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#178 苦しみに重いも軽いもない
人生、生きていれば苦しむこともあると思う。
病気、仕事、人間関係、お金、恋愛——
身近なところには悩みも苦しみも転がっている。
人は、何か理想や目標を追うために生きているところがある。
だが、同時に苦しみから逃れるために生きているところもあると思う。
僕もさまざまな苦しみを抱えて今まで生きてきた。
もちろん苦しみなんてなくなってしまえばいいと常日頃から思っている。
けれど、自分の抱える苦しみをも大切に扱う必要がある。
最近はそんな可能性を感じている。
苦しみを比較されて苦しむ
僕は自分の苦しみを他人に話すことが苦手だ。
なぜかといえば、精一杯自分の苦しみを吐露したとき、こう言われたことがあったからだった。
「世の中にはもっと苦しんでいる人がたくさんいる」
ぐうの音も出なかった。
食糧がなくて苦しんでいる人。
災害で苦しんでいる人。
世の中を見渡せば、自分より重い苦しみを持っている人はたくさんいる。
それを言われて、僕は思った。
「ああ、僕は恵まれているんだな。
こんなことで苦しんではいけないんだな」
そうやって僕は、僕の中にある苦しみを苦しみと捉えないようにした。
けれど、もちろんそんなことで苦しみが消えるわけでもない。
むしろ、「こんな軽い苦しみで苦しんでいる自分なんて」と自己否定の材料にしてしまったのである。
苦しみの比較は無意味
そもそも、苦しみの比較って必要だろうか?
いや、必要ではないなと思ったきっかけが、とある本にあった。
最近、西加奈子さんの小説『夜が明ける』を読んだ。
日本の社会にある生きる辛さや痛みなどを描いた超大作である。
その文庫本に著者と小泉今日子さんの対談が収録されている。
その中の一部分に、僕は瞠目したのである。
(日本の貧困に対して)南米や中近東、アフリカ出身の方も(著者がいたカナダには)たくさんいるので、その方たちからしたら、貧困といってもごはんを食べられているんだからそんなに苦しくはないでしょう、僕たちの国では貧しさで人が死ぬと。
(中略)
日本のこの辛さは、他国に比べたら大したことないから我慢しないと、というものではないはずです。日本人は特に、「●●と比べたら」という比較で目を瞑ったりなかったことにしたりしがちです。それは苦しさをやはり「乗り越えている」だけで、それを受け入れて、きちんと自覚していることにならないんですよね。
より一部加筆・抜粋
これを読んだときに確信した。
苦しみを比較することは、その苦しみを受け入れないことに等しい。
苦しみを無視しているのと一緒だと。
それは、苦しみから逃れるための解決策では決してないと。
苦しみに重いも軽いもない
もし、これを読んでいる方が何かに苦しんでいたとする。
その一方で、「こんなの他の人と比べたら苦しみではない」と少しでも思っていたとしたら、僕は全力で否定したい。
人の持つ苦しみに、重いも軽いもない。
人と比べて、自分の苦しみをなくすことはおそらくできない。
どうか、自分の苦しみを大切にしてほしい。
かといって苦しみから逃れる方法が何かと問われれば、僕は答えることはできない。
ただ一つ言えることは、誰かと比較せず、苦しみを受け入れること。
それが解決策の入り口なのではないかと思うのである。
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