東野圭吾『変身』
大学を卒業し,就職して早3か月.仕事や生活などの変化に見事なまでにのまれ,noteに日誌を書く時間も捻出できなかった (というのは嘘になるが...).しかし,新生活のドタバタも収まり活力にも余裕が生まれたので,表題に挙げた「変身 (東野圭吾)」を何の気なしに読んでみた.ところで,この記事はあくまで日誌であるので本の感想については大きく触れず,自分の思う事をつらつらと書き述べる.いかにも本のレビューをするような紛らわしい表題を掲げており,誤クリックを誘発しかねないトラップになっていることに関してはご了承願いたい.
以下の文章には若干のネタバレを挟むので,こんな駄文で本の内容を知るのは不快だ,と思う方がいるとすれば申し訳ない,の一言に尽きる.
この小説の大まかな展開としては,
ある事件に巻き込まれ脳の活動が不全となった主人公が「他人の脳の一部を移植」することで人間活動ができるまでに回復する.しかし,移植された他人の自我に心が侵食され,元の自我を失いかけてしまう.そんな主人公が元の自我を保とうとする心,それとは無関係に動いてしまう心と体,その狭間で葛藤する物語である.
話の中で主人公が話したセリフがこうだ.
「生きているというのは,単に呼吸しているとか,心臓が動いているとかってことじゃない.脳波が出ているってことでもない.それは足跡を残すってことなんだ.後ろにある足跡を見て,確かに自分がつけたものだとわかるのが,生きているということなんだ.」
このセリフから自分の人生を振り返ると,今までの体験や思考を振り返ることができるが,それがくっきりとした足跡としては残されていないのでは,と思ってしまう.自分が今持っているもの,例えば部屋の中を覗いてみると,タンスや椅子,散乱した服,大学の教科書...,等は見られるが,それらがあることについて,これを自分がつけた足跡だ,と言い切ることが出来ないと考える.つまり,これらはたまたま自分が手にしただけであり,その源流を辿れば,必ず先に自分以外の手,思考が加わって形を成しており,だれかの手によって自分の足跡をつける位置が決められていた,そんな風に思えてならない.
では自分が他人の足跡をつける位置を決められるようなものを残せているか,今を考えてみると何もない.何もないわけではないのかもしれないが,少なくとも自分が考える範囲内では見当たらない.今になって,その事がどうも空しく感じる.別に誰かを武力や権力で掌握し,無理やりにでも足跡をつけさせたい,そんなサディスト的な思考で言っているわけではない.だが,自分が生きていること,それを自分の足跡からしか,いや,自分の足跡からもうまく探れない現状がどうも心苦しい.今後,「これが自分の足跡だ」と明確に思えるものを残せるのだろうか.それに悩みながら行動する事こそ生きること,生きていくことなのかもしれない.