『「社会正義」はいつも正しい』は、「文化的マルクス主義陰謀論」の書か?
批判者によると、『「社会正義」はいつも正しい』の著者リンゼイは、右翼の陰謀論である「文化的マルクス主義陰謀論」に染まっているらしい。文化的マルクス主義陰謀論は、フランクフルト学派を現代の進歩的運動、アイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスの流行に責任があるとし、また伝統主義保守主義のキリスト教的価値を、文化戦争により破壊しているとみなす*。
これと大きく重なるフランクフルト学派陰謀論は、マルクス主義の理論家やフランクフルト学派の知識人から選り抜かれた精鋭たちが、西洋社会を転覆させつつあるとする*。
「文化的マルクス主義陰謀論」批判者のポイントは、「フランクフルト学派」のアイデンティティ政治、ポリティカルコレクトネスへの影響力を誇大に見積もり、文化戦争の裏で糸を引く主体とみなすことは陰謀論だ、といった所だろう。
『「社会正義」はいつも正しい』におけるプラックローズないしはリンゼイの主張はどうなっているのだろう。Kindle版を「フランクフルト」で検索すると6件(本文に1件、注に5件)見つかるのだが、明らかに「フランクフルト学派」と「ポストモダニズム」を区別し、両者の「批判理論」の違いを指摘している。
要約すると、『「社会正義」はいつも正しい』は、フランクフルト学派の〈批判理論〉の「大半」は、応用ポストモダニズム〈理論〉とは関係が無いと主張する。しかしその上で、<応用ポストモダニズムの理論家は、「西洋文明がすべてであるという前提」および「リベラリズム」に対する批判を、フランクフルト学派から受け継ぎました>との立場だ。
「西洋文明がすべてであるという前提」批判と「リベラリズム」批判に、「ポリコレ」や「アイデンティティ政治」がどのくらい重なるのか定かではない。あるといえばあるが、大雑把な関係しか無い。
また『「社会正義」はいつも正しい』内の「フランクフルト」という語が出現する箇所全6件において、「ポリコレ」や「アイデンティティ政治」と「フランクフルト学派」の近しい影響関係を語る箇所は無い。「フランクフルト」という言葉は注に5件、本文に1件のみ出現する。本文の1件は次の文章だ。フランクフルト学派→新左翼/ニューレフト政治に影響関係がありましたとの主張で、これは思想史の常識に属する。
「初期ポストモダン思想家たちが知、事実、社会構造の理解を解体したのに対し、新〈理論家〉たちはそれを自分のナラティブに沿うように一から再構築した。彼らのナラティブの多くは、新左翼/ニューレフト政治運動の手法や価値観から派生したもので、この政治運動はさらにフランクフルト学派の〈批判理論〉の産物だった。」(56頁)
結論。『「社会正義」はいつも正しい』は、一般的な意味での「フランクフルト学派」陰謀論とは関係ない。
加えて『「社会正義」はいつも正しい』は、同書が批判する「応用ポストモダニズム」と、俗流の「文化マルクス主義」を区別している。
上記認識は、「文化的マルクス主義陰謀論」を批判する論者の認識とむしろ近い。
というわけで、「文化的マルクス主義陰謀論」や「フランクフルト学派陰謀論」的な勘違いを『「社会正義」はいつも正しい』は認識しており、それらから距離を取っているように見える。
ジェームズ・リンゼイと「文化的マルクス主義陰謀論」・「フランクフルト学派陰謀論」
しかしこれで終わらない。ノア・スミスの記事では、ジェームズ・リンゼイが「社会正義や批判的人種理論、あるいは彼が「意識高い系」と互換可能な形で用いている他の用語は、フランクフルト学派やグラムシのようなフランクフルト学派にゆかりの知識人に作られたとみなし、しきりに名指している」と指摘する。
『「社会正義」はいつも正しい』と違い、フランクフルト学派に攻撃的な気もする。しかし整合する範囲内の気もする。
またリンゼイを極右・反ユダヤ主義として批判する記事によると、リンゼイは今では文化マルクス主義という言葉の使用に、抵抗が無いようだ。リンゼイは、「"文化的マルクス主義"といった言葉を頻用する」「Lindsay氏でさえ元々、Cultural Marxismはオルト・ライト用語だから避けていた様ですが、今では堂々とCultural Marxismという語を使っています」。
一つの仮説として、今のところスキャンダルが上がらず空気なプラックローズと<極右化>が指摘されるリンゼイの見解の差異が、『「社会正義」はいつも正しい』と、リンゼイのツイートとの違いとして現れているのかもしれない。