グリーンマイル(映画)

吹替で観ました。
ショーシャンクよりかなり人権があった。

「最後が泣ける」と聞いていたのですが、パーシーの最悪さが看守たちの交流よりも印象に残ってしまったのであんまり感情移入できなかった。

パーシーが1時間20分くらいで退場してくれてたらもっと感動できたと思う。
あいついいところがひとつも無かった。愛嬌も度胸も知恵もない。最悪。
なのでパーシーがお望み通り、ただし職員ではなく患者として精神病院行きになったところで「いい皮肉ですね…」とニッコリしてしまった。

ていうかパーシー、死刑囚や精神病院など、公的に「ヤバイ奴」と認定された人を管理することで自尊心を保っている節があるので過去が気になる。
ウィリアムが暴れたときに警棒を使えなかった(面白がって使わなかったわけではない)程度に肝が小さいし、体格もワルをやるには小さいので、強烈なコンプレックス由来の行動に見える。
まあシンプルに生まれついての小心者のクズの可能性もありますが……。


狙っているのか、宗教観の違いのせいかわからないんですが、コーフィを死なせたから罰が下った(コーフィは常に正しく、神の使いである至上のもの)という考えにはかなり違和感がある。

どこかの立場から見たときの「完全な悪人」「非の打ち所のない善人」はあり得るけれど、世界全てにとってのそれは存在しないのでは?
コーフィはコーフィが善だと感じたものを救ったけど、悪だと判断したパーシーを狂わせて殺人をさせたのはなんか違うのでは?
殺されたやつも相当悪人なので、コーフィの正式な能力開示シーンであると同時に二人まとめて始末したという好感度プラス寄りのシーンっぽく見えるんだけど、ここでかなりコーフィへの警戒が上がってしまった。

大人になってあのザマでは救えないというのはそりゃそうなんだけど、じゃあ神の遣い(仮)が殺していいかと言われると……。
死んでやり直した方が早いってことなのかな。

いや物語だし、キリスト教的には神視点での完全な悪、完全な善は存在するのか……?
キリスト的にはパーシーもウィリアムも完全な悪になるのか?
わからん。

そもそも人間を人の器に入ったものがひとりで裁くのは無理があるんじゃないか?
実際、コーフィは限界を感じて死刑を救いと感じたわけだし。
インターネットで毎日のように私刑が執行されているのを見て「常に正しい者」の存在を信じられなくなっているのかもしれない。


機会があれば字幕で観たいですね。
また印象が違うかもしれない。

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