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#202 痛みのわかる人間でありたい

久しぶりに言葉で直接心を傷つけられた経験をした。
始めはおふざけだったけれど、それが徐々にエスカレートしてたちまち可愛げのない攻撃へと化けてしまったのである。

逆に、僕も誰かを傷つけた経験がある。
いじっていたのが、いつの間にか攻撃になっていたことがある。
そのときの僕は、他人の心の痛みというのを理解していなかったな……。
今ではそう反省している。

いじりといじめの境界線

僕は職場でいじられキャラになっている。
職場の雰囲気をよくすることを、僕は責任者の一人として重視している。
なので多少のいじりで、職場に朗らかな笑いが起こるのであれば、僕はそれを甘んじて受けようと思ってはいる。

一方で、最近一部の同僚からのいじりが過度になっていた。
見た目をいじってきたり、「最初は一緒に仕事がするのが本当に嫌だった」と笑いながら言ってきたり。
一番心に来たのが、せっかく一生懸命やった仕事に対して「あんな無駄なことしなくてもいいのに」と言われたことだ。

これはもはやいじりではない、いじめだ。
そう思ったので、僕はその同僚に「さすがに言い過ぎだ」と軽く叱責した。
同僚は素直に謝ってきたけれど、僕も僕でいつもへらへらいじりを受けすぎていたことに反省もした。

いじりといじめの境界線。
これは学校を始め、至るところで語られる問題だと思う。

僕の考えとしては、月並みではあるが、そこに尊重があるか否かだと思う。
外見だとか、仕事や存在を否定するだとか、そういったことからは尊重などは一切感じられない。

その同僚が本当に反省したかどうかはわからない。
だが、僕としてはどんなに職場の雰囲気を重視しようとも、過度にならないようピエロの着ぐるみを脱いだ方がいいなと思っている。

痛みを経験すること 理解すること

若い頃にも同じようなことがあった。
過度ないじりを受けた経験は一回や二回ではないし、逆に僕が誰かをいじって傷つけてしまった経験というのもある。

だからわかるのだが、いじりといじめの境界線が曖昧になってしまう理由は、その人自身が他人の痛みや苦しみへの理解が乏しいからだと思う。

かつて、僕が誰かをいじって傷つけてしまったとき。
僕は今以上に浅はかな人間で、自己中心的で、当然ながら痛みや苦しみを受けた経験もほとんどなかった。
だから自分の持っているものさしで判断して、結果的に傷つけてしまった人と絶縁することになってしまった。

メンタルナースタケルさんの記事にも書かれているが、
痛みや苦しみ、そして悲しみ。
そういったネガティブな経験は、人にとってとても嫌な記憶になるし、自己肯定感を下げてしまう可能性もある。
だけど反面、優しくしてくれる経験でもあると思うのだ。

今、誰かに傷つけられている人がもしいたとしたら、こう思おう。
――傷つけてくる人は、痛みを知らない可哀想な人なのだ。
――自分はこの人のようにならないよう、他人に優しくしてあげよう。

傷つけられている今というのは、とても辛い瞬間だと思う。
だけど長い目で見ると、傷つけられた経験は絶対にあなたを優しくしてくれるし、強くしてくれる。
僕はそんなあなたに「よく耐え抜いたね。強くなったね」と言いたい。

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立竹落花
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