朗読の音声作品を作りながら考えたこと~「上手」について迷うその②
朗読ってナレーションなの?読み語りなの?
ナレーションも読み語りも元々は同じ言葉だったのだと思う。ただ実作業のなかで使われるうちに意味合いが変わってきたと感じる。
ここからは正しい言葉についてではなく、使うニュアンスの話になる。
ナレーションは必ずしも読んで語るものではない。映像作品では「プロ野球珍プレー好プレー」のみのもんたのように、映像を見て言葉を当ててしまうやり方、いわゆる「見た目で付けてください」もあるのだ。
ラジオの実況ナレーション(例えば試合の入りなど)も、事前原稿があっても、現場の空気で変わっていくことがままある。
読み語りにそれは絶対にない。
ということは読み語りは、原稿を読んで表現するニュアンスをより強く感じる。つまり書かれた原稿(映像との相乗効果を意識して書かれた場合も含め)の意図を読み取って、語り伝えることである。
その場合に”語り口”、つまり読み手の個性は、作品を伝える手段として正しく使われなければならない。
あくまでも現場作業で使われている言葉のニュアンスとしてだが、
ナレーション=その人なりの語りをしてもらう。
読み語り=原稿の作品世界を読み解いて、声で表現する。
ここから、今回の作業をするにあたって、朗読は読み語りであると位置づけた。
語り口、声質、技術をミックスブレンドした表現。
作品を語るのだから、当たり前だが解釈を話しあう。
問題はそれを正しく伝えられるかだ。
語り口や声質といった読み手の個性を、作品に寄り添わせるのは読む技術である。正確さは欠かせないが、技術に走りすぎるとあざとさを感じさせたり、聞き手を置き去りにしてしまう。
キチンと読めているけど伝わっていない・・・を越えていくのが難しい。
実際にやってみて痛感したスピードの大切さ。
その①で、とにかく朗々とゆったり、低く重く重厚な読み方をすることに嚙みついた。
上手そうに聞かせたいという読み手の気負い、いかにも良さそうに聞こえるだろうという制作サイドの考えが読め、ステロタイプに収める作業を感じてしまうからだ。
文芸作品は特にそこに陥りやすい。
誰彼かまわず江守徹や平幹二郎ばりに読ませてどうするのだろう。呼吸を止めた間合いですら表現にしてしまう人達だぞ。
それぞれの読み手の個性と技術にふさわしいやり方で、作品の良さを引き出す方法があると思う。
そして、作るときにいくつか同じ作品の聴き比べをしたが、技術や表現力の高い人の方が短い=読みが速いケースが多いことがわかった。
優れた読み手の朗読を聴いていると、物語を進めていく全体の適正なスピード、そして緩急の使い分けがとても計算されている。
なんとなく古典落語のあり方を参考にしようと思い始めた。
実際に作っていると、さまざまな要素のバランスの大切さについて考えてしまうが、バランスがうまくブレンドできたからといって成功とは限らない。
当たり前のこととして”よい”と”うまい”は違う。
宮沢賢治の作品でいえば、岩手の方言で朴訥と読み上げられた朗読の力強さが、”うまい”をはるかに凌駕してしまうことがある。
ここまで書いたことをひっくり返すようだが、読み手の個性が立ちすぎているのに・・・”よい”。
芸のあらゆるジャンルで、どの時代も、すべての携わる人間が悩んできたことがここにある。
そして思う。
古典落語を楽しむときに、誰が”よい””うまい”云々よりも、どの噺家のどの演目である。
先代桂文楽の本寸法の練り上げられた芸か、志ん生の個性際立つ天衣無縫の芸かではなく、文楽の「明烏」もいいし、志ん生の「お直し」もたまらないというように、人と演目の組み合わせが作品なのである。
いや、いや、いや、朗読作品作り。初めて見ると道険し。しかしとても面白い。