物語は優しい嘘の集まり
皆さんは小説を読みますか。小説を読む意味。それは人それぞれです。そこに意味なんて求めていない人もいるかもしれない。しかし、少なくとも1読書人としての私はそこに意味を求めて物語に触れています。
娯楽、現実逃避、知識の吸収。求めるのはこんな感じでしょうか。今回は娯楽と現実逃避について触れていきます。
前述した中で根底にあるのは、物語というコンテンツを純粋に楽しむ感情です。新しい作家さんを探したり、流行り物を読んだり、今までにないジャンルに手を伸ばしたり。無限に増え続ける、物語というコンテンツの楽しみ方もまた、無限と言っていいでしょう。私は「食わず嫌い」という言葉が嫌いです。自分で体験しないと良し悪しなんてわかりはしないのに、なぜ嫌いと決めつけてしまうのか。読書も同じです。読む前から、どうせ自分には合わないと諦めてしまっていては、その作品にハマる可能性を殺してしまっています。非常にもったいないし、悲しいことです。無限の可能性を秘めているこのジャンルにおいて「食わず嫌い」だけはしないでもらいたい。
娯楽面については共感してくださる方も多いと思います。では現実逃避とはなにか。
爽やかな作品を読んで気分が晴れやかになる。逆に切ない作品を読んで心が静まる。物語から影響を受けやすい人は、私を含め登場人物にものすごく感情移入をして読むタイプの人でしょう。物語を追体験している、というと言い過ぎかもしれませんがそれに似ているのはたしかです。その物語を読んでいる間は、自分は自分でなくいられる。今抱えている不安や悩み事、辛い出来事から現実逃避をすることができる。物語の中の自分は、こんなにも楽しんでいて笑っていると感じることでいっときの気休めになるのです。逃げてきたことが、いずれは向かい合わなければいけないことだとしても、「今」受け止めるには辛いこともあるものです。
いくら現実を参照していたって、書くことは、本質的に、嘘をつくことだ。ありのままの現実を写し取ることはできない。
過去や現実は、言葉でできているわけではないから、それを言葉に置き換えた時点で、どんなにリアルなことも、それは全て嘘になる。だから、本当の意味では、ありのままの現実を文章にすることなんてできない
出典:『この世界にiをこめて』|佐野徹夜|アスキー・メディアワークス|2017年10月25日
現実や感情は、人に伝えるためには言葉にする必要がある。声を使わず伝えるには、さらにそれを文章にする必要がある。相手に対して完全に伝えることは、いくら多様な形態がある言語をもってしても不可能です。そういう意味では、物語も作者の描きたいこととは少しずれているのかもしれません。
しかし、物語は論文や報告書と違って、読み手に解釈の余地が与えられているのが魅力的な部分の1つです。小説の中の登場人物は、読み手それぞれの中で少しずつ違った生き方をしているのでしょう。
前述した言葉に倣うならば、物語は解釈の余地をくれる優しい嘘の集まりなのです。そして私は、そんな優しい嘘の虜なのです。