人は「体験」ではなく「思い出」を買っている
「人は」と書いたが、本当は「自分はこれからそうする」である。
ある時、人は「体験」そのものではなく「思い出」のためにお金を出すのではないかと思うようになった。
あるお土産屋によって適当な商品を一つ、つまんでじっと眺めていたんだ。
私には感性というものがあまりないので、それそのものを見ても特に何も思わなかった。
でもそこで、もし、友達か、もしくは恋人と一緒に来ていたら?と空想してみた。
その売り場の変な商品を前に、色々と面白がったりするだろうと思った。
これはきっかけでしかないのだが、ふと「人は体験そのものではなく、思い出のためにお金を出すのでは」というアイデアを思いついた。
はっきり言って何をするにしても、どこに行っても、体験…体感…その場の気持ちよさに関しては家に引きこもってゲームをすることに勝てるものはない。
だってそれはドーパミンが出るようにわざわざ設計されているから。
けれど思い返して思い出に残っているものを考えると、それは決して1人でゲームをしている時ではなく、人と何かをしたシーンなのである。
その場その場、何かをしているその瞬間だけで言うと、出掛けることや人と話すことはゲームの快感に劣る。だがそれは思い出に残るのだ。
もちろん人によってはライブを見ることやスポーツを観戦すること、観光地を見ることそのものがその瞬間の楽しみとして大きいと思うかもしれないが、自分にとってはそうではなかった。
だがそれでも、思い出に残るのは人と一緒にそういったことをした瞬間なのである。
自分にとっては貴重な「時間」「お金」「体力」といったコストを、なぜそこまで楽しくもないものに掛けるのか理解してこなかった。
多分自分の感じ方は人と違っているし、多くの人はそのアクティビティそのもの、その瞬間の体験にも価値を感じてコストを払っているだろう。
だけど、少なくとも自分は、自分にとってはその瞬間だけの快楽で言うと劣っているとしても、未来の自分のためにそのコストを払っていこうと考えるようになった。
今回の記事も前回の記事も、まるで宇宙人が書いているかのように思ったかもしれないが、それでいい。
私はアスペルガー症候群の人であり、これまであまり人に興味を持たずに生きてきた。だがあることをきっかけに人に興味を持つようになり、人と関わって生きていこうと思った。詳しいことはまたいずれ書くかも知れないし、書かないかもしれない。
これがうまくいくか、いつまでこれが続くかは別問題なのだが、自分自身はこの状況を悪いものだとは思っていない。
自分はこの状況を「生きてるだけで人類学」してると思っている。
自分とは異なる存在に対し、仮説を立て、「こうじゃないか?」と考えながら行動する。そしてうまく共存する道を探っていっている。
もちろん理想論だし、上手くいくかどうかはわからない。きっと挫折することの方が多いだろう。
けど人と仲良くすることを「解決すべき難しい問題」じゃなくて、「探究していく面白いテーマ」として観て生活してみるだけでも、結構楽しくなると思っているんだ。