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哲学で食っていく

 令和元年五月、日経新聞の記事に私の目は釘付けになった。「キセキの高校」という連載。東京の公立高校で哲学対話に取り組んだところ進学や生徒指導で大きな成果が上がり、その取り組みはビジネスの世界にまで広がりつつある、という記事だった。哲学対話って何だ?哲学が学校教育やビジネスの救世主になることなんてありえるのか?

 大学では恩師の薫陶もあり哲学科で学んだ。哲学科を選ぶ際には多方面からお声をいただいた。そんな得体の知れない学問で将来どうやって食っていくつもりだ、と。もとより教員志望の自分の答えは明確だった。それで食っていくんですよ。その言葉通り公民科の高校教員になってもう四十年近い。母校の丸亀高校で倫理の授業をするという念願も叶って無事に定年を迎えられたことは幸せなことだ。その選択に悔いはない。

 ただ出自を語るたびに、やはり似たような反応がいつも繰り返される。哲学は一般人には縁のない浮世離れしたコ難しい言辞を弄する非生産的なもの、変わり者がやること、実生活には何の役にも立たないもの…、哲学に対するそのような印象が語られるたび、私はちょっと曖昧な笑顔を作って生返事をする。根深いな。

 それらは折に触れ呪いのように自分の中に溜まり続けていった。そのような思いでいると職場のあれこれが何となくまっすぐ受け止められなくなる事がある。メインストリームを離れた傍流の存在として扱われているような。まあ仕事は仕事だ。与えられた場で精一杯に力を尽くし結果を出すしかない。問題に直面するたびに常識を鵜呑みにせず根本の理念に立ち返って思考し本質を見極め判断しアイデアを出していく。哲学で養った思考法はやはり心強い味方だった。

 しかし。こうして培ってきたこの知識やスキルはこれから何の役に立つのか。再任用を終えて公民科教員という立場を離れた先には一体、何があるのだろうか。哲学を学んだことで世のため人のために役立ち必要とされるような価値ある場を与えられることはもうないのではないか。定年後に新たな道へと進む同僚たちの話を耳にするたびにそう思わずにはいられなかった。英数国だったらねえ、という声を聴いたこともある。

 先の見えない鬱々とした春を過ごしたそんな私の目に飛び込んできたのが日経の記事だった。私のユニークスキルの核である哲学が役立つ場がある。哲学対話の記事は、雷に打たれたどころか、世界を震わせる轟音が鳴り渡ったかのような衝撃だった。

 折良く夏に東京に行く予定があり、その一日を記事にあった都立高の訪問にあてた。校長先生と教頭先生に実践についてのお話を伺い、自分の中で次第に決心が固まっていくのを感じた。道中に読んだ哲学対話のバイブルとも言うべき梶谷真司著『考えるとはどういうことか』にも強い感銘を受けた。これをやろう。道は示された。あとは実行するだけだ。

 哲学対話は、少人数グループで輪になり一つのテーマについてルールに従って対話をしていく活動だ。ルールにはいくつかの流派があるが私は以下のものに沿っている。
 ①何を言ってもいい
 ②人の言うことに対して否定的な態度をとらない
 ③発言をせずただ話を聞いているだけでもいい
 ④お互いに問いかけるようにする
 ⑤知識ではなく自分の経験にそくして話す
 ⑥話がまとまらなくてもいい
 ⑦意見が変わってもいい
 ⑧分からなくなってもいい
      (梶谷真司著『考えるとはどういうことか』幻冬舎新書)

 対話ではすべての参加者が対等に扱われる。老若男女、学識経験、一切不問だ。互いを尊重し、答えに近づくために互いに問いかけ続け、一緒に考えを深めていく。答えや結論を出す必要はなく、それぞれの言葉に全員がしっかりと耳を傾ける。もし答えや結論めいたものが出てきても、それ以外の考えはないかと再び問いかけていく。そうすることで最後まで勝敗も優劣もない対等な関係を維持できるのだ。そのような安心・安全な場では、発想は自由に広がっていく。少しでも不安や恐怖が萌すと人間の思考は一気に萎縮して自由を失う。その意味で哲学対話は思考の自由を取り戻す場だ。場面緘黙の参加者が哲学対話を経験することで当たり前のように友人と語り合えるようになった例もある。ルールに守られて自由に対等にお互いの意見を述べ合い聞き合う場、それが哲学対話だ。

 さっそく倫理の授業で実践を重ねた。年明けには校内で現職教育の機会を与えられた。次年度に月例の「放課後哲学対話」を立ち上げた。また坂出市の私立高校では学校を挙げて取り組んでいると聞いて研修させていただいた。令和三年度には県の公民科部会の依頼で研究授業を行い、県の会誌「地歴公民科部会」には三年連続で関係の記事を寄稿させていただいた。令和四年度は勤務校の定時制課程の常勤講師になったが、そのまま「放課後哲学対話」は継続。年度末には定時制全生徒で哲学対話を行うことができた。

 学校での実践の次に私の視野に入ってきたのは学校外での活動だった。学校という枠を超えて多様な人たちと対話の場を作ることはできないか。折しも丸亀市にはマルタスという素晴らしい市民交流活動センターが作られた。丸亀城というアクロポリスの麓でアゴラたるマルタスで対話の場を作りたい。しかし県の職員という立場では活動に制限がある。どこかが主催してさえくれればボランティアとしていくらでも関われるのに。思いつく限りあちこちに足を運び打診してみた。だがどこも引き受けてくれない。みんな「忙しい」という。今やっていることだけでも手一杯なのに、よく分からない活動を新たに立ち上げる余力などない、と。人を動かすことの困難さを思い知った。やはり自分でやるしかない。

 令和五年度、私は時間講師になり県の職員という軛を離れた。奇貨居くべし。意を決してマルタスに向かった。申請が受け入れられ一般参加の「楽水さんと哲学対話」を旗揚げしたのは八月十八日。私の思いに共鳴して四人の方が来て下さった。感無量。これ以降、多様な参加者を迎えて月一回のペースで活動を継続しており、二年目を迎えている。

 マルタス哲学対話の立ち上げと前後して、ある私立大学からお声がかかった。哲学と倫理学の講義を、とのこと。いつか大学で講義をしてみたいと思っていた。自宅から少し距離があるが、家族の後押しもあり、ありがたくお話を受けした。ほどなくして今度は予備校からも連絡が。何と週一回、生徒たちに哲学対話の授業を、というオファーだった。一も二もない。喜んで。両校の出講日が定まることで丸高での授業も継続できることになった。何より校内での「放課後哲学対話」を継続させていただくためだ。

 こうして令和六年度が幕を開け私は東奔西走、いや右往左往の日々を過ごすことになる。慣れないことも多く、休日返上で学び直す日々だったが、自身のユニークスキルである哲学によって俸給を得、市民活動を行えるようになったことが何よりうれしく誇らしかった。

 かくして哲学対話は私の人生の柱、ライフワークとなった。今や哲学対話は教育現場のみならず企業研修でも行われるようになった。高校入試や共通テストにも出題される、当たり前の言葉として定着しつつある。哲学とビジネスをつなぐ書籍も多く出版されており、CPO(企業内哲学者)を置く企業も増えてきたようだ。この動きはますます広がっていくだろう。哲学に対する世の中の見方はかなり変わってきたことが実感できる。呪いは解けた。哲学はわがたつき。もうしばらく、哲学で食っていく。
                          (2025/03/1)

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楽水
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