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信じるものは救われる?

信じるものは救われる?

はたしてそうだろうか?
そもそも、この言葉は一神教である、キリスト教やイスラム教からの派生した考え方ではないか?

古来、日本では八百万の神がいる。
これが何を意味するのかを考察してみた。

結論からいうと、日本人は、神の存在をそばに感じている。なので、神を信じるか否かという観点で考えないから。

それぞれの地域に神さまがいて、ひとつの村を守ってくれているという概念があったからではないか?

一神教が存在して、それを信じている、諸外国からみれば、日本という国は理解し難いのではないか?

とくに、キリスト教の信者ではない人が、クリスマスを祝ったり、教会で結婚式を行ったりしている。挙げ句の果てには、年が明けると初詣に行ったりしている。

色々な宗教が日本に入り込んではいる。
しかしながら、どの宗教も、完全には日本には、根本的には根付いていない。

極論を言えば、宗教間の対立は日本では起きていない。

こう書くと、隠れキリシタンを見つけるために、踏み絵をさせたり、弾圧したりした過去あると指摘される。

確かに、そういった側面もあるが、そもそも、キリスト教の宣教師が日本に訪れたのは、日本を占領しようと目論んでいたからともいえる。

諸外国の信仰は侵攻の意味合いが多分にあった。結局は、信者が増えれば、実入りが増えて、実社会に生きているものに利益が享受されるから。

そもそも、宗教が産まれた背景を考えると理解しやすい。

ボクたち祖先が火という武器を手に入れたとき、あらゆる動物たちを凌駕したといえる。それでも、自然災害、天変地異などにより、どうしても人智ではこえられないものに対して恐れ慄いたことだろう。

どれだけ、素晴らしい文明を築き上げても、地震や干ばつ、気温や天候により、生きていく上で必要な食糧を万全に得られない。

だからこそ、雨が降らずに田畑が枯れ、それらを食べている、すべての生きものが飢え、個体数がへり、食物連鎖で頂点にたったヒトも死んでいく。

それらを防ぐ意味で、雨乞いやら、人柱をたてたりしている。

神とは全知全能という存在だと思っていないか?

ホントにそうなのか?

もし、そうであれは、なぜ神は怒るのだろう?旧約聖書では、バベルの塔では、神に近づこうとして、高い塔を立てていたところ、神の逆鱗にふれ、塔はくずれ去り、それまで、ひとつの言語だったものが、簡単に意思疎通できないように、さまざまな言語が産まれた。

あるいは、ノアの方舟では、傲慢になった人類をリセットさせるために、ノアの家族、動物のツガイを乗せて、洪水を起こして、やり直そうとしたりしている。

それが、神の配剤なのかどうかは知らない。

それこそ、神というのは、思い通りにいかない人類をみて、癇癪を起こして、自分が統治しやすい世界を創り上げようとしているだけではないのか?

そう考えると、日本ではさまざまな神がいる。イザナギとイザナミにしても、どこかヒトとしての側面を残している。

イザナミは、火の神を産み落として死んでしまう。そこから、黄泉の国へと渡る。イザナギはそのことに対し、落胆し、やはりイザナミがいないと生きていけないと感じ、黄泉の国へと向かう。

ここからの展開も非常に人間味がある。端折って書くと、イザナミの姿は以前のように眉目秀麗ではない。そのことを知らないイザナギ。

決して自分の姿は見ないようにと伝えていたのにも関わらず見てしまったイザナギをイザナミは許すことが出来ずに、最終的に呪いの言葉をかける。

これは有名な話だ。

あと、天照大神がヘソをまげて天岩戸に入り込んだとき。陽が灯さない世界では、この世が終わるから、天岩戸の前で、楽しく宴会をして盛り上がり、それをキッカケにして、天照大神を元に戻したりと、非常に人間味があふれるエピソードだ。

こうして書くと、神は人によって創られた存在ともいえる。それでも、ヒトの心に神という存在があるのは、ひとえに、死という概念を恐れているから。

ヒトは死ねばどうかるのか?

それは、未来永劫、解けない謎なのだろう。明確な答えは存在しない。

虎は死して皮を残す、ヒトは名を残す。

これらは、歴史上に残っている先人たちだけではない。これだけ多くの人類がいる中で、何も名を残すことは出来なくても、ジブンという存在が生きていたことを知ってくれている。

そういったものが延々と廻っていくだけで、ヒトというのは存在しているのだろう。

始まりがあれば終わりはある。

はたして、この先、ヒトの想いは永遠に続くのか否か?
そう考えると、ロマンがあるよね。

ヒトをヒトとして垂らしめているのは?

恐竜が絶滅したかのように、いずれは…

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