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『母とわたし』
父がいて、母がいる、中流家庭のひとりっ子。
溢れんばかりの愛情を独り占めして、中高と名のある女学校を経て、私学の大学まで出してもらった。
こういった状況に置かれている人間に対して『恵まれている』というレッテルを貼りたがる者が、市井の人々の中には多い。
片親だけのおうちもあるのよ。
明日の食事に事欠く子がいるのよ。
学費の出せないおうちもあるのよ。
四肢が満足でない子もいるのよ。
そう考えたら、、、
「アナタハ、“何不自由無ク恵マレテイル”デショウ?」
と。
“何不自由無ク恵マレテイル”のだから、現状に感謝しなくてはならない、と。
そんな“何不自由無ク恵マレテイル”わたしの溜め息は、ルール違反でしょうか?
“何不自由無ク恵マレテイル”わたしの泣き言は、ワガママでしょうか?
“何不自由無ク恵マレテイル”わたしの愚痴は、非常識でしょうか?
他者との比較でしか自身の幸せを見出せないような人に、わたしの幸不幸の過不足を定義づけられるのは腑に落ちない。
不自由が無いのだから、恵まれているのだからという理由で、わずかな不安や哀しみさえも唇の端から漏らすことを許されない“わたし”は、一体この世にどれだけの数いるのだろう。
誰にも言えない胸のうちを、自分自身の中で潰して消化処理できるほどに、この世の多くの“わたし”は、皆が皆、器用に折り合いをつけているのだろうか。
でも。
実際のところ、「“何不自由無ク恵マレテイル”のだから、現状に感謝しなくてはならない」だなんて一体誰が言ったのだろう。
この世の片隅で、ひっそりと肩を震わせているたくさんの“わたし”は、一体何に縛られているのだろう。
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「イチバンの宝物?そんなの、“この子”に決まっているぢゃない」
出産祝いにかけつけた友人にそう笑顔で答える彼女は、抱きかかえた我が子の頬に自分のそれを擦り寄せた。
彼女はずっと孤独だったのだろう。
厳格な父親からは頭ごなしの躾が為される日々で、忙しい母はたくさんいる下の兄弟の世話に追われていた。
いつも淋しく、自信がなく、人の影に隠れておどおどしている弱気な自分自身を変えたいと思いながら、彼女は大人になった。
子供好きの彼女にやっと訪れた待望の一粒種は、念願の女の子だった。
夫とは違う、本当に血の繋がった自分の強い味方が現れたように思った。もう、自分はひとりでは無いのだと感じられた。
「わたしのように、内気でうじうじした、消極的な子にはなって欲しくない」
自分とは正反対の人格になるように、おおらかに伸び伸びと育てようと決めた。
これが自分にとっても、我が子にとっても幸せであるのだと信じて疑わなかった。
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わたしの趣味のひとつに“落語”がある。
これは、だいぶ大人になってからの趣味で、実家の母はきっと知らない。
“落語”の魅力をひとことで説明するのは難しいが、少なくとも今のわたしの日常に色濃く貼りついている。
好きな落語演目の中に、【親子酒】【親子茶屋】というのがある。
いずれも、大家の旦那とその放蕩息子が主人公であり、『酒や女にだらしない我が子に手を焼きつつも、その父親も結局同じ穴のムジナであった』とオチがつく噺である。
親子のやりとりがコミカルに描かれており、父も息子も憎めないキャラクターで笑いを誘う滑稽話だ。
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「あなたのためを思って言っているのよ!?」
わたしのためを思っているのならば、もっと信頼して欲しいし、一分一秒でもはやく自立できるように接して欲しい。
大したお家柄でもないのに、これは“箱入り娘”が行き過ぎていやしないだろうか。
美しいと思ってギュッと掴んだら、シャボン玉は割れる。
とっておきたいと魅せられて抱きしめたら、雪は溶ける。
お気に入りのものが、いつでも自分の手のひらの中で、大切に扱えるとは限らない。
「大人になれば、わかるわよ」
「結婚すれば、わかるわよ」
「親になれば、わかるわよ」
もう戸籍の上では成人しているし、婚姻もしているが、あの頃の母がわたしに言いたかったことは今でもわからないままである。
今のわたしに子が無いのは、ささやかで全力な、母への反抗なのかもしれない。
わたしはいつでも母の“イチバン”でいたかった。
他に兄弟がいる訳でもないのに、誰よりも母に気に入られていたかった。
“勘当息子が連れ帰ってきたどこの馬の骨かわからない女”を気に入らない祖父母。
そんな祖父母から母を守るためにも、わたしは常に母の良い子でいたかった。
わたしが“きちんとしていること”が、母を正当化させるための説得材料だと幼い時分から本能的に思っていた。
しかしながら、母がわたしに直接的に何かを強いたことなど、ただの一度もなかった。
ただ・・・・
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ただ、彼女は自分自身のコンプレックスから派生した憧れへの理想が高かった。
もちろん、本人にはそんな自覚はないままに。
描いた理想への憧れは強く。
それはいつの間にか執着へと化し。
無言のまま表出し、漂い。
思わぬところで無意識に、愛する我が子の首元を真綿のように絞め付ける無言の圧力になっているとは。
やはり、本人にはそんな自覚はないままに。
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【親子酒】や【親子茶屋】は良い。
聴いた後は、なんだかほっこりする。
「父親然として息子を叱っておきながら、結局自分も欲に勝てないじゃないか」と笑いながらツッコミを入れたくなる。
人間は誰しも完璧ではない。
完璧でないからこそ、美しいのだ。
そこが人間の悲しくて憎めない味わい深い魅力なのだ。
父親としての義務を“完璧”に果たそうとしても、やはりどこかでボロが出てしまうのだから、父も息子も同じ人間で同じようにダメな部分があるのだと、お互いに曝け出して、許し合って、認め合えたら笑顔で締めくくることができるのだ。
そんなところのサゲが、お客の気持ちにあたたかさをくべてくれる。
だから・・・
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だから、ねぇ、ママ?
肩肘張らずに、気張らずに、笑顔ごと曝け出すことができたなら、それだけで良かったんじゃないかなぁ。
愛されてきたのも、大切に育てられたのも、痛いくらいにわかっている。
だけど、ママの見えない何かが重かった・・・と言ってしまうのは、タブーなのかな。
それを“重い”と受け取ったのはわたしの勝手だし、わたしなりにママの理想に近づくように頑張ったのもわたしの勝手。
最終的にママの理想には全く近づけなかったなと、思うことさえわたしの勝手なのはわかっているのだけども。
唇の端から、ちょっとした過去の思いを漏らすのは、やはり罪深いことなのだろうか。
でも、今はそれ以上に・・・
ママの孤独も哀しみも、コンプレックスからくる執着も、気づかないうちにママ自身の首をも絞めていないか、それを未だに引きずっていないか、心配だよ?
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もう、けして若くは無い、小さい彼女の横顔を見つめながら心の奥で問うのは、
「ママはわたしのこと、かわいい?」
だなんてことではなく、
「ママは、わたしのママで今も昔も幸せだった?」
ということ。
ただただ、それだけ。
・・・え、わたし?
わたしは、パパとママが大事に育ててくれたおかげで、今、大好きな人と大好きな街で暮らし、大好きな仕事に就いていて、心の底からシアワセだよ。
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今、年老いた彼女が、幸せでありますように。
この世にたくさんいるであろう“わたし”が、幸せでありますように。
そして・・・
彼女たちが、見えない何かに縛られることのない未来を謳歌できますように。
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