マーティン・スコセッシの映画に惹かれる理由(キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン)
育児をするようになってご飯を食べるのがめちゃくちゃ早くなった。
子供が少し遊んでるすきにキッチンで(なぜか)こそこそ食べることが多い。
食べるものも調理をしなくていい簡単なもので、咀嚼して飲み込むスピードも早くなったような気がする。
そしてそれは、食事だけのことではなく、日常的にみる動画コンテンツにもいえることなのだ。
食事と同じような理由で短い動画に手を出して、とりあえずの空腹は満たすが、短い分もっともっとと手が伸びて、何本も観るうちに一体何を見てたんだっけ?とすぐに忘れてしまう。
もちろんそういう動画にはすごくお世話になっていて感謝しかない。
問題は受け取り手にあるということだろう。
そんな状況の自分が、すごく時間をかけて丁寧に作られた料理を、気の置けない人たちと食べるような上質な時間を過ごせた映画が、今年劇場公開されたマーティン・スコセッシ監督の「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」だった。
これまでもスコセッシ監督の作品は「グッド・フェローズ」や、「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」「沈黙」「アイリッシュ・マン」などを観てどれも面白かった。
特に「沈黙」は長崎五島列島の潜伏キリシタンの話で、これまで教科書で知ってるつもりだったけど、この作品で観て改めてその事実に衝撃を受けた。
実際に現地に足を運んでみたいと思い、五島列島に行ってしまうくらいのインパクトがあった。
マーティン・スコセッシ
幼少期の頃は、病弱で家に引きこもりがちだったらしい。
当時リトル・イタリーにある自宅の窓からは、カトリックの神父やギャング街を歩いているのが見えた。
ギャング達は悪事を働きながらも、神父に許しを乞うていた。
悪でありながら善をも求めようとする。
その相反するものが混在する様を、窓から一定の距離感を持って眺めていたことが彼の映画に生かされていると思う。
例えば「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の夫アーネストとモリーの夫婦関係を見てみる。
夫であるアーネストは、伯父の指示通りに妻モリーに少しずつ毒を盛っている。
アーネストは罪悪感のために毒を半分飲むのだが、弱っていくモリーにそれでも毒を与え続ける。
夫婦間には間違いなく愛がありながら、それと同時に毒を盛ろうとする。その相反するものが混在している様が、一口に語れない夫婦像を描いている。
そもそも映画作りについても、その視点が生かされているのではないかと思う。
彼は監督でありながら、シネフィル(映画通の意味)で、若い映画作家の作品を未だに数多く鑑賞して、自分の作品に積極的に取り入れている。
当事者でありながらも鑑賞者の一歩引いた視点を持っているところが、御年81歳で巨匠と呼ばれる立場にあっても、作品がどんどん面白くなっている所以であるのではないかと思う。
彼の作品はその客観性から、多角的な切り口で捉えることが出来るので、観る人にさまざまな思いを巡らせたり、鑑賞後に誰かに話したくなる余韻がある。
それがスコセッシの映画に惹かれる理由だと思う。