異性介助は性的虐待か否か③
大変!!!非常に!!!ご無沙汰しております。なんでこんなに放置してたのかと言われると、ええと、
しんどかった
んです…すみません…
毎日眠れず心も体もガチガチにこわばって何もできない日々が続きました。
誰に助けてもらうでもなく、自分が自分を助けてあげなければならない、
でも自分に優しくする術を知らない愚かな私です。精進します…いずれ、うつや神経症についても話題にする時が来ると思いますので、
細かいことはその折に。
で。
前回の「異性介助は性的虐待か否か②」のおわりに書かせていただいた、
「受け手側にバイアスはないのか」という問題について考えたいと思います。
Yahooの記事に寄せられていた宮下公美子氏のコメント
こちらについてです。
「専門性」が免罪符に成り下がっている
これはあくまで個人的な経験から感じることなのですが、私はいわゆる医者、ドクターには非常に横柄な態度を取られることが多いです。私はそのような医師にはかかりたくないし、やむをえず診療を受けざるを得ないのであれば、そのような態度については指摘もします。医師と患者に上下関係などあろうはずがないので。でもこれはあくまで私の個人的な考え。当たり前だけどいいお医者さんもたくさんいるし、私にだって信頼しているドクターはいる。ただ私は絶対に医師を「先生」とは呼ばない。敬意は持つけど、上下関係があると履き違えられたくないので。
宮下氏のコメントにあるように、医療を必要としている患者は、医師や医療従事者に対して「けがや病気を治してくれる、他にはない知識と技術」を最も強く求めています。自分では治せない、自分にはない「特殊技能だから」とでも言いましょうか。
そして、そんな力を持った稀有な存在である医師=自分や自分の大切な人の命を救ってくれる貴重な存在を、世の患者たちは敬意を持って「先生」と呼びます。多少キャラクターに難があったとて、確実に求められている医療を提供し、けがや病気を治してくれさえすればその程度のことは看過される。そんな風潮にあぐらをかいた医師たちが、私の見てきた「横柄な医者」になるのでしょう。『ブラックペアン』の渡海君くらい唯一無二の技術があるというならまだしも…(というか彼はべつに患者には不愛想なだけで横柄ということもなかったし)。
ここにも、前回の話にもあったような「仕方ない」のマインドが根付いていると思いませんか。「治してもらうんだから仕方ない」のマインド。「俺は医者なんだから当然だろ」のマインド。
私は「専門性への信頼」というよりも「自分にできないことをやってもらう以上口出しできない」とか「高い専門性を持ったプロの言うことやることだから仕方なく受け入れないと」の「あきらめのマインド」が幅をきかせているんじゃなかろうかと思っているんですよ。
とても嫌な言い換えをするならば、高い専門性があれば相手を「あきらめさせる」ことができる、とも言えますね。
つまり、これはあくまで考え方のひとつ、あくまでひとつの側面ですよ???介護職という仕事において、その専門性が明確に認知され、そしてその専門的知識や技術が明確に示され確かに提供されれば、相手に「異性介助をあきらめさせることができる」「黙らせることができる」、とも言える(この言い方怖いな~~~本当に、あえて視点を変えるならそうとも言えるよね?ってことですからね!?)、と…。
医師と介護士が、同じように職務において異性の体を見たり触れたりする場面において、医師は許され、介護士は「性的虐待だ」といわれるのはなぜか?という問いに答えるならば、上記のような回答になるのでは?ということです。つまりは、介護職において必要とされる専門性を、介護を受ける側やその関係者は、あるいは世間一般は「知らない」「認識していない」。極端な言い方をすれば「大変なだけで、やろうと思えば誰でもできる仕事」だと思われているのではないでしょうか(極端に言えばね)。
さらには、そもそも介護従事者自身が、自分の仕事がいかほどに専門性を必要とする仕事であるのかを認識していない。だからいつまでたっても介護は「しんどくて」「汚くて」「面倒で」「忙しくて」「給料も安い」仕事だと思われている。そしてそんな仕事だという前提があるから、「この仕事を選ぶのは余程ボランティア精神の高い優しい人か、他に仕事を選べない落伍者だ」というイメージが定着する。
これは偏見でもなんでもない、ここは強く明言できます、介護はそういう仕事だと思われているし、そのイメージが故に高い志を持つ人は「金銭的報酬を諦めて取り組む」し、人手不足に苛まれている現場では志なんてお構いなしに藁でもつかむ。
受け手も、提供者側も、どちらもが介護という仕事を「理解していない」が故に、受け手が専門性を求めることもないし、提供者が専門性を持とうともしない、というとんでもない状況です。
介護という仕事は、それはそれはとんでもなく高い専門性と技術・知識を要する仕事です。それを認識して、専門性を磨き、現場で自信をもって発揮する、異性であるから性的な目で見るのだろう?などと言わせないだけの「専門性への信頼」を勝ち得る努力を、介護従事者には求めたい。(先ほど「あきらめさせることができる」「黙らせることができる」なんて言いましたが、あくまでそれは「医師は許されている」という言い回しに対して「患者は医師を許してるわけじゃなくて諦めさせられてるだけ」ということを言いたいだけですので…)
そして、介護職がそのような専門性を必要とする仕事なのだということを、国も、人も、「知る」努力をするべきであると私は言いたい。そして確かな専門性を持ち発揮する介護従事者に対し、確かな「報酬」を支払い、介護という仕事の社会的地位と信頼を確立する必要性を早く理解してほしい。
受け手のジェンダーバイアス
さらには、受け手側は「異性だから性的に見るはず」というバイアスについては考えるべきですよね。男性介護士だから女性を性的にみるはずだ、とか。まあそれも無理はないというか、それだけ多くの男性が女性に対して相応の扱いをしてきた結果ではあるのですが。
しかしそんなことを言ったら、オカマが吠えますけれども、私が男性の排泄介助をすることは性的虐待にはならないと思いますか?って話なんですね。ゲイの介護職員さん、きっといます。レズビアンの介護士さん、必ずいます。自分を性的に見るかもしれない人に身体介助をさせるのは性的虐待だ!と言うのなら、誰がどんな目で自分を見ているかなんて、本当のところは把握しきれないですよね。
相手が女性だから「安心だわ~」なんて言ってて、ある日その女性が「私レズビアンなんです」って言ったら途端に「虐待だ!!」って言い出すんですかっていう話で。問題点はそこではないですよね?
重要なのは「相手が異性かどうか」ではなく「相手が本物のプロかどうか」だ、って思うんです。異性の介助は虐待だ!ではなく、異性であっても理性をしっかりと持ち、個人的な感覚や感情は一切排斥し、持てる専門性・知識・技術を発揮し適切なサービスを提供し、介護を受ける人々が安心して自分自身の「生活」を送ることができるように職務にまい進する「プロフェッショナル」であること。そこを、受け手は強く求めていくべきなんです。買い手が質を求めなければ、売り手は商品を見直したりしないし、質の高い商品を作るために投資したり研究したりもしないんです。
安く仕入れた粗悪な商品でも買い手がついてしまう現状、安く粗悪な商品しか選べない現状、商品の質を上げたいと思っても投資する資源がない現状、日本の介護業界は本当にジリ貧なんです。どこから手を付けていいのか、誰もが迷っています。
かといって!国にああしろこうしろと言ったとて、ただそれを待つだけでは仕様がない。私たち市民は
買い手として、質を求める購買行動をとること
売り手として、限りある資源を最大限活用して商品の質を高めること
商品そのものとして、自身の質を磨くよう研鑽すること
なら、すぐにできます。
もっと求めていい、あきらめなくていい、求めて、もちろん自分も与えて、経済を回すことと同じです。
介護はビジネスだし、商品です。受け手は買い手です。一所懸命稼いだお金で介護商品を買っているんです。見合ってなければ怒っていい、質を求めていい、その代わりその質・プロとしての「専門性」を信頼して、任せて欲しい。介護事業所は売り手です。商品を磨いて質を高めて、信頼を得なければ、買い手は離れていきます。介護士は商品です。自身のプロとしての働きで信頼を勝ち得て、もっとこの商品を使いたいと思わせてほしい、磨かれた自分に国や企業がもっと投資するべきだと訴えて欲しい。
というのが、件の記事を読んだ私の感想でした。
話が膨れ上がってしまったかもしれないけれど、まとめると
「異性介助イコール性的虐待」ではない、
「信頼のない介助はだれが何をやっても十分虐待になりうる」
という感じでしょうか。
一度定着したマインドを切り離すことはものすごく大変、介護を受ける側も提供する側も、まずは自分が変わろうとするところ、自分が学ぼうとするところからがスタートなのかな、と感じた次第です。
長文失礼いたしました。
…今後は週1更新します!!!!!!
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