夜のお弁当
「行きます」
19時過ぎにLINEにいつもの着信。校舎の階段を降り薄暗い自転車置き場に向かう。自転車の前カゴに置かれた弁当を手に職員室に戻った。炊きたての白いご飯は温かく柔らかく、口に含むとふっと全身から力が抜けていく。
ずっと全日制高校で勤務してきたのだが64歳になる今年度は定時制の病休代替講師として働くことになった。勤務は12時50分から21時20分まで。赴任にあたって家族と相談し、健康を維持するために長年の習慣を変えず起床と就寝の時間は動かさないことにした。せめて朝食は家族全員で一緒に摂りたいという思いもある。夕食の時間もこれまでと同じ19時ごろにしたい。幸い勤務地が自宅に近いこともあり、妻が夕食の弁当を毎晩届けてくれる事になった。ありがたいことだ。
生活リズムは大きく変わった。これまではずっと朝から一気にテンションを上げて授業や校務を行い夜にかけて次第にクールダウンしていき翌日に備えて眠る日々だった。定時制勤務は逆だ。朝はゆっくり過ごし昼から勤務を開始して夜の授業に一日のピークをもっていく。勤務が終わったら一気に緊張を解き翌日のために身体を休めなければならない。
勤務が始まった四月には帰宅時に玄関の前で何度かめまいを覚えた。身体が慣れるまで自室で午前中ぐったりと身体を横たえたりした。
特にキツかったのは月曜日だ。90歳の母は認知症が進みつつあり、7年前に父が亡くなった事もあって一人暮らしは困難だ。ほぼ施設で生活しているのだが帰宅願望が強く、夕方になると不穏になり折々に私のスマホに「帰りたい」「迎えに来て」との訴えが届く。せめて週に2回は自宅で過ごさせようと、数年前から土日に実家に連れ帰り寝食をともにして世話をしている。日によっては夜中に何度も起こされて幻覚とおぼしき訴えを聞かされたりする。そのように土日を過ごして月曜の朝に母を施設に送り、昼に出勤して夜まで勤務。さすがに堪えた。
夏休みが始まると勤務は8時25分から16時55分、全日制と同じパターンに切り替わる。これで少しは身体を休められると思っていた矢先の8月2日、施設から母発熱の知らせが。コロナ陽性。幸い熱はすぐに下がり特に後遺症もなかったのだが、定められた期間は自宅療養しなければならない。覚悟を決めて実家で私と母、二人の生活を始めた。
三度三度のご飯と洗い物、洗濯、掃除、紙おむつの交換、お風呂。母の堂々巡りの繰り言を聞きながら一日を終える。蒸し暑さに耐えて終日マスクをつけ扇風機とクーラーを併用して換気につとめたおかげか、幸い私は最後まで陰性。濃厚接触者には短時間の買い物は許されている。夕方に母を車に乗せたまま慌ただしく買い物を済ませ人目を避けるように帰宅するのが唯一の外出だった。
家族の支援による缶詰やパックご飯などの食事が続いたある日、久しぶりにスイカを買って食べた。ほとばしる冷たい果汁とみずみずしい食感。その鮮烈さは生命力そのもののようだった。身のうちに涼風が吹く。やはり私たちは生命をいただいているんだと感慨深かった。
毎朝の保健所からの電話に「特に症状はありません」と答えながら自宅待機が明ける日を待っていたのだが、コロナで施設が二度も閉鎖になるという悲運に見舞われ、8月に自宅の布団で眠れたのは9日だけ。完全に平常の生活に戻れたのは結局2学期が始まる9月1日だった。
そのまま怒涛の2学期が始まった。文化祭や遠足などの行事が次々とあり昼勤務と夜勤務がめまぐるしく入れ替わる。10月には秋入学の生徒のための昼授業がスタート、年末からは生徒の機関誌編集作業にとりかかり、ますます多忙に拍車がかかる。文字通り師走。
3学期も卒業式や入試などで夜勤務と昼勤務が日替わりでやってきた。朝に出勤してそのまま夜の勤務に入る13時間勤務という日さえあった。ようやく3月の下旬に終業式を迎え残る春休みは昼勤務のみ。ああ何とか乗り切った。
年度末のあれこれを片付けながらくぐり抜けてきた一年をふりかえる。めまぐるしい生活の変化に何とか対応し健康を維持できたのは、すべて日々の軸となる妻の弁当のおかげだ。慌ただしい勤務の合間に卵焼きや煮物などの普段着のおかずと温かく柔らかいご飯を口に含むと優しい味に身も心もほぐれる。思わず涙がにじむこともあった。
来年度からの見通しはまったく分からないのだが、今の体調ならまた新しい挑戦ができそうな気がする。風雨寒暑に耐えて一年間、職場まで弁当を届けて生活を支えてくれた妻に心から感謝したい。ありがとう。これからもどうか一緒に。もうすぐ桜が咲く。(2023.3.22)