【自作小説】クロッカスの舞う夜に。#11
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去年の10月半ば、朝から電車の改札機が動かないというトラブルに見舞われたあの日の夜、自宅へ帰ることが出来なくなった彼が、彼の同僚と来店した。
その日は従業員の多さに反してお客さんの少ない日だった。
私の働くお店では、従業員の賄いが出るのだが、休憩室が狭くカウンター席の端など、空いている席を見つけて食べることになっている。
いつものようにカウンターに座り、店長お手製の賄いを食べていると、2つ空席を挟んで座っていた彼に話しかけられた。
「あれ、やっぱり愛佳だよね?ここで働いてるの?」仕事中は気付かなかったのだが、彼は分かっていたようで、こちらの手が空いているのを見て話しかけて来た。
「えっ、あっ!ゆい君か!最初ナンパかと思ったよー」普段から酔っ払った男性客に声を掛けられることはあり、いつものように軽く受け流すつもりだったので、思わず驚いた表情を見せてしまった。
「久しぶりだね。元気だった?」彼は当時から変わらず、爽やかでかっこいい。密かに想いを寄せていたが、結局卒業まで想いを伝えられず連絡も取らなくなっていた。
「ゆい君こそ元気にしてた?全然変わらないね」
当時は頻繁に仲の良いグループで遊んでいたので、その時の雰囲気のまま当時に戻ったように話している。当時の話にさらに花を咲かせたい所だったが、彼の同僚の邪魔をしても悪いし、私の休憩時間も限られているので話はそこそこに切り上げた。
勤務に戻り、合間を縫って話すことは多少できたのだが、それでもやはり時間は足りなかった。彼らがお会計を済ませ、帰り支度をしている所が見えたので、入口まで送りに行った。
「ここ初めて来たけど気に入ったよ。愛佳にもまた連絡するね」
「偶然だけど来てくれてありがとねー」隣にいる同僚の方には丁寧に挨拶をして、「ありがとうございました」と見送った。
彼から連絡をくれるそうだったので、本当かどうか定かではないが、待つことにした。久しぶりにゆい君に会ったが、やっぱり当時のままかっこよかった。これは再び恋の機会が訪れたのではないかと思い、仕事が終わったら親友の美咲に連絡をすることにした。
「ってことがあってさー。これって運命かな?」
「運命とまではいかなくても、何かの縁ではありそう」
いつものように美咲とスタバで世間話をしている時に聞いてみた。昔から美咲には事あるごとに相談や悩みを聞いてもらっていた。恋愛のことに関しては特に冷静な美咲は、普段通り冷静に答える。恋の話となるとすぐに盛り上がってしまう私にとっては、いい解熱剤の役割をしてくれているし、良き相談者であった。
「また連絡するねって言ってたんでしょ?連絡は来たの?」
「まだ来てないんだよねー。でもまぁ昨日のことだし、そんなに焦らなくても良いかなって。」
「向こうはお酒飲んでたわけだし、そこまで期待しないようにね」
「分かってるって」何を言っても美咲には諭される未来しか見えないので、これ以上は何も言わないことにした。大学4年生の時も、ゆい君に告白したら成功するか相談したことがあった。一般的な女の子なら、絶対成功すると思うよと、半分無責任なようにも聞こえるが応援の言葉を言ってくれる。その時の美咲は、「確信持ってないなら、失恋した時が辛いよ」と保守的というべきなのか、辛辣と言えばいいのか分からないが、おすすめされなかった。あの時気持ちを伝えておけば良かったと、後悔していないと言えば嘘になるが、美咲のことを信頼しているので構わなかった。
美咲と2時間近く滞在し、そのまま今日は解散となった。
その夜、一通のメールが届いた。定期的に連絡をとるような人もいないので、そのメールの送り主はゆい君からだろうと検討はついた。
受信ボックスを開いて、新着メッセージの更新がされると、一番上に見慣れた、当時と変わらないメールアドレスの、ゆい君からのメッセージが届いていた。
『連絡遅くなってごめんね。来週の火曜日に愛佳のお店1人で行こうと思ってるんだけど、出勤してる?』
毎週火曜は出勤しているので、間違いなくお店にいる。すぐに返信してしまうと、メールが届くのをずっと待っていたように思われそうなので、あとは送信ボタンをクリックするだけの状態にして、返信は少し待った。
来週仮に来店したとして、そこから何か新たな進展はあるだろうか。彼は昔からそうだった。特に恋愛的な意識を持っていない女性にも、誰にでも本当に優しかった。「優しさが徐々に苦しくなる」と、そう言って別れを選んだ女性もいることを知っている。昔の彼と変わっていなのであれば、先ほどの連絡に深い意味は無いだろう。ただ単純に、気に入ったお店に昔の友達がいた。そして、そこで働いているから一応声を掛けておこう。そういった可能性も十分考えられる。考えすぎているだけかもしれないと感じ、私も変に期待をすることはしないようにしようと決めた。未送信フォルダの送信待ちのメールを開き、文末につけていた絵文字を改めて消してから、送信ボタンをクリックした。
火曜日までのたった3日間、意識しないようにしていたが、やはりどこか期待の気持ちがあった。ソワソワしながら週末の混雑、そして月曜の勤務を終わらせた。
火曜の夜18時ごろ、彼は本当に一人でお店に来た。前回と同じバーカウンターの席に案内をした。「一人で来るの嘘かと思ってたよ」と、会話に困った末に発した言葉ではなく、純粋に思ったことを言ってしまった。「本当にここのお店気に入ったんだもん」そう言って、薄暗い照明の中でも分かるような、白い歯を見せながら笑った。
「ありがとうね。今日マスターに頼んでカウンターに立たせてもらった」ゆい君をこの席に座らせたのも、実は計算通りだったのだ。
「お、じゃあずっと話せるわけだ」これが彼の悪いところだ。今風に言うと、あざといと言うやつだろう。
「最初何飲む?1杯目はご馳走してあげるよ」
「お、いいの?それならハートランドにしようかな」冷蔵庫から冷えたビールグラスと緑色のハートランドの瓶を彼の前に静かに置いた。少しふざけて、「お待たせ致しました。ハートランドでございます」と丁寧に説明すると、「かっこいいねー、いただきます」と褒めてくれた。
「仕事終わりに来るってことは、職場近いの?」
「そうそう、すぐそこ。まぁ職場って言っても図面引くことが仕事だから、どこでも仕事はできるんだけどね」
「けどすごいよね、自分の夢叶えてて。私なんか途中で諦めて、気付いたらバーの店員だよ。楽しいからこれはこれでいいんだけどね」
「こっちも楽しいけど、なかなか身を削る仕事だから楽な仕事なんてないんだよね」
火曜日にしては珍しく客入りがよく、その後はあまりゆい君と話すことはできなかったのだが、合間を狙って懐かしい話をした。1時間半ほど滞在し、お会計を済ましたゆい君が、「愛佳が休みの日、久しぶりにどこかご飯でも行かない?」と誘ってきた。テーブル席からちょうど呼ばれてしまったので、咄嗟に「いいね、行こう!」と返して、詳しいことはメールで決めることにした。退店間際に言われたら、考える暇があるわけない。これは一種の吊り橋効果に似たものだと思う。優しいだけじゃなく、実は女の子を扱うことに長けているのか。しかし2人でご飯へ行くことができるのは嬉しいことその他ない。
私の仕事が終わると、ゆい君から一通のメールが届いていた。今日はご馳走様でしたという内容と、退店間際に話したご飯の件だった。
私が今週の金曜が休みだったので、可能かどうか聞いてみた。ゆい君もその日は仕事が長引くことはないそうなので、早速日程が決まった。3日後、ゆい君と初めて2人で会うことになる。2人でご飯へ行くと言う事実があれば、美咲も脈アリを認めざるを得ないだろう。美咲に今すぐ報告したくてたまらなかった。
次の日、話を聞いてくれた美咲は「これは脈アリだね」とあっさり認めた。むしろ協力的で、金曜日の作戦を立てようと、私より乗り気でいる。
「髪型とかメイクとか、それも大事だけど、匂いって大切だと思うの」普段に増して前のめりで話してくる美咲が少し面白い。
「うんうん。香水とかってことだよね」
「そう。愛佳は香水あまりつけないけど、纏つけてみな。絶対イチコロ」
「香水かぁ、秋だし金木犀とかいい感じ?」
「金木犀いいと思うよ。きつい匂いでもないし」
「わかった、明日買ってみる」秋だから金木犀の香り、という選び方が果たして最適解なのか分からないが、変化を出すことはできるだろう。
昨日決めた通り、駅ビルの中に入っている香水ショップへ向かった。慣れないお店に戸惑っていると、それを見兼ねたのか、マニュアル通りなのか、同世代くらいの若い女性の店員さんが声を掛けてくれた。普段ならお店で声を掛けられることに抵抗を感じていたのだが、今回ばかりはとても助かっている。「どのような香りをお探しですか?」という質問に「金木犀みたいな香りを」と、秋だからという理由は明かさずに伝えた。
「金木犀ですね、ちょうどシーズン限定の香水が発売されているところですよ。これなんかどうですか?」とオレンジ色のラベルがついた、秋らしい瓶からテスター紙に少量をつけて渡してくれた。細長い、リトマス紙のような紙を、顔の前で軽く振る。
金木犀の香りが優しく感じられ、万人受けしそうな印象だと思った。元々金木犀の香りを求めて来たので、他の香りは見ずにこれに決めた。是非今から付けてお帰りくださいと、店頭の香水を手首、首元それから軽く服へ振ってもらった。歩くたびにほんのりと香るのが、私も気に入った。
その夜、ゆい君から連絡が来た。仕事が17時に終わるので、駅に17時半に集合ということになった。場所は、火曜日に1人で来ていた時に、ゆい君が絶賛していたお店に行くことになった。センスのあるゆい君が絶賛するお店なので、期待が膨らむ。
クローゼットを開けて、夜の一人ファッションショーが始まる。服と靴、そして鞄を決めて、肌のコンディションを整えるために普段よりスキンケアを丁寧に行った。次の日が休日だと、深夜まで録画していたテレビを観ているのだが、今日は22時には期待を胸に、目を閉じた。
遠足に行く小学生が、いつもなら母親に起こしてもらっているのに、いつもより早く目が覚めてしまう現象に名前をつけたい。
日中は予定がないので、目覚まし時計を準備していなかったのにも関わらず、朝七時には起きてしまった。柄にもなく朝から紅茶を飲み、朝食も作ってみたりした。毎日こんな生活水準の高い生活ができればいいのだが、きっと明日からは元に戻ってしまっているのだろう。
のんびりと朝食を作り、テレビの電源をつけるとちょうど占いのコーナーだった。うお座の私は、12位と運には見放されている1日のようだ。ラッキーアイテムに舞茸とあったのだが、食べろということなのか、持ち歩けというのだろうか。占い師の占い結果によるアイテムならいいのだが、たまに舞茸のような無理をいってくるアイテムがある。番組制作側の大喜利なのではないかと疑っているのは、きっと私だけではないはずだと思う。
昨夜観ないで寝たため、溜まっていた録画番組を見て時間を費やした。ひとつ終わらせてはやれる事がないかと探し、ようやく夕暮れ時になった。昨晩のファッションショーで予め決めていたコーディネートに身を包み、玄関においた金木犀の香水を一振りし、家を出た。
待ち合わせは市内で一番栄えている駅の南口。噴水のある広場での約束だった。ゆい君とほぼ同時刻に噴水広場へ到着した。オフィスカジュアルで、薄いベージュと茶色を合わせた秋らしい服装のゆい君が、噴水へ向かって歩いているところを見つけた。
「ゆい君、おつかれさま」
「お、ぴったりだね。予約してるお店あるから早速行こいうか」と、事前に教えてくれていたCHRONOSTASIS(クロノスタシス)というお店へ歩き出した。ホームページには駅から徒歩10分と書かれていたが、実際は5分ほどの近い距離にあった。
待ち合わせ場所から5分ほどのところにあるこのお店は、表に小さな立て看板がある程度のこぢんまりとした佇まいの雰囲気だった。
看板に書いてある通り、地下に続く階段を降りていく。扉の前に着く手前で、私達が来ることを予知していたかのように扉が開く。
タキシードを着た若い店員さんが、出迎えてくれる。ぎしっと音が鳴ったフローリングの店内に足を踏み入れたところで改めて、いらっしゃいませと一礼をされ席へ案内される。店内はクラシックのBGMが静かに流れる、落ち着いた大人の空間だった。私達の他にお客は2組しかおらず、会話が聞こえそうなほどである。
目の前には私と同い年か、少し年上のように見える男性のバーテンダーが、カクテルグラスを仕上げ用のクロスで拭き上げる。その後ろには壁一面の棚にウイスキーや他のリキュールが置かれている。
天井からはシャンデリアが吊るされており、落ち着いた空間にも華を咲かせている。
渡されたメニューにはお酒の名前と値段だけが書かれていた。大衆居酒屋ばかりに行く私には、ブラッディメアリーやスプモーニといったカクテルが、どの様な味で色なのかも分からない。普段から飲むカシスオレンジを私は選び、隣のゆい君は、ヒューガルデンというビールを注文した。
目の前のカウンターで私たちのお酒が注がれているところで、自然な雰囲気で辺りを見回す。左の壁には、見たことのあるタッチの有名な画家が描いたであろう、夜景と星が輝くどこか哀愁漂う切ない油絵が、木の額縁に飾られていた。
お店のロゴマークが書かれたコースターに、丁寧に音を立てず二つのグラスが置かれる。グラスを手に取り、乾杯をする。
昔から気を遣わない相手だったので、話が絶えることは無くあの頃に戻ったように話が盛り上がった。ゆい君は第一志望の会社に内定を貰い、実績を積んでいることを知っていたが、改めてその話を聞くと尊敬する。
「来月大きなコンペがあってさ、それに通るとかなり夢に近づくんだよね」自慢しているようでごめん、といった顔で話しているが、微塵もそんなことは感じることは無いし、本当に応援している。
「本当に応援してる。コンペ通ったら私もそれ使わせてね」明日の決勝に勝って、甲子園に連れて行ってとエースに話す野球部員のような感情で、真面目に伝える。
話が一転二転と流れていく中で、真人君の話になった。学生の頃、私の親友の美咲のことを好きだという事は知っていたが、実らずに終わった。それが今でも続いているようで、ゆい君は真人君からその話をずっと聞かされているらしい。4人でまた集まろうと話すゆい君に賛成し、後日美咲に聞いてみる事にした。
2時間ほど滞在し、店内が賑わって来たところで私たちはお店を後にした。学生の頃によくやっていた、一の位からジャンケンでお会計を決める方式で、私が最後の最後に千の位で負けてしまい、大半を支払った。この歳になって場をわきまえなければならない環境で、関係なしにジャンケンをしてしまう私たちが馬鹿らしくも、楽しかった。この先、大学時代の仲の良い友達という関係では無くなることを願って、今日はお開きとなった。
#12 へ続く
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