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あくまでアマチュア書評集 “ワケあって未購入です” #2 『蜜蜂と遠雷』 恩田陸 (2016年、幻冬舎)
初めて読む作家なので、図書館で借りてお試し。架空の国際ピアノ・コンクールを舞台に、エントリーしたピアニストと審査員たちの人間模様を描いた群像劇。
私のような長年のクラシック・ファンにも全く違和感のない描写で、著者は相当にクラシック音楽に詳しい様子。音楽を演奏するとはどういう事か、それをコンテストで競い合うとはどういう事か、深い所まできちんと理解している人の文章である。しかも純粋に小説として、ものすごく面白い。
演奏表現の違いを文章で描写するのは、音楽評論家にとってさえ難しい事。さらにここでは様々なピアニストを登場させた上、その個性の違いを描き分けなければならない。著者は見事に成功していると思う。それほど音楽に詳しくない読者からも強く支持されているのは、その証左である。コミック『のだめカンタービレ』とその映像化の成功が先にあり、恩田氏も恐らく影響は受けているだろうが、だからといって誰にでも本作が書ける訳ではない。
では十分に楽しんだのに、なぜ購入して本棚に加えようとはならないのか、自分なりに考えてみる。
映画でもよくあるが、SFやアクションなどチームで戦う場合、そのキャラクター構成は大抵の場合バラエティに富みすぎている。キャスティングの関係やポリティカル・コレクトネスなど、作り手が配慮しなければならない事が多いせいもあるが、それ以前に、ドラマを面白くするためにはキャラクターが多彩な方がいいというセオリーみたいなものもある。しかし観る側には、それがどこか作為的に見えてしまう。
例えば正義感の強い美男美女が主役級で、その周りに口の悪いニヒル男、一見ぶりっ子風のハイ・ポテンシャル女子、知能指数の高いオタク、無鉄砲なマッチョなどを配したりとか。本書にも、どこか作家側の都合が見え隠れし、キャラクターが自発的に生き生きと動き出すさまを阻害する感覚がわずかにある。特に審査員側のキャラクター設定は類型的と感じるが、コンテスタントたちも、見方によっては型にはまっていると言えなくもない。
音楽界の常識からはみ出す天才的な野生児というのは、こういう物語に欠かせないキャラクターでもある。その時点でもう、存在として破格ではない。また、「テクニックは一級だけど表現の深みがない」というのは昔から、西洋音楽の歴史を持たないアジア系音楽家に向けられてきた批判の定型パターンだ。かつては日本人、その後は中国人、本書に登場する高慢な毒舌女性は、その象徴みたいなキャラである(スポーツでも、他国の選手をブタ呼ばわりする中国の飛び込み選手とか実際にいたし)。
そういう既視感が積み重なると、私のような読者は何かしら本書を、幾つかに分類される恣意的、人工的なジャンル小説の一つ、あるいはその応用版と感じてしまうのかも。「じゃあどうすれば良かったのだ」と反論されても私はちょっと正解を持たないが、例えば村上春樹や森見登美彦、いしいしんじらの小説なら、そういう分類が不可能だったりするのも事実である。
これほど素晴らしい小説にうるさくケチを付けるのは気が引けるが、読みながらそう感じた訳ではなく、あくまで読後感から分析した感触である。もっと皮相なレヴェルで言えば、文体、特に軽妙なユーモアを出そうという局面で、どことなく「おばちゃんくさい」言い回し(ほんとにスミマセン!)に感じるという事もある。
それが悪いという訳ではなく、例えば古風な表現が美しい効果に繋がる場合ももちろんある。ただ、本書では中途半端に今風な言語感覚が気になる箇所が多々あって、発刊から7年後に読んでいる私としては、エイジングが進みすぎている、あるいは当初から今風でもなかったのでは?とも感じたり。結局は好みの問題なのだが、文体の好みも、お気に入りとして本棚に置きたいかどうかには大きく関わってくると思うのである。
元は簡単な感想メモだったのに、推敲している内にけっこう長文になってしまいました。今後もこういうパターンになるかもしれません。そして恩田ファンの皆様、すみません。この調子で続けてゆくのが、なんだかコワくもあります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。