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【連載】C-POPの歴史 第3回 広東ポップの誕生。 1970年代の香港

前回は、C-POPの制作現場が上海から香港に移行した1940〜60年代の歴史を音源を紹介しながら紹介しました。今回は、これまで中国語(普通話)で歌われてきたC-POPが、広東語で歌われるようになった1970年代の曲を、当時の時代背景も含めながら紹介したいと思います。


ロック、シンガーソングライターの流行

広東ポップが生まれるまでにはもう一つ踏まなければいけない段階があります。それはロックの流行とシンガーソングライターの勃興です。

You Are 21, I Am16/Agnes Chan (陳美齡)(1972年)

 さて、まずは日本でもお馴染みアグネス・チャンの香港デビュー当時の初々しい歌声を聴いてください。この曲は、アグネス・チャンが作詞作曲でクレジットされています。

アグネス・チャンはカナダ生まれのシンガーソングライター、ジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)が好きで、彼女のカバーアルバムでデビューします。ジョニ・ミッチェルは1968年にデビューし、翌1969年に「青春の光と影」というアルバムで世界中のリスナーに知られるようになります。アグネスはおそらく、曲をカバーするだけでなく、自分で曲を作って自分の思いを歌うというジョニ・ミッチェルの魂も真似しようとしたのでしょう。日本においてアグネス・チャンは、最初はアイドル、のちにタレントやユニセフなどの社会活動で知られていますが、このシンガーソングライター時代を知ると、彼女の活動には社会に対するメッセージが一貫してあったんだなということがわかります。それは、「自分でやる」「自分で世界を変える」「女性だって自分でできる」っていうメッセージなんじゃないかと。

私にとってはアグネス・チャンはテレビタレントとしての認識しかなく、このような過去があったのは驚きでした。彼女にはシンガーソングライターの時代があったんだと。実は第1回から読んでいただくとわかりますが、ここまで、自作の曲を歌うシンガーはいなかったんですね。つまり、アグネス・チャンは香港、いや中華圏歌謡界におけるシンガーソングライターの走りだったことになります。歌詞を見ていただくとわかると思いますが、実に取り止めのない、若い愛の歌です。でもそこに、プロの作詞家、作曲家が作ってない素の言葉の魅力があります。

Sha La La La/The Wynners (温拿)(1974年)

去年、香港に遊びに行った時に、ランカイフォン(蘭桂坊)のクラブ街で、この曲を合唱する若者の群れを見ました。まあ、50年も昔の曲を歌うなんて彼らにとってはかなりの懐メロでしょうが、この曲はまだ時代を超えて香港の人々に愛されているようです。

この曲はアグネスと違いカバー曲(しかも英語)なので、香港ポップとしてあまり紹介する意味がないかもしれませんが、この時代に入ってようやくロックバンドが活躍する時代になったことを象徴するきょくなので紹介します。

The Wynnersは、のちに広東ポップの世界のスターになるAlan Tam(アラン・タム/譚詠麟)をはじめ、Kenny Bee(ケニー・ビー/鍾鎮濤)など、のちに俳優や歌手として活躍する人を多数産んだという意味で伝説のバンドです。そしてなんと、ここにきてようやくこの連載において初のバンド、男性の歌声が主役の曲です。これまでの時代曲は女性ヴォーカルがメインでしたので、ここでようやく、男性が演者側として活躍する時代に入ったと言えるかもしれません。もちろんこれ以前にも男性歌手はいましたが、メジャーシーンでは圧倒的に女性歌手が多かったようです。男性が曲を作り、女性が歌うという不文律がそれまでのC-POPにあったようですが、先述のアグネスを含め、その不文律がここにきてようやく崩れていくような時代だったわけです。Do It Yourself! そしてこれは、来たるべく時代の幕開けでした。

広東ポップの誕生と、マルチタレント、サミュエル・ホイの時代

正確に言えば、1960年代以前にも広東語で歌われる広東ポップは存在したようですが、レベルが低いもの、粗悪品だと思われていたようです。当時の音楽制作現場の不文律として、普通話(中国語)は広東語よりもレベルが高く高尚だと思われていたようです。これは台湾における普通話と台湾語の関係にも似ています。台湾の場合は政府ぐるみで中国語を統一した言葉にしたのですが、そこは英国領香港。政府は英語の導入を目指しましたが、はっきり言って中国語も広東語もイギリスからしたら優劣がありません。ですのでこの地では地元の言葉である広東語が逆に守られることになりました。人々は常に広東語を日常で話し、やや高尚な場、オフィシャルな場では英語を使いこないしていたようです。

しかし、ポップスとは本来口語で歌われるべきものです。広東語で普段会話している場所であれば、広東語のポップスが流行るべきです。そんな時、彗星のように、1人の男の歌声が鳴り響きました。

鬼馬雙星/許冠傑(Samuel Hui)(1974年)

彼の名前は許冠傑(サミュエル・ホイ)。おそらく彼がいなかったら、香港のエンタメの歴史は5年、いや10年ぐらい遅れていたでしょう。何もストーリーを知らなければこの曲は当たり障りもない(現代的な感覚ではちょいダサな)ポップスですが、こうして最初の広東語で歌われてヒットした広東ポップと聴けば曲も変わって聴こえるかもしれません。

さてこの曲は、香港制作の同名の映画の主題歌として作られました。実はこの映画の主役も彼です。

鬼馬雙星(Games Gamblers Play)(1974/香港)

この映画は、彼のポップスのように、とても快活で笑顔になるようなコメディ映画です。子供から大人まで笑えるような身体を使ったコメディで、これは日本で言えばザ・ドリフターズの笑いに近いと思います。つまり、日本人でも理解し楽しめるタイプの笑いです。ドリフの代表番組の一つ、「8時だョ!全員集合」が1969年に放送開始なので、おそらく彼らの脳裏にはドリフのような日本の笑いの原型があったのではないかと思います。

実はこの映画のメガホンを取るのは、サミュエル・ホイのお兄さんであるマイケル・ホイ(許冠文)、そして準主役でホイ兄弟の1人、リッキー・ホイ(許冠英)も出演しています。いわば、ホイ家の映画と言えるかもしれません。このシリーズは、日本ではMr.Booシリーズとして公開され、人気になりました。この映画についてはまだまだ語りたいことがあるんですが、今回は映画の話題ではありませんので次に進みます。

半斤八兩/許冠傑(Samuel Hui)(1976年)

そんなサミュエル・ホイの曲のなかで、最も好きな曲がこの曲です。半斤八兩は、和訳すると「似たり寄ったり」みたいな意味です。この曲は私の独断でここに選んだ曲ではなく、香港市民に今でも愛される名曲の一つです。中国語(普通話)とも違う独特の広東語のイントネーションがスパイスになっていて、言葉もわからない私が聴いてもなぜか耳に残る曲になっていると思います。

この曲が名曲として残り続けたのは、主にサラリーマンとして生きる人々の悲哀について皮肉を込めて歌ったからだと思います(歌詞リンク)。そんなサラリーマンの悲哀を、おかしみを込めて明るい曲調で歌っているところが香港人のツボにハマったのでしょう。

Youtube 『半斤八兩 cover』で検索

試しにYoutubeで曲名+coverで検索しましたが、このように今でもたくさんの人に歌い継がれている名曲です。

もちろんこれも映画の主題歌です。

半斤八兩(Games Gamblers Play)(1976/香港)

日本語でMr.Booシリーズと題されているホイ兄弟の作品としてはこれが3作目(日本公開順で言えば1番目)。曲と同様、映画もかなり洗練されてきて、いわゆるアブラが乗ってきてる作品だと思います。どうです? 予告編だけ見てもかなり面白そうでしょ? 

この映画にはサミュエル・ホイ演じる凄腕の新人探偵と、マイケル・ホイ演じる、権力をかざしたくなるもいつも失敗ばかりする所長が主に登場しますが、2人の小競り合いはほんとに馬鹿馬鹿しくて、爽快で、でもどことなく何かと優劣をつけたがる私たちにもよく似ています。何も考えずに笑って見れるおすすめの映画です。

それにしてもサミュエル・ホイは、歌も作れて歌ってヒットして、映画は主役を張ってこれまたヒットして、香港最初のマルチタレントと言えるかもしれません。日本で言えば福山雅治や星野源のような才能あふれるスーパースターと言えるでしょう。

財神到/許冠傑(Samuel Hui)(1978年)

もう誰もサミュエル・ホイの活躍を止めることはできません。この曲は、香港(あるいは中華圏全域)で新年のときに歌われる曲で、いわば山下達郎のクリスマス・イヴ的な名曲です。国民的(香港『市』なので国民的は変な表現ですが)スターになったサミュエル・ホイは、この曲でついにレジェンドの1人になったと言えるでしょう。サミュエル・ホイは、1.広東語ではじめてヒットソングを歌った、2.主役映画を世界的にヒットさせた、3.現代まで50年も歌われ続ける名曲を作った、という点で、「歌の神様」「香港音楽界のスーパースターの帝王」「香港ポップミュージックの創始者」と呼ばれています。

香港映画、世界へ。そして広東ポップも世界で一部のマニアックなファンを獲得!

こんな面白い映画を世界が放っておくはずもなく、かくして香港の映画は世界中でヒットするようになります。サミュエル・ホイ、マイケル・ホイよりも早く世界的に名声を得ていたブルース・リー(渡米し、1960年代にアメリカの映画に多数出演、1970年代には香港に帰郷し『燃えよドラゴン』『ドラゴン危機一発』などの名作を作る)や、彼らより少し遅れてやってきたジャッキー・チェン(言わずと知れた香港の映画スター、1976年に本格的に香港デビュー)などとともに、メイド・イン・香港ムービーは一躍世界中を巻き込んでヒット作を連発するようになります。こうして、中華圏のエンターテイメントははじめて世界で消費されるようになりました。1970年代の香港は、中華圏エンターテイメントが世界を舞台にし始めた時代と言えるかも知れません。

それらの映画の主題歌である広東ポップも、香港映画ほどではありませんでしたが、物好きには届いたはずです。こうしてまずは映画が世界的に先行し、ついで歌も世界的に聴かれるという流れが登場したのが1970年代。香港、そして中華圏の映画や歌が世界で消費されるようになるきっかけを作ったのが香港映画でした。

1970年代、あるいはディスコの時代

Never Can Say Goodbye/杜麗莎(Teresa Carpio)(1976年)

さて、当連載の第二回でも取り上げましたが、香港と言えばカバー曲天国です。おりしも1970年代と言えば、The Jackson5/マイケル・ジャクソンに代表されるモータウンサウンドの時代です。ディスコの時代でもあります。もちろんそれらの曲も数多く香港でカバーされました。

テレサ・カルピオは、そんな中でも歌唱力も高く良カバーをたくさん残してます。The Jackson5の名曲、Never Can Say Goodbyeのこのカバーなんか最高だと思います。

Swearin' To God/杜麗莎(Teresa Carpio)(1976年)

こちらは、同じくテレサ・カルピオによる、マルコス・ヴァーリの同名曲のカバー。これなんか、今なおDJでかけてもフロアが盛り上がりそうな名曲です。

サミュエル・ホイ以降の香港のポップスは広東語のポップがメインになり、英語の曲はテレサ・カルピオのように英語でカバーされるようになります。1970年代、香港歌謡界は、広東ポップも、英語のカバー曲も好調でしたが、もはや中国語(普通話)の歌謡が香港社会にとっては過去のものになったということでもあります。第1回から読まれてきた方なら、上海を中心とした時代曲の時代が完全に取り払われていることに気づくはずです。この頃には、すでに香港と中国はまったく別の道を歩むようになり、そして香港は中華圏全体のエンタメを世界に届けるハブの役割を果たすようになります。

中華圏で有名歌手になるには香港に来るしかない!

時代は1970年代後半から1980年に突入しました。

こうして、名実ともに中華圏のエンタメ発信基地に君臨する香港は、それ以外の地域から、才能を集める場所になりました。中国語を母国語として話す主に漢民族は、香港、中国(本土)、台湾だけでなく、シンガポール、マレーシアにも多くいますし、なかにはアメリカやカナダにも移民としています。彼ら、彼女らのなかに歌手や映画スターとして有名になりたいという夢があった場合、香港にやってきて活動することが夢の始まりでした。日本で言えば音楽活動や芸能活動をやりたければまず東京に上京するように、彼ら、彼女らは香港に上京(上港?)して、ネイティブではない広東語でポップスを歌う必要がありました。あの歌手だって例外ではありません。

忘記他 Forget about Him/鄧麗君(Teresa Teng)(1980年)

いまや中華圏で最も知名度の高いスターであるテレサ・テンも、このように活動の場を広げるため広東語で歌った歌手の1人です。

彼女は1967年に地元、台湾でデビューし、1974年には日本でもデビューし日本語で歌っています。こうしてすでに1970年代後半には台湾、日本、中華圏、そしてアジア圏でもスターの域に達しますが、1980年には母国語の中国語ではなく、広東語でレコーディングした曲をリリースしています。

名曲、忘記他を含むアルバム『勢不兩立』は全曲広東語で歌われています。

さて、ここで皆さんは疑問に思うかもしれません。「ここまで、最初は上海、そのあとはずっと香港の話ばかりだったけど、この連載は広くC-POPを取り上げるんでしょ? テレサ・テンがいた台湾ではこの時代どうだったの?」 と思った方。次回は時計の針を再び戦後にもどして、台湾のC-POPを紹介したいと思います。

過去回↓


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