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昨日は辛すぎた。
また書けてない日々が続き、忙しくしていると
思いがけない訃報が届いた。
姉からの電話、姉の家に届いた喪中葉書に姉は思考が止まったと言います。
私がnoteを始めたきっかけでもある幼少期の話、物語冒頭によく登場してくる幼馴染で同い年の英樹が亡くなったと書いてあると。
葉書には英樹の奥様と、両親を亡くした当時、私達姉妹を引き取ってくれた小林のおばさんの名前が連名で。
自筆で「英樹が亡くなりました。残念です。」とひとこと添えて。
私も姉から聞き「嘘でしょ?!・・・」
耳を疑ったし信じられなかった。
つい数日前に姉と来年こそ生まれ育った静岡へ行き、数年前に亡くなった小林のおじさんの仏壇に手を合わせに行こうと話していて
法多山の団子も食べたいと言うとどうやってそこまで行く?と言う姉に
英樹が連れてってくれるでしょ!と当然のように話していたのですから。
当然のように会えると思っていた人が今年の2月に亡くなっていたことを知り毅然として涙が止まリませんでした・・・。
私はその日、予約もいただいていてバタついていたので取り急ぎ姉に電話してもらいました。
後ほど姉から聞いた話では英樹は大腸癌を患っていたらしく、一度は良くなったところ再発しステージ4の状態にまでなっていて
入院するとコロナ禍で会えなくなってしまうため自宅療養を選択し家族に見守られながら最期を迎えたと、おばさんは気丈に話してくれたそうです。
![](https://assets.st-note.com/img/1671091731411-6JLKd1TFgf.jpg?width=1200)
英樹は身長180cmを超え大柄で、小さいころはバスケ、大きくなってからは剣道をしていた彼は県大会でも優秀な成績を残したほどでした。
最期は身体半分ほどに痩せほそりながらも、お母さんごめんねといつもおばさんを気遣って自分が病気なのに本当に優しい子だったよとおばさんは話していたそうで・・・
姉が電話口のおばさんの気丈さに「おばさん、大丈夫・・・?」と尋ねると
「大丈夫じゃないよ〜、毎日仏壇に向かって泣いてるんだよ〜」と
懐かしい静岡弁で本音を漏らしたと。。。
そんな一部始終を受話器越しに聞く私も結果を話す姉も涙がとまらずズルズルになり
兄弟を亡くしてしまった感触で悲しくて悲しくて。
そしておばさんや兄の準ちゃん、英樹の奥さんや子供さんたちのことを思うといたたまれず。。。
もっと早くに会いに行くべきだったととても後悔しました。
10歳で熊本へ移り、生まれ育った静岡へ行けたのは約26年前、(22歳の時)上京してすぐに小林家に会いに行きました。
愛知の大学に行っていた英樹は帰ってきてくれて幼き日のように10数年ぶりに食卓を囲んだのを覚えています。
あの時は両親を亡くした少女の頃の辛さとみんなに会えた再会の喜びが入り混じった涙を流したように思います。
私が甲佐町に移転した際に年賀状に書いておいたお店のことやホームページを英樹が見てくれてお店に電話をくれ、久しぶりに会話したことがあります。
りえちゃん、頑張ってるね。
俺もやりたいことあるけどなかなかね〜
今度相談乗ってね。
って・・・
私が結婚した時は主人の名前が同じ秀城(ヒデキ)なので
旦那さんいい名前だねぇ〜ってメッセージをくれたり。
大人になって幼馴染とこんな話できるようになったことが本当に嬉しかったのです。
熊本地震があった際や台風、大雨などことあるごとに大丈夫?!何か支援が必要だったら言ってね!とLINEをくれて。
本当に優しい人でした。
LINEを読み返すと数年前、話したいことあるからまた今度・・・
って文章があって
もしかしたらその頃には病魔に襲われていたんじゃないかと思うと
でもこちらを気遣ってそのことは話さず、私たちの状況や安否を心配してくれて・・・
そうやってたくさんたくさん思い出しています。
絶対に忘れないからね、英樹と一緒に育った日々、楽しかったことも
悲しかった事も。
血は繋がってないけど私たちは確かにキョウダイだったと思います。
毎週末のようにお互いの家を行き来し、母やおばさんが作ってくれる料理を食べ、おやつを頂き熊本へ経つ日まで一緒に過ごしてきました。
病気でたくさん苦しんだ分、どうか安らかに。
うちの両親やおじいちゃん達、お義母さんも挨拶してるかもしれない・・・
英樹、本当にありがとう。
48年、お疲れ様・・・
もっともっと色々話せば良かったね。
来年、必ず静岡に行くからね。