嫌われる勇気(アドラー心理学)の致命的すぎる問題点
それは、自分と他人の課題を分離するの点である。
書きなぐりなので構成適当ですすいません。
勉強しなかった結果は本人に降りかかるから親じゃなくて本人の課題であるって書いてあるが、子供が勉強しなかった結果は親にも降りかかるだろう。引きこもりも同じである、引きこもった結果は親にも降りかかる、ドラ10の事件もそうだし、感情的にも子供が引きこもることは辛いだろう。なので、子どもの引きこもりをなんとかする親は、子どものためではなく親が自分のために子どもを引きこもりから脱するというのが正しい。
そうなると引きこもりや勉強といった課題は子どもの課題でもあり親の課題でもある。なので、本にあるようにその課題が誰の課題なのかを見極めるというのはおかしい。複数の者の課題である可能性があるのだから。なので、その課題が自分のなのかどうかを見極めるのではなく、どこまでが自分の課題なのかを自分で決めるというニュアンスが正しいのではないか。
その場合、どっちの課題なのか取り合いになる。もしくは課題によっては自分の課題ではなくてお前のだ、と押し付け合いになるだろう。それは争い、もしくはパワーバランスで決まる。
なので、他人の課題を切り捨てようとしても自分より強い他人が切り捨てさせてくれない場合がある。そういう主体的に自分のことを決める勇気をもっていても力がないから実行できないことをどう扱うかが抜け落ちている。重要なことだと思うがそれは続編含めてちゃんと書かれておらず、逃げていると思う。競争するなみたいなことは書いてあるが、アドラーなんか知らねえよといいながら浸食してくる他人をどうするかは書いてないのだ。
自分なりに考えたその部分についての解釈の前に少し話を広げる。
自分と他人の課題、というと自他境界やパーソナリティ水準を彷彿させる。
パーソナリティ水準が境界水準だと自分の課題を自分で抱えられずに他人の問題にしようとしたり、その逆をしてしまう。そういう視点でみると他人の課題を分別して切り捨てることができるのにはパーソナリティ水準の成熟が必要になる。
しかし実際に他人の課題を切り捨てることをできるパワーをもつ人はあんまりいないだろう。なので、パーソナリティが成熟している人は、他人の課題を切り捨てているのではなく、争いやパワーバランスによってできあがってしまった現状の自分と他人の課題の境界線についてしょうがないと折り合いをつけて受容しているということになるのではないかと思った。
受容についてはp227-229で触れており、共同体感覚を獲得するのに必要なものの一つが自己受容とされている。しかし自己受容をするかどうかは結局勇気だと、そりゃないだろ・・・。ちなみに共同体感覚は対人関係のゴールであり、他者を仲間とみなし、そこに居場所があると感じることだそう。
厳密な意味で自分と他人の課題を自由自在に決められる人はいない。全く決められない人もいない。それぞれが決められる範囲があるだけだろう。なので、自分で決められないものは仕方ない、他人の課題を押し付けられたり、自分の課題を奪われている状態を仕方ないと受容できるか、つまりクマと格闘しても勝てないのは当然だと思うように、自分の力ではどうしようもないものについての執着を捨てられるかどうかだろう。それを勇気でなんとかしろというのはぶん投げすぎ。クマに勝てないから格闘をやめ、自分の生き方を見つける。引きこもりを引きずり出す親は親も自分の課題で必死なので、強い方が勝つことになる。家から引きずり出されるのだ。ただし目的は子どもにとっても悪くない、将来性のある目的である。親に勝って引きこもりを続けられる何らかのパワーを獲得するか、別のフィールドで生きるしかない。それを親のせいにせず、どういう意味を持たせるかは自分次第であるというのがアドラー心理学の根底のトラウマ否定、過去否定のテーマだろう。
そしてそれ(自己課題の線引きの不自由)を受容できるようにするのが皮肉にもアドラーの嫌いな精神分析なんじゃないかなと思った。精神分析の目的はいろいろあるだろうけど自分の人生に納得して生きられるようにすることだからだ。勇気を持てよりもよほど現実味がある。
というわけで嫌われる勇気は大ヒットしているが、課題の分離において利害が衝突する状況を無視しており、無視(要は否認)する理由はアドラーの嫌いな精神分析理論に帰結してしまうからだろうというのがこの記事の結論である。嫌いな精神分析理論に絡めとられてしまうとは、哀れなアドラーよ。
(岸見一郎さんという方の書いた嫌われる勇気とその続編しか読んでないのでアドラーは本当はちゃんとこの部分に触れてるかもしれません、そうだったらすいませんアドラーさん。)