アイ・アム・ 与太郎
「わたし、こんなイイ歳まで愛嬌だけでやってきちゃったんですけど。どうしましょかね?」
おつむの足りないわたしでも、そろそろ“若さ”が隠れ蓑にならなくなるであろうと気付き始めた30過ぎの頃。
尊敬している同業の先輩に問うてみた。
「今まで愛嬌だけでやってこれたなら、そーゆう人はあと30年、愛嬌でやっていけますよー。」
彼は笑いながら答えてくれた。
当時は「サンクス!ナイスフォロー☆」としか思わなかったけども、コレは単純に「今までそれだけしかできなかった人が、これからさらに新しくなにかできるわけないでしょー?」ということも併せて言いたかったのかもしれないな。
・・・うん。世知辛れぇなぁ。
その昔、『バファリンの半分は“優しさ”でできています』というCMがよく流れていた。
未だに、その残りの50%が何でできているかなんて、そうゆう難しいことは足りないわたしには到底わからない。
でも、そんなわたしでも“自分を占める成分の割合”はあらかた把握しているつもりである。
そう。
さや香の60%は・・・
『山田』
で、できている!
え?
あ。わたしの苗字ではないですよ。
あの国民的アニメ『ちびまる子ちゃん』のキャラクターのことです。
クラスメイトの山田くん。座布団を運ばないほうの山田くん。
自身を『山田』と形容するなんて、足りないながらになかなか俯瞰的な自己分析に長けているなあと、激しく自画自賛である。
当初すました横顔でおしゃれnoteをしたためるつもりだったのに、もう、書けば書くほどに“山田要素”が駄々漏れてるnoteに仕上がるという泣き笑いな現実。
まぁ、いいんです、わたし。
そんな『山田』な自分が大好きだから。
強がってないもん。
目にゴミが入っただけだもん。
・・・ホントだもん。
落語の登場人物といえば、熊さん、八つぁん、横丁のご隠居さん。人が良いのが甚兵衛さん。バカで与太郎と申しまして・・・
多少言い回しに差はあれど、落語のまくら(本題に入る前の導入部分)でもっとも多く用いられる常套句だろう。
そう、落語には“与太郎”という人物が度々登場する。この与太郎こそ、山田そのものである。
落語の栄えた江戸の時代ではそれで良かったのかもしれないが、現代において与太郎や山田のような子を「バカ」の一言で括ってしまうと、方々から非難の声が上がるのは火を見るよりも明らかである。
しかしながら、閉ざされた世界で歴史を温存してきた寄席という空間の中では、それが未だにまかり通っている。
それが良いとか悪いとかではなく、過去と現実が「そうである」というまでのことなのだ。
実は、年齢を重ねるにつれて、わたしは自身の“与太郎気質”に徐々に気づき始めていたりする。
幼少期の自身を振り返っても、今の自分を客観的に見つめても、やはり随所に “与太郎気質”が滲み出ているように思う。
そりゃ友達少ないよねぇ。そりゃ敵も多いよねぇ。
周りはものすごくわたしのことを扱いにくかったんぢゃないだろうか。意図せず、知らずのうちに周りに嫌な思いをさせたことも多々あるだろうな、と。
しかし。
どーーんと開き直るつもりもないが、大きくめそめそと落ち込んだりはしない。
多少の反省はするけど、後悔はしない。
わたしはわたしが大好きで、わたしはわたしなりに精一杯生きていて、わたしのままで良いと全力で受け入れてくれる人がいて、「もう、さや香はしょーがないなあ。やれやれ」と言いながら付き合ってくれる人もいるのだから、わたしはわたしを諦めない。
与太郎や山田は「バカ」かもしれないけれど、いつもニコニコしていることで周りに笑顔やハッピーを届けられるし、何より自分自身の“確固たるお花畑な世界”が構築されているから、多分、人より多幸感に溢れていると思う。
幸せに溢れている人から漏れ伝わるそれが、他人に幸せを分け与えて、世の中に循環を生じさせるのだと思っている。
だからこそ、落語には与太郎が必要だし、ちびまる子ちゃんには山田が必要だし、今この場所・この瞬間にはさや香が必要だと思っている。
そして、そんなわたしは、自分の周りの世界を明るく照らす為に今日も“自分ファースト”で生きてゆきます♪ ←
え?
さや香の60%が『山田』なら、残りの40%は何でできているのかって?
きっと、30%が野口さんで、10%がみぎわさんじゃない?笑
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