんの言葉を指談によって引きだした牧野順子さんにお会いしてインタビューをする。「彼らはどのようにして言葉を理解したのか?」「どういうふうに言葉が伝わってくるのか?」「どうやったらそれは可能なのか?」……そして「障害者の思いと、通訳者の言葉は一致しているか?それは検証が可能であるか?」
牧野さんはていねいに質問に答えてくれたけれど、けっきょく、私はさらに現場で指筆談を体験するまで納得ができなかった。当事者の方と出会ってようやく、何かが起きていることがわかった。
さて、ここからは私のごく個人的な心情の話になる。
今も当初に指筆談に抱いた疑問を、私はなんにも解決していないんだ。いったい言葉を学ぶ機会がなかった彼らがどうやってそれらの言葉を理解しているのか。耳から聞いて覚えたと言うけれど、本当にそうなのか。
20代の頃に重度障害者の脳性麻痺の女性の介護ボランティアをしていたことがあった。彼女は高木美鈴さんといい、自力で座っていることも難しい障害だったが、独立して一人で暮らしていて、介護者はチームを組んで彼女を24時間態勢でサポートしていた。
美鈴さんの障害は長く社会から隠されていたそうだ。彼女は家の一室の閉じこめられたまま存在を消され、学校にも通うことができず、民生委員がある日彼女を発見するまで「座敷牢にいた」と言う。「テレビを観ることしかできず、テレビを見て言葉と社会を学んだ」そんな風に話していた。
その後、彼女は閉鎖的な施設を飛びだして自立するに至るのだが、障害者解放の思想を語る彼女は雄弁で、その表現能力は素晴らしかった。20代の私は「テレビだけで人がこれほど深く物事を思索できるようになるのなら、学校はいらないんじゃないか?」と思ったのだった。
美鈴さんは私の原点だ。彼女からものすごく多くの事を学んだ。自分がどのような偏見を持っているのか。これが最大の学びだった。当初「どうしてこんなに重い障害を抱えてまで自活したいんだろう?」と思っていた。その私に対して美鈴さんが毅然と「私たち障害者は生きていることが闘いなのだ」と言った。発話も不自由なので文字盤とトーキングマシンで会話をした。何年か介護をしていると、簡単な日常会話なら相手の言葉の最初のひと文字で察することができるようになった。
たぶん……だが、美鈴さんとの出会いのおかげで、私の障がい者に対する偏見は少しだけ修正されていると思う。最大の偏見は「彼女が私より不幸だ」と思い込むことだった。不幸な人だから介護ボランティアに行った。が、それが最大の偏見だった事を学んだ。私は彼女と共にもっといい社会、自分がもっと生きやすい社会をつくる仲間としてここにいるんだ……。それに気づくまでにはずいぶん長い時間が必要だった。
で、指筆談のことだ。イベントの開催にあたって、SNSで批判を受けたと主催者側の担当者が言っていた。そのことがイベントの最後でも話題になった。
「本当に障がい者の気持ちを代弁できているのか? 通訳者の主観が混じっているのではないか? だとしたら人権侵害である」
「通訳が話す内容が事実であると立証できるのか?」
この「白か黒かはっきりさせろ」という議論は、当事者の視点が欠けているなあ、と私は思っている。もちろん、指筆談の通訳者が自分の優越感のため、あるいは障がい者を騙そうとして指筆談を利用することは考えられる。そのようなリスクはさまざまな詐欺が横行するこの社会では想定内だ。
でも、実際に指筆談を通して生活のクオリティが著しく上った障がい者が存在する現実に着目して、可能性を追求し、指筆談に関心をもつ人を増やして研究を進める方が、社会的な貢献度が高いのではないか。
なぜ指筆談で瞬時に相手の思いを読みとることが可能なのか、それが事実なのかの、科学的なエビデンスが乏しいのはこの事を研究する研究者や研究機関が圧倒的に少ないからなのだ。たとえば、ソニーやソフトバンクが乗り出せば違う展開があるのかもしれない。
ここで見方を変えて「生活のクオリティ」あるいは「人生のクオリティ」を指筆談の判定基準にしてはどうだろうか。生活のクオリティは具体的に指標を出すことが可能だ。また第3者がそれを判断することも可能だ。クオリティが上れば、その方法は当事者の役に立っている……ということになる。
障がい当事者の人生の質が上ることは、社会の価値観、ひいてはこの社会に暮す人たちにとっての社会環境の変化と密接に関わっている。指筆談を通して社会に対して自己表現が可能になった時に、その当事者の生活、人生のクオリティはどのように変化したか……を、もっと具体的に評価する方法をつくり、それを指筆談の基準と置くことで、指筆談が社会に受け入れやすくなっていくはずだ。なにより、当事者とそのご家族にとっても、指筆談を判断する上で有効なのではないかと思っている。
このような指標は、制作するのはそれほど難しくはない気がしている。協力してくれる人がいれば、わりとすぐに実用可能なんじゃないか。
対立するのではなく、共通の課題に向かっていくことで社会問題は一つずつクリアしていけると思っている。指筆談での共通の課題は言葉を発することが困難な障がい者の生活と人生の質の向上であることは間違いない。この課題に向って、どう協力しあえるのかを共に考えていく仲間を増やしていきたい。
「なぜ仏教雑誌の新サンガ社がこのイベントを企画したのか?でもすばらしい企画です」と最後に藤田一照さんが発言していたけれど、サンガとは仲間という意味。問題の向こうには必ず共通の課題があり、それを解決できるのは、仲間だから。

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田口ランディが日々の出来事や感じたことを書いています。

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