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2024
すべてが、興冷めであった。
2023年の12/31、詰る所大晦日は、日曜日であったし、(日曜を週のはじめとする異端の他にとっては)、都合が良すぎるのではないか。ずうっと都合の惡い姿勢をこちらに続けていた、と思っているのは騾だけかも知れぬが、そういう姿勢で居た筈、否。その安楽椅子に坐って水タバコをふかしていたのに違い勿い者が、気紛れに銘柄を變えるように、
2024を。つくった(つくるという字は、須らく大仰であるから、ここでは平仮名で記す。)のでは勿いか。そう、考えた。
元日は、日曜。
四月一日は、月曜。
二月は、二十九日まで、楽しませて遣ろうじゃないか。
あえて申す。神仏の類は不潔で汚らしい俗物の生臭の戯言、と信じて、否、事実として左様で或るからこそ、憎いのだ。
理路整然の理窟が、さわやかな心地よい風としてきみの頬をなぜるならば、さぞ倖せであらう。
理窟で美しく塗装された、美麗な庭園に、飛び込んで息絶えるのは、情趣無類極りないであらう。
2023の、半でなければ割り切れもし勿い、氣色の惡い暦と違って、整然の限りを尽くした時代に、ドラマティックな生の結論を求めるならば、伊佐坂、歴史學者に不都合があり、人々は不都合を愛するものであるから、さぞ神聖視するだらう。
しかし2024は、そのやうな陶酔を赦さぬ。
舞台に安全装置、その袖には救急隊員が待機していては、死ぬことさえパフォーマンスに過ぎ勿いのは、明白で或る。
詰る所、此のやうに整えられた舞台では、騾はくたばれ勿い。
役者に成りたくない。都合のよい年に、都合よく、ぶら下がりたくはないのだ。
くだらん文章を書いて了った。酒はよくない。
よくない、と思う。九日後のとある買い物の為に明朝、銀行に行こう。
しらふでは、もう書けない。