042 | 日本近代文学館の「震災を書く」展を見た




なかなか文章にできなかった、少し前の話。
まだ桜の時期、自転車で駒場公園まで行ったのは、花見の他にもう1つ目的があった。同園内の日本近代文学館 「 3.11文学館からのメッセージ ー震災を書くー 」と言う展示を見たかった。



前から思う事があった。主題にせよ部分にせよ東日本大震災を虚構で描く、主に映画やTVドラマに微妙な違和感を感じていた。そういうものは小説や文章でもあっただろうけど、私は読んだ事がなかった。

東日本大震災に関しては作品=虚構、ではないドキュメントが足りていないと感じていた。
だから劇映画のようなもの、つまり創作された物語に、テーマやセンテンスとして東日本大震災が組み入れられる趣向?にモヤモヤしたものを拭えなかった。よく出来ていても感動的でも“作品”はまだ要らない。該当する生の“情報”が必要だと、今でもかなり思っている。
被災地から離れて暮らす私は、そういう情報をきっかけにしないと、東北に関連して自分が何をしたいのか、考えたり想う事が難しいから。



以下、ハンドアウトに載っていたけど著作権的にどうなんだろう、多分マズいんだろうけどあげたい。この他にも「震災を書く」展では詩や歌や俳句で、東日本大震災が詠われていた。現在を生きる詩人や俳人によるおよそ20作。それぞれが直筆の、色紙や短冊や掛け軸や原稿用紙で示されていた。




原発建屋の底地をひたひたと汚染水が洗い
建屋が日々ひろがる汚染水の沼に浮遊する ─
そんな光景が悪夢にすぎないと
きみには言いきれるか

中村 稔(なかむら みのる)



二人子を亡くした
母がわたしなら
いりません
絆とか
いりません

小島 ゆかり(こじま ゆかり)



いつも夕焼けがある
僕の拳にはいつも夕焼けがある
握りしめて振り上げるほどに
こみあげてくる涙がある
立ち尽くしている
電信柱の列がある

和合 亮一(わごう りょういち)



長浜に馬のクラブのありしなり
馬流れたること涙なり

馬場 あき子(ばば あきこ)





小さな短い詩や歌だけど、読むだけで、口ずさむと、ニュースの活字や映像からと違うところに作用する、心象が湧出する。それは一度読めば種火のように微小に発熱し、被災地が今どういう風になっているのかを知るための接ぎ穂になり、更に他の種火を見つける助けになる。

ニュースや映像による情報は絶えず必要だけど、それを収集するのに限界はあるし、集めても情報として消費し、頭や胸の辺りから時間と共に脱落する。
そこを違うベクトルで、震災を継ぐ効果が歌や詩にある。その表現の彩(いろどり)ごと感じる事で、辿り着こうとしている所に近づけるかも知れないし、それは報道の箇条書きには含まれていない。
抽出・抽象された短い言葉、凍結されたそれを解凍する度に想う、100回でも1000回でも。作品は私にも必要だった。



展示は(文学館の人が言うように)小さな展示室の、壁沿いにグルっと周ると終わる規模だけど見れて良かった。

http://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_past/5407/