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そちら側の人間になりたい。己を隠したくない。

理性的に生きる。人間皆、常に理性的に生きていれば、この世は今より比較的平穏かもしれません。己の感情を御することができ、常に冷静でいられる。しかしそれが理想的だとは決して思いません。

私は、己が比較的理性的な人間であると考えています。しかし理性的であることに満足してはいません。感情的に生きている人。自分に正直に生きることができる人が、羨ましく思うことが多々あります。
常に他人からの評価を気にしている自分。空気を読もうと必死な自分。怒られるのを怖がっている自分。そんな己の姿を、俯瞰的に観測している自分を認識することがたまにあります。ああ、今私は私を隠していると。
私は私だと言える勇気、度胸。理性的な人にはなかなか踏み出せない一歩です。しかし感情的に生きられる人は、その一歩を大股で踏み越えていく。憧景の眼差しを向けざるを得ません。

世間一般的ないい子を演じていては、個性が消えてしまいます。生まれるのは「量産型いい子」です。いい子だけれどその子の特徴は、と聞かれると答えに窮する。それでは人の記憶に残りません。
学校での人気者、クラスの顔のような存在は「量産型いい子」ではなくはないですか。先生に怒られることもあり、友達とも喧嘩をする。しかし人望はあるし、なんだかんだで皆に愛されている。不思議なものです。
しかしこれが個性なのかと、感情的に生きていることが人を惹きつけているのかと、そう感じさせられるのも確かです。私はそちら側の人間になりたい。己を隠したくない。

悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。

出典:『こゝろ』|夏目漱石|岩波書店|1914年9月

夏目漱石は上記のように、人の内には善と悪が両方ある。善人と悪人は、もともと二分されているわけではないのだと綴りました。いざという間際には誰しもが悪になる可能性を秘めている。
この文の本質とは少し離れてしまいますが、考え方の枠組み自体を先ほどの話に当てはめてみたいと思います。

平生は理性的な人物でも、いざという間際には感情的に己を表すことができる。逆に、平生は感情的な人でも、いざという間際には理性的に己を律することができる。

これは理性・感情的な人が求める理想ではないでしょうか。理性的にしろ、感情的にしろ、どちらか一方に本質は偏るものです。そして自分ではない側の本質に憧れる。憧れは持っていないものに対してのみ抱くものですから。
自分は理性的一辺倒ではなく、いざという時には感情的になれる。己を主張できる。その一歩を踏み出す勇気を持っているのだと思っていれば、力を発揮できる場面が来るかもしれない。そう感じた一日の始まりでした。

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