#187 noterでいられることの幸せよ
自分が何者であるか。
アイデンティティという言葉があるが、これを持っていることは人生においてとても重要なのだという。
僕は「自分が何者であるか」を失っていた時期がある。
それはとても辛く、暗く、苦しい時間だった。
自分が自分ではないような感覚
3年前。
一度、僕は図書館司書をやめた経験がある。
その理由としては一つに薄給であることに不安を抱いていたから。
もう一つは、その仕事があまりに好きすぎて、逆に視野が狭くなっているのではないかと自分を疑ったからだった。
だけど、司書である自分を失ったとき。
尋常ではない喪失感を覚えてしまったのである。
自分は会社員だ。それは理解している。
だけど、図書館司書ではない自分が、自分ではないような気がした。
結果的に、その会社とは肌が合わず適応障害が再発。
あっけなく、僕は無職になり、心身がどん底へ落ちたのだった。
何者でもないというつらさ
もはや会社員でもなく、図書館司書でもなく、なんでもない自分。
自分を示す記号を何ひとつ持っていない。
そんな状況だから、もちろんこう思うのである。
自分って、何のために生きているのだろう。
突き詰めれば、僕は今いる両親の子どもであり、友達にとっての友達であり、先生にとっての教え子であり――
一応、自分を示す記号があるはずだった。
それはありがたい。だけど違う。
この大きな社会の中で、いったい自分は何者なのだろう。
学生でもなければ、会社員でもない。
フリーランスでもなければ、仕事をやり抜いてリタイアしたわけでもない。
自分が何者でもない状態は、暗闇に閉じ込められている状態に近い。
生きている理由もわからなくなるし、そうなると夢も希望も見失っていく。
僕にとって図書館司書である自分は、想像以上に大きなアイデンティティだったのだと、この経験から気づかされたのだった。
それから3か月もしないうちに、僕は図書館司書へと復帰した。
図書館司書に戻れることがわかったときの喜びは、忘れられない。
自分に役割が与えられたおかげで、人生に希望を見出すことができたのだ。
noterも一つのアイデンティティへ
今では図書館司書であることを誇りにして生きている。
図書館業界には課題が山積しているから、よりよい図書館にできるような人間でありたいと思い、仕事以外でも勉強をしている。
図書館司書である自分というのは僕にとって大切な自分なのである。
それで言うと、noteで活動している自分というのも、この7か月半を経てとても大きな存在になってきたと実感している。
図書館で働いているときも、一人で創作をしているときも、誰かと話しているときも――
頭の片隅には、noteで書く題材を探している自分がいるのだ。
何よりnoteの記事をうまく書けるかどうかで、僕のメンタル状態が左右されるといってもいい。
なかなかうまく書けないと、メンタルが落ち込んでしまうし、
納得のいく文章が書けたときは、心がこの上なく晴れやかである。
noteが自分を文筆家というアイデンティティを与えてくれている。
いや、noteだけではない。
読んで下さっている皆さんがいなければ、僕はnoterであり続けることができなかったことは間違いない。
皆さんが、僕に役割を与えてくれたのです。
本当に感謝してもしきれません。
図書館司書であること。
noterであること。
この幸せを噛み締めて、誇りを持って、明日も生き続けるとしよう。