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【連載】C-POPの歴史 第16回 香港の’00年代-A面 メジャーとマイナー。中国語と広東語。G.E.M.とMLA。
中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は、'00年代の中国本土の音楽について、「中国の意匠」というテーマとともに記しました。
今回は、同じく’00年代の香港よりお届けします。この時期の香港音楽界は大きな問題を抱えていました(この時期に限らずこれ以降香港は問題を抱えっぱなしではあるのですが。。)。
この時代の香港音楽業界の最大の問題、それは音楽不況です。インターネットの発達によりCDが以前より売れなくなってしまいました。現在の音楽シーンはライブが中心になりつつありますが、一つの都市が一つの国のようになっている香港では、全国ツアーのようなものを国内では行うことができません。さらに香港にとっては悪いことに、台湾、中国本土の音楽界の台頭によって、相対的に香港エンタメ業界の優位性も低下してしまいます。そんな不景気のダブルパンチを別々の方法で勇敢に乗り切ったカッコいいアーティストがいます。今回の主役はG.E.M.とMLAです。どうやって彼らはこのピンチを乗り切ったのでしょうか。
音楽不況と中国本土依存・・・
'00年代の手前、'90年代の香港については、第12回で取り上げました。
1997年に香港は中国に返還され、「一国二制度」という制度に組み込まれます。中国と香港(マカオ含む)は一つの国であるけど、別の制度を持つ地域であるという統治制度で、世界でも類を見ない制度です。香港の人と中国本土の人は所有するパスポートも流通している通貨も違い、香港から中国本土(あるいはその逆)に移動する場合には入「境」審査が行われ、パスポートがないと移動することはできません。そういう状況は、日本人から見ればとても同じ国とは思えないのですが、ともかくこのような制度によって香港のオリジナリティは“一応は”保たれることになりました。
一方、経済的には、香港は中国に「依存」を深めます。1997年のアジア金融危機、そして2003年はSARSの流行などで、経済的な打撃が深刻だった時期に、中国政府はそれまで認められていなかった中国本土から香港への自由な渡航を認め、観光を推奨したことから観光客が激増。香港経済はこのアシストのおかげでV字回復しました。こうして香港は経済的にも中国なくては成り立たないようになっていきます。爆買い中国人を複雑な表情で見つめる香港人。
さらに冒頭で話した通り、インターネットの発達で音楽業界全体がシュリンクを始めます。つまり、CDが売れない。音楽業界は従来通りソフトを売るという戦い方では稼げなくなってきました。でも、どんな時代になろうとも、ちゃんと音楽は必要とされ続けます。この時代のポップスを俯瞰してみましょう。
’00年代のポップス/ダンスポップ
まずはポップスの中でもダンスポップに絞って紹介していきましょう。
型男索女/B2(2001年)
B2は香港発の女性2人組のユニットで、2000年から2003年と活動期間は短いですが、当時の香港ポップスの平均値よりノリのいい曲を多くリリースし、香港人にダンスポップを浸透させたグループとして重要だと思います。
2000年代初頭の日本でいえばモーニング娘。やハロー!プロジェクトの楽曲がブレイクしていた時期ですが、曲の間奏中に気の抜けたラップが入ってくる感じは、つんく♂の作ったハロプロっぽいポップスを意識してるのかな、と思わなくもありません。
この曲「型男索女」とは、まあ日本語で言えば「紳士淑女」みたいなイメージで、ようはイケメンと美女みたいなところでしょうか。
Disco Dancing/B2(2001年)
同じくB2から、さらにビートを強めた楽曲。この頃の香港の楽曲の平均値よりメロディがイケてると思います。作曲のクレジットを見ると、Joo Young-hoon(주영훈)という韓国人のヒットメーカーでした。どおりで曲が少しエキゾチックでイケてる! 前回(第15回)中国本土にSuper Junior-Mという韓国発の黒船ダンスグループがやってきたことを紹介しましたが、やはりここでもダンスポップミュージックというジャンルでは韓国が強いですね。
B2は2000年代前半の香港を彩りましたが2003年に解散。その後ソロでも曲をリリースしますが、グループ時代のような成功は収められませんでした。
八星報喜賀賀喜/Twins & BOYZ & featuring 鄭希怡 & 吳浩康 & 梁洛施 & 李逸朗(2008年)
香港のポップスシーン独特の特徴として、レコード会社が所属するアーティストを集めて、旧正月あたりにメドレーソングを発表するという特徴があります。そんな中から、2008年の「八星報喜賀賀喜」という曲を聴いてもらいましょう。この曲では、第3回で紹介した香港の70年代の名曲、「財神到」など、香港人なら誰でも歌えるメドレーを繋いで楽曲にしています。
過去の音源のリミックスなので制作コストは安く抑えられて、商魂たくましい香港芸能界を象徴するジャンルなのかなと思います。過去の名曲のおいしいところだけ繋いでるから、聴きやすくて楽しいですよね。ただ、純粋な意味での新曲ではない曲を出している時点で広東語のポップス市場の先細りを象徴していると言えるかもしれません。。
こうして香港芸能界は少しずつダウンサイジングしていきます。以降、香港で売れているアーティストは、香港で有名な人、いわばローカルタレントのようなイメージになっていきました。一部の例外を除いて。
G.E.Mの登場と、意識される中国本土
そんな、音楽マーケットの冷え込みをぶち破る新星が登場します。彼女の名前はG.E.M.(ジェム)(本名=鄧紫棋/タン・チーケイ)。今回の主役の2組のうちの1人です。彼女は1991年に上海に生まれ、4歳の時に香港に移住した香港のアーティスト。2008年、17歳の時にデビューを果たします。
彼女はこれまでの香港のアーティストと決定的に異なるところが2つあります。一つは、作詞・作曲・そして歌もダンスもこなす、スーパーマルチプレーヤーだということ。
そして二つ目はより重要なのですが、最初から中国語(普通話)を中心に活動したことが挙げられます。当時の香港においては、広東語こそが地元の言葉であり、都会の言葉だったことから、アーティストは我こそが香港のアーティストであるというブランディングのためにも広東語を駆使しました。中国語(普通話)の曲は、アルバムの中で一曲だけだったり、あるいはすでに香港で売れているアーティストが外国での評価を狙って中国語(普通話)のアルバムやシングルを録音することは多かったのですが、彼女はデビュー当時から中国語(普通話)を前面に押し出しました。
All About U/G.E.M.(鄧紫棋)(2009年)
ファーストアルバムにして名アルバム「18...」より1曲目。この曲は、100%G.E.M.による作詞です。普通話(中国語)で歌われています。若干18歳ながらにして、「ああ、これからの香港のポップス界を引っ張っていくのは彼女なんだろうな」と思わずにはいられない完成度。彼女は一部では中国のテイラー・スウィフトと呼ばれています。
MVでカフェ? ダイナー? の店員役をやってますが、これがまたかわいい。18歳だから本当にダイナーでバイトしててもおかしくない年齢だし、こんな店員いたら惚れてまうやろ〜!
ちなみに、このMVは日本で撮影したそうです。この曲はRTHKという放送局のチャートで1位を獲得しました。
Game Over/G.E.M.(鄧紫棋)(2009年)
おなじく「18...」より、「Game Over」。私は先行シングルの「All About U」よりもずっとこっちが好き。先ほどは「All About U」だったのに、そんな恋も「Game Over」になってしまったようです。この気持ちの移り変わりの速さこそが「18歳」ってことなのでしょうか。
20世紀の歌謡曲では、日中韓問わず女性は「待つ女」「耐える女」「密かに思いを寄せる女」というイメージの曲が総じて多いように思いますが、この曲ではオワコンの恋をG.E.M.は自分から遠ざけようとしています。この点でも、新世代の強い女というイメージがあって、彼女がさまざまな意味で時代を刷新したと言えるでしょう。かっこいいよね。でも、こんな感じでGame Overって振られたら、男は泣いちゃうよ、とほほ。
この曲は、香港の4大ネットワークの2つで1位を獲得します。
G.E.Mの新しさとはなんだったのか
こうして、最初から普通話(中国語)の曲をリリースしてヒットしたことで、彼女はデビュー当時から香港内だけでなく、中国本土でもリスナーを増やしていきます。やがて2010年代には中国本土のテレビに登場するなど、本格的に中国本土を戦いの場に選びます。
ここまでこの連載を読んでいただいた読者の方なら、香港は、特に戦後から20世紀、よそからアーティストを迎え入れてきた土地だということは理解いただけると思います。あのテレサ・テンも台湾で活躍した後に香港にやってきて広東語で歌を歌ったし、フェイ・ウォンも北京で生まれて香港でデビューし広東語で歌を歌った。その後90年代にはココ・リーなど香港出身だけど台湾で活躍するケースも増えましたが、G.E.M.は香港から中国本土に本格的に進出を果たした最初のアーティストかもしれません。そういう意味でも、彼女の存在はまったくそれまでのアーティストと異なります。それまでの固定概念に縛られない若い世代だからこそ、挑戦できたのかもしれません。
G.E.M.って筆者より年下なんですが、なんか敬語で話したくなる人ですよね。新しい道を切り開いていった人。だからこそ、「All About U」よりも「Game Over」の方が似合ってると私は思います。いやすごいよ、すごいですよ、G.E.M.パイセン。ちなみにG.E.M.って、Get Everybody Movingの略らしいですよ。何それなんかすごい。みんなを動かそうってこと? この名前に、彼女の気概というか、国籍とか立場とか関係なくただオーディエンスをわかせるぜ、って感じが伝わってきます。当連載では便宜上C-POPを中国本土/香港/台湾というエリアに区切って紹介していますが、本来はそんな区分はアーティストにとってはどうでもいいはずで、ただオーディエンスとアーティストがそこにいるだけだなって思います。G.E.M.はエライ。ちまちま解説してる私の100万倍はエライ!
ここで最初の主題に戻って、香港音楽業界のシュリンクにどう対応したか、という点ですが、G.E.M.は自ら香港に留まるより自分の活躍範囲を広げることで音楽不況に対応したアーティストと言えるでしょう。この英断によって、彼女は現在も中華圏全体で活躍する大スターです。
ポップス/コンテンポラリー
ここまで、ポップスの中でもダンサブルなポップに絞って紹介しましたが、それ以外のポップスを紹介します。
花樣年華/梁朝偉(Tony Leon)(2000年)
「花樣年華」は、当連載の香港の項目では何度登場したかわからない映画監督ウォン・カーウァイの映画です。1960年代の香港が舞台で、この曲はその映画のための曲です。
よかったら予告編のリンクをつけたので見てみてください。相変わらず色っぽい大人の映画〜。トニー・レオンは東洋一ダンディな男優だと個人的には思います(西洋一はジョージ・クルーニーかな??)。うーん、女性に生まれ変わって抱かれたい(そこそこマジ)。生まれ変わったらトニー・レオンになりたい〜(これはマジのマジ)。
この曲も映画に負けず劣らずムードがあって名曲だと思います。この曲は台湾の陳珊妮(Sandee Chan/サンデー・チャン)が作詞作曲しました。ここでも台湾勢が大活躍。
蘭花草/葉蒨文(Sally Yeh)(2003年)
葉蒨文(Sally Yeh/サリー・イップ)は、1980年代から活躍する台湾生まれで香港で活躍するアーティストの1人ですが、当連載では初めて紹介します。この曲は、1979年に、銀霞(YinShia)という台湾のアーティストによって歌われた曲です(原曲版)。
2003年のサリー・イップ版では、台湾の少数民族であるプユヌ族の那魯灣(Naluwan)という原住民の楽曲が間奏時に使われています。彼女のルーツである台湾を意識した楽曲。曲に合ってんだか合ってないんだかわからないMVにも注目です。
06石頭記 (輪回版)/達與璐(劉以達(Tats Lau))(2006年)
さて、90年代の香港(第12回)で紹介した達明一派(Tat Ming Pair)のメンバー、劉以達(Tats Lau/タツ・ラウ)のソロより。石頭記という曲は、もともと達明一派として発表した楽曲ですが、ソロとなったこの時期には、06石頭記 (輪回版)として、女性ヴォーカルをフューチャーして録り直してます。この曲、メロディが印象的で、たまに口ずさみたくなります。
このように、香港は00年代に入り音楽業界全体に不況の波がやってきますが、まだまだ精力的にさまざまなポップスが作られてもいました。
メジャー志向とインディーズ志向
先ほどの項目の最後に紹介したタツ・ラウの楽曲を一聴しても分かる通り、これは売れることを想定した楽曲というよりも、自らの創作活動、表現活動の一環というイメージが強い曲です。
今回は音楽業界不況をテーマにしましたが、それはあくまで音楽活動をお金稼ぎとして考えた時に不況だという話です。でも、ただ音楽を創作をして皆に聴いてもらいたいという話であれば、別にたいして稼げなくてもいいはずですよね? 自分たちの思いを伝えるのに、なんで自分たちの言葉(広東語)ではない言葉で音楽をやらなくてはならないの? そう考えたアーティストもいました。おりしもインターネットの発達によって、逆に個人で創作できる領域は広がっていました。
ここに音楽不況に対応したもう一つの事例が見えてきます。G.E.M.のように活動領域を広げることで不況に対応したケースがありますが、そもそもたいしてお金が回らなくても、従来のように無駄に予算をかけず(スタッフも豪華にせず)、インディペンデントに自分の表現活動を続けることだけに注力していこうとした人々。
その代表選手が、今回のもう1人の主役。My Little Airport(マイ・リトル・エアポート)です。
My Little Airportと、香港インディーズ
こうして煌びやかな芸能界とは別の音楽業界、香港にも規模こそ小さいものの、インディペンデントな音楽シーン、インディーズシーンが台頭してきたのが2000年代です。そんなシーンの中で中心的な人物と言えば、今も昔もMy Little Airport(以下、MLAに統一)というバンドです。とにかく歌詞が面白く、皮肉に溢れていて、そして香港愛にも溢れている(それがゆえに中国当局から目の敵にされている)ユニークなバンドです。彼らは男女2人のユニットで、ほぼすべての楽曲の作詞・作曲を行う男性の阿Pと、ほぼすべての楽曲でヴォーカルを担当するSelene(旧名Nicole)の2名からなるユニット。彼らは日本の90年代の渋谷系のムーブメントに影響を受けたことを公言しています。
また、彼らは大学のジャーナリズム学部で知り合ったということも付け加えておく必要があります。彼らの曲は、ある意味でとてもジャーナリスティックだからです。ですので、できれば曲と同時に歌詞を確認してみてください。MLAは、オフィシャルサイトで全歌詞を紹介しています(サイト上の「Lyrics」より)ので、それをGoogle翻訳してみてもいいかも。
まずは彼らのデビューアルバム「在動物園散步才是正經事」(和訳:動物園を散歩することこそが正しい)から、同名の曲を聴いてもらいましょう。
在動物園散步才是正經事 (the ok thing to do on sunday afternoon is to toddle in the zoo)/My Little Airport(2004年)
この曲の歌詞はここにあります。
この曲も恋の終わりを歌っていて、その意味ではG.E.M.の「Game Over」と同じと言えば同じなのですがこの物悲しさ、どこか気だるげな感じはなんでしょう。黄埔とか紅磡とか、香港ローカルの場所も出てきて面白いです。
これは恋愛の歌ですが、一方で未来を夢見るのがなんか難しくなってしまった香港人を代弁するような歌詞でもあります。そして、この香港の閉塞感って、なんとなく日本人としては共感できますよね? そう、これ以降の香港と日本は、なんか未来が見えづらくなってしまった国という共通点があって、そこが私が現代の香港音楽、あるいは香港そのものにシンパシーを覚え愛している理由でもあります。
ただ、このデビューアルバムの時点ではまだ、極めて自分の身近な状況を歌っているとも言えます。より歌詞が先鋭化するのはセカンドアルバムからです。
Gigi Leung is dead/My Little Airport(2006年)
Gigi Leung is dead(ジジ・リョンは死んだ)という衝撃的なタイトル。MLAの初期の代表作と言えます。歌詞はこちら。全編英語詩。
ジジ・リョンは残念ながら当連載では紹介しませんでしたが、香港では有名な女優・歌手です。死んだと歌われていますが死んでません。あくまでこの曲の中の妄想において、勝手に死んでしまったわけです。本人からすれば勝手に殺すなって話でしょう。。。
いったいこの曲は何を歌っているのでしょうか。この曲ではジジ・リョンに憧れ恋をする主人公(おそらく男性)の1週間が歌われています。月曜日からずっと彼女のことが好きで学校に行かずに彼女の歌を聴いていたいぐらいなのに、日曜日にはなぜか「ジジ・リョンは死んだ」と絶叫してしまします。
この曲について阿Pは、自身もジジ・リョンが大好きだったけど、時代に合わせてキャラクターを変えていく彼女を見た上で、自分が好きだった時代のジジ・リョンのことを思いながら歌ったとのことです。
阿Pは皮肉屋なので、そんな自身を含むファンという存在の身勝手さを歌ったのかなという気もしなくもありません。また、こういう固有名詞を出しておいて「死んだ」と歌う感じも、インディペンデントだからできる自由さなのかなという気もします。
悲傷的採購/My Little Airport(2007年)
こちらは2007年の曲。歌詞はこちらから。「為何人大了就要成為工作的奴隸」(なぜ人は大人になると仕事の奴隷になるのか)「最愛作的不可發揮」(自分が最も好きなことに全力を注げなくなるのか)。全くですよね。耳の痛いことをMLAは歌っています。
「このまま人生を続けてもいいのか?」と、結構多くの人の胸に痛くささる歌詞なのに、曲は妙にチープでポップでキャッチー。暗い内容なのに曲調はなぜか明るい。こういう感じがMLAの真骨頂だなと思います。
donald tsang, please die/My Little Airport(2009年)
2009年、それまでの彼らのどの曲よりも注目される曲が登場しました。タイトルは「donald tsang, please die」(ドナルド・ツァン、死んでください)。歌詞はこちらから。これまでの楽曲と違い、ヴォーカルは阿Pです。英語と広東語で歌われています。
ドナルド・ツァンとは、香港の政治家です(Wikipedia)。彼は2005年より香港の行政長官(事実上のトップ)です。その後行政長官退任後は汚職疑惑で起訴されるなどするのですが、歌われた当時はまだ現役。彼は2009年に、天安門事件(1989年)より20年経ったことを踏まえ「過去のことを批判するより、今の香港の経済的成功を評価すべき」と訴えますが、そのことが香港市民の批判の対象となります。MLAはこの曲で「もし今日あんたが誰かに腕を切られて、20年後、その誰かが出世して行政長官になったら成功してるからって罪を追求しないの?」と痛烈に批判しています。
結果的にこの曲によって、MLAは世界中から注目を集めます。MLAは最初から政府や企業広告とは無縁のインディペンデントな活動を標榜していたからこそ、このような表現が可能だったのだと思います。インディーズであること、また、香港という土地だけを見て活動していたからこそ、できる表現だったと思います。こうしてMLAは、特に2010年代以降、インディーズバンドであると同時に、雨傘革命のような香港の社会運動を応援するバンドというイメージをまとうようにもなっていきます。
・・・ただね、政治的な曲である一方で、「Please die」って、ものすごく変な響きじゃないですか? 痛烈に批判するなら「Please」なんて言わないはずです。私はこの「Please die」という英語の響きから、香港という土地が持つ、二重の植民性、アイデンティティのねじれ、それらをコミカルに表現してるのかなというような気もするんです。そもそもはイギリスに占領されて、今度は中国に再び占領されて、でも私たちは本来中国人であって、、、のような、何回も価値観が反転するような状況。そういう複雑性こそ、香港の難しさ、ひいてはユニークさでもあり、そんな香港という街を体現しまくってるバンドがMLAだと私は思います。彼らこそ、香港を代表する、香港にしか存在しないバンドだと思います。
まとめ
音楽不況、そして中国本土や台湾の台頭による、香港の相対的な地位の下落によってピンチに立たされた香港音楽界ですが、そこから抜け出て自らの活動の場を輝かせる例を、一つはメジャー志向のG.E.M.に、もう一つはマイナー志向のMy Little Airportを典型例として紹介しました。G.E.M.はそのありあまる才能で、香港だけでなく中国本土でも活躍すべく舵を切ってフロンティアに乗り出したアーティスト。一方のMy Little Airportはそれまでのアーティストと違い、インディペンデントな活動に活路を見出しました。香港という街に密着し表現を先鋭化させ、結果的にはそれが世界的に注目を集めました。私は、どっちのやり方もそれぞれの良さがあって素晴らしいと思います。こうして逆行を跳ね返した香港のアーティストたちは、10年代以降も活躍を続けることになり、後に来る世代にちゃんとバトンを繋いでいきます。
次回予告
さて、今回の'00年代の香港音楽では、あるジャンルの音楽を意図的に外しています。それはHip Hopです。’00年代の香港において、本当に元気だった音楽ジャンルは広東語のHip Hopです。次回、’00年代香港-B面編では、一回分まるまるかけて、広東語Hip Hopの魅力に迫ります。
バックナンバー
1927年から2025年まで、約100年のC-POPの歴史を紹介する連載。過去記事は以下で読めます。