愚か者は痛い目に遭わなければ理解できないが、“痛い目に遭えば”なんでも理解することができる。
だから、実体験を通さずに悩みを解決することを諦めることにした。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言う。これを具体的に言い換えると、「愚か者は自分で経験しないと理解できないが、賢いものは本を読んだり教えてもらったり、観察したりなどして、他者の経験からも学ぶことができる」という言葉である。
「賢者は歴史に学ぶ」と聞き、なるべく本を読むように努めて来たが、結局のところ自分が腑に落ちなければその内容を理解することはできない。
本を読んでわかった気になった程度のことは、数日〜数週間すればもうその実践をやめてしまう。
結局、自分が痛い目に遭うことが一番学びになり、後々までそこで学んだことを意識し続けられるのだ。
頑張って情報収集をしても自分が痛い目に遭わないと理解できず、他者から学ぶことのできない自分に嫌気がさした。
…だが逆に言えば、少なくとも自分は【痛い目にさえ遭えば】自分の行動の愚かだった点と、次どうすべきかという点を心の底から理解できるのである。
この間まで、「新しい環境に入ると、(嫌われたくないがために)最初から全力を出してしまう」という悩みがあったが、それは解消された。
「良い人ぶるのをやめたい」「真面目系クズをやめたい」という悩みを持つ人は多くいるだろう。必要以上に疲れてしまうのが問題だった。
自分で学ぼうとはした。主にネット検索であるが、結局そこで当たり障りのない対処法や知識を身につけたとて、実際に使えたことはなかった。
なぜそれが解消できたかと言うと、一度限界を迎えたからである。特に体調を崩してしまうと、全力以上の力を出し続けると言うことは不可能になる。
緊張を保ち、全力で善良に振る舞うことが物理的に無理であることが腑に落ちることで、新しい環境で必要以上に全力を出し続けてしまうという癖はだいぶ弱くなった。
なぜ悩みがあり、解決策があるのにそれが解消できないのかというと、「解決しなくても"なんとかなって"しまうからである」
それが「無理である」ことが腑に落ちれば、深く考えなくても自然とそれを解決することができる。
解決できそうなのに解決できない問題がある場合、それを解決する"必要性"が腑に落ちていない場合あると私は思うようになった。
「痛い目に遭わないと学べない」のは悩む者にとって辛いことではあるが、逆に言ってしまえば「痛い目にさえ遭ってしまえば理解できる」はずなのだ。
だから、積極的に行動することを意識して、とにかく痛い目にあいまくれば良い。
もちろん他者や歴史から学ぶことができるのであればそれが一番であるが、できないものは仕方がない。
本や記事をみて腑に落ちないと唸っていても、前進は0だ。だが自ら痛い目に遭い、そこから学べば1が得られる。
100を欲して0に時間を使い続けるよりも、小さな1を積み上げていこう。
…この悩みだって、「痛い目に遭い続けるのでは身が持たない」ことを自分の頭だか心だか、そういうものがそれを理解して…腑に落としてくれたら、きっと他者からも学べるように変化するのだろう。
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