シン・エヴァ見ました(3)アスカについて

月曜にシン・エヴァを見てからはや3日目となり、時の流れの速さを禁じえない。現実はずっとエヴァに浸ることを許してくれないし、そもそもすぐに記憶が失われてくる。それから熱意も。やはり見た瞬間がいちばん熱いに決まっている。鉄は熱い内に打て、ということだが、その意味では上映初日にクラブハウスで喋れたことはよかった。よかったが、喋ってしまうと書くことがなくなるとも言える。それでもまだ書くべき意味がありそうなのでこれは最後までやることにした。

■アスカについて

シン・エヴァにおけるアスカは基本的に3つに分裂していて、1つは破で現れた式波だが、2つ目はQで再登場した片目のアスカ。3つ目は厳密には作中にはいないが、もちろん惣流のことである。一応1と2のアスカには連続性があるが、1のアスカは3のアスカと酷似しているので、比較のために3の概念が必要になる。

ところがシン・エヴァでは驚きの事実が発覚していて、なんと式波も綾波のようにたくさん複製された式波シリーズと呼ばれる存在であったことが明らかになる。事実だけを言えば、ネルフ側に式波アスカのオリジナルがいて、我々の知るQアスカはそいつに飲み込まれてしまうのだ。

なぜそれが必要かというと、詳しくは忘れてしまったが、ゲンドウの補完計画(儀式)に必要なパーツだったようである。この必要性は13号機がダブルエントリーシステムだったことに関連していると思うが、そもそもなぜダブルエントリーが必要だったのか。カシウスの槍とロンギヌスの槍を二つ使う必要があったからか。でもそれはなんでだ? カシウスが希望を司り、ロンギヌスが絶望を司る、とか言われていた気がする。希望と絶望の相転移(まどマギ)ということだろうか。儀式を整理するのはめんどうくさい。

アスカが実は複製である。謎解きの答えとしては唐突だが、この構図は実は目新しいものではない。TV版の頃からそもそもパイロットはなぜ「チャイルド」ではなく「チルドレン」なのか、と言われていた。もちろん複数名いるからだという説明は成り立つが、綾波が「いっぱいいる」ことを踏まえると、他のパイロットも実はいっぱいいるのではないか? と考えることは容易だった。さらに言えば、EoEでは量産機と呼ばれるエヴァが登場し、そこにはパイロットの複製であるカヲルのダミープラグが搭載されていた。

ダミープラグという概念は破では登場していたが、Q以降はすっかり鳴りを潜めていた。必要ないといえば必要ないともいえる。ただ、シンでの出来事を言い換えるなら、Qアスカとはいわば自我を持ったダミープラグなのだから、彼女は黒波とほぼ同等の存在だったということが明らかになる。つまりQアスカとは、式波が惣流のパロディであるのと同時に、式波自身のコピーでもあるような存在として生まれている。しかし、義眼というか眼帯の存在によって、まるで他のアスカのコピーではなくなった唯一の人のようにも振る舞っている。どうしようもなくエヴァから遠く離れているのに、特別な存在となっている。

シン・エヴァのポイントは虚構と現実の接続だが、同時に、複数の虚構の接続を行っているという事実がある。具体的には旧世紀版と新劇場版の接続で、シン・エヴァの補完の場面では何度も「ネオンジェネシス」と言われる。補完による世界の再生でネオンジェネシスを作り出すという意味だが、当然ながらこれは地上波のエヴァンゲリオンの英文タイトルである。つまり新しく作ったもので昔に戻すということを意味している。といっても純粋に昔に戻すわけでもなく、また戻れるわけでもないということで、これは「過去もひっくるめてすくう」ということを意味していると思う。新世紀なのに過去に戻るようなニュアンスが出てしまうのは矛盾だが、同時に、矛盾を超えていくという意思が感じられた。アイロニーかもしれないと思ったが、むしろ批評の語彙でいうなら、まさにヒューモアというやつだろう。新世紀を始めるんだって? なんか昔にも聞いたな。というような。

話を戻すと、このことの意味というのは、新劇場版は本来、旧世紀版と関係ない、ということだ。我々の経験上メタレベルで接続できることと、たとえば機動戦士ガンダムとガンダムZZが時系列的に関係がある、ということは違う。エヴァはこのメタレベルの経験をフィルムに落とし込むことに自覚的すぎていて、たとえばかつてのセルを転用した「リビルド」はその象徴的手法だった。そして、序以降はあまりされなくなったその手法が、シン・エヴァでは極めて旺盛に復活していた。それどころか、補完の世界の中では物理的・具体的に旧世紀版の情報が登場していた。補完の世界の中では、本来関係ないはずだったこの両者が同じ地平に並べられたのである。

なぜこのようなことをくどくどと述べなければならなかったかというと、アスカはこの新旧の区分の間にいるような存在だったからだ。いわゆる”他者”。EoEの赤い海に最後にシンジとともに投げ出された唯一のひと。そして、こともあろうにそのシーンの続き(終局の続き)がシン・エヴァで描かれる。それがどのような意味を持っているかを考えずにアスカについて考えることはできない。

アスカがなぜシンジの他者であるかというと、それはレイがシンジにとって他者とは言い難いからである。すでにゲンドウのところで述べたように、レイとはシンジの精神的双生児であり、そして母親のコピーでもある。アスカはそうではない。加持リョウジが言ったように、彼女とは男にとって彼岸にいる存在だということにあるが、シンジにとって(彼)女という他者であるのはアスカしかいなかった。あとは母親の隠喩にとらわれてしまう。たとえばEoEでミサトはシンジに女を教えたかのように見えたが、それも隠喩である。なぜならミサトは加持の女だからだ。一方、アスカにとっては加持は男の隠喩だった。父親のイメージが決定的に欠如しているアスカにとって、加持に父親を投影していたかどうかはわからないが、ミサトが加持に父親を投影していたことを考えると、アスカもまたその呪縛から逃れられていたかはわからない。ただ、描かれていなかった。

父親とか母親とかいうけど、みんな子供だな、とふと思った。どうしようもない。

TV版をアスカの成長として考えるなら、男の欠如した世界でむしろ男の代替物(エリートパイロット)として自律しようとしていたアスカが、生理に苦しんだり、母親との関係に苦しんだり、けっきょくはシンジに負けたりして折れていくのが一連の流れである。彼女の当初のプロジェクトはほぼほぼ全て挫折した。女性性にやられていく過程と言えた。アスカにとってシンジは基本的にあらゆる意味で当て馬に過ぎなかったのに、同じ水準にいる男がシンジしかいなかったから、意識せずにはいられなかったのだろうと思う。レイと自分が比較されることにも耐えられなかっただろう。アスカはシンジを好きになるしかないような状況に置かれていた。

Qアスカがシン・エヴァで黒波に対して、黒波がシンジのことを好きだというと、それはプログラミングされた感情にすぎない、というシーンがある。黒波はそれでも構わない、といい、Qアスカはそれを冷めた目で見ているのだが、冷静に考えるとあれは自分を踏まえているような気がする。昔のアスカの感情は別にプログラミングされていたわけではないが、抑圧されていたことは間違いなかった。他に男がいないからしょうがない、と言ってしまえばしょうがないのだが……。また、やはり生い立ちがおかしいアスカ、同じように人格形成がおかしいシンジのことを愛でずにはいられなかったようにも思われる。僕はアスカが「ねえシンジ、キスしようか」といったときのモーションだけではアスカの愛情を確信できないが(しかしアスカは欧米人風にキスくらい誰とでもできるわと振る舞っておきながら、たぶん好きじゃなきゃキスできないタイプの女だろう)、ラーメンを食べながら父さんに褒められて嬉しかったというシンジに「ほんとにバカね」と言ったシーンにはさすがに愛情を感じた。どうしようもないやつなのに放っておけない、という、こじらせた恋愛感情を感じた。

EoEの補完の中でアスカは「あんたが全部私のものにならないなら、私なにもいらない」とシンジに言う。これはTV版の補完にはなかった決定的なシーンの一つである。EoEは明らかにシンジとアスカの二者関係を軸にして進行している。補完の世界で魂が交錯しているのなら、これはアスカの本心だと言える。しかし、その直後、ミサトの部屋で弱ったアスカにすがりついたシンジはアスカに否定され、シンジはアスカの首をしめることになる。このシーンやばすぎるな。時系列上は23話と24話の間にこれがあったと思われるが、現実のことかはわからない。エヴァ破で3号機が初号機に首を締められるシーンはここのパロディである。

シンジとアスカはつきあってもいないのに病みきったカップルみたいになっていて、大人の補完計画で消滅させられた人類を復活させるにあたっては一番にアスカを復元しちゃうくらいだから、一番大切な相手だったと思うのだが、そんなに大切ならそういう人間関係を醸成するプロセスが必要だったのに、と今となっては思わずにはいられない。それって何かっていうと、これから暴言を吐きますが、さっさとセックスしとけよみたいな話である。もうすっかり忘れられているが、25話の冒頭で病室で眠るアスカを見ながらシンジはなぜかオナニーをしてしまう。もう性欲が暴走している。素面でみるとあのシーンは謎すぎる。EoE最後のアスカの「気持ち悪い」は、あのシーンの感想に対応していると言われている。普通に考えておかしいが、冷静に考えると、相手へのコミュニケーションが首絞めに収斂していることもおかしい(これは赤木ナオコと綾波レイの関係や、アスカの母親の首吊りから連携する呪いでもあるのだが)。殴るのでもなく、首を締める。抱きしめるのでもなく、首を締める。おかしい。エヴァでは、首を締める前の適切なコミュニケーション手段が「握手」しかない。これが間違っていると思う。シンジに必要なのはどこまでいっても勇気で、だからシンジは「意気地なし」となじられる。エヴァがいびつなのはこの歪みに由来すると思う。加持との決定的な違いでもある。

こういう歪んだ人間関係のせいで、単純な他者である以上に、シンジはアスカを拒絶によって理解不可能な他者にしてしまった節があり、アスカからシンジに対する辟易も頂点に達していただろうと思う。重要なのは強烈に理解可能な部分や共有しているものがあったりすることであり、要は、根源的な離れ難さがなければ、そもそも他者がどうとか問題にならない。そうでなければ、ただ無関係・無縁なだけである。

アスカといえばEoEの決定稿では量産機と戦闘中に「もうバカシンジ!早く来なさいよ!」と言っていたのに、収録直前に「バカシンジなんて当てにできないのに!」に書き換えられていたことが有名だが、これに関しては書き換え前のセリフの方が重要である。いわば書き換えられた方のセリフこそが本心・無意識であり、しかし制作中の時間経過やら何やらで精神的現在が先取りされてしまってこのセリフになってしまっているという感じがする。そしてそれはアスカの精神的防御でもあって、助けてほしいといって助けてもらえなかったらもっと傷ついてしまう。実際、シンジが初号機に乗った頃にはもう手遅れだった。だがそれでもアスカにとってはシンジは大事だったはずである。なぜなら、シンジ以外の大人はそもそも自分を助けてくれる対象ではなかった。伊吹マヤが「シンジくん!弐号機が!アスカが!」と絶叫するが、結局はそれしかできない。大人は何もしてくれない。

こういうことがあってシン・エヴァがあるのか、と思うと本当に歴史の厚みにやられそうになる。

Qアスカの恨みというのは、こういう来歴を前提にしないと理解できない気がする。確かに破でバルディエルに取り込まれたアスカは本当に不憫だったが(あのシーンを見て僕はおかしくなった)、それだけでシンジを恨むのはお門違いだった気がする。シンジの手で殺してほしかった(ダミープラグではなく)という気持ちはわからなくもないが、破だけで言えばそこまでの人間関係の厚みはなかった気がする(死亡フラグのシグナル強度はあったが)。だから、ここにきてまたかよ、とアスカが思ったのなら理解できる。また首をしめるのかよ、と。もしくは、また首を締めるだけなのかよ、と。

はてさて、これを踏まえてすっかり荒みきったQで再会したアスカはシンジを見るなり殴ろうとするわけで、その理由をシン・エヴァで問いかけるくらい根に持っている。率直にいってそんな理由わかりませんよ。わかるとしたらシンジが前世の記憶を持っている場合に限る。が、シン・エヴァの後半のシンジはそれをなめらかに語る。そしてアスカもその答えに満足したように去っていく。ちょっとは成長したみたいね、というような感じで。

まあ言ったら、この式波は使徒と化したことによって、ただの式波ではなく”アスカ"になったのかな、と思った。アスカとして生きるには何が必要か。14年も時が止まっているシンジに付き合えないのは自明である。逆に言えば、赤い海で二人だったはずなのに、気づいたら私ひとりだったんだが? みたいな気持ちだったのではないか。アスカは単に、一人(シンジなし)で生きていくしかなかった。

問題はマリとアスカの関係だが、機能的には、旧劇まではアスカとの関係で重要だった母親の存在が後退して、ほぼほぼここにマリが入ってきているのは、少なくともQ以降は明らかである。とはいえ母親の役割そのものをしているとも言い難くて、むしろマリはシンジのかわりである。シンジの代わりにマリはアスカとタッグを組んでいる。マリのことを考えずにアスカを考えることは不完全な気もするが、しかし同時に考えても何もできない気がするので、これについては後から考える。

アスカを主体として考えれば、シンジとの別れは必然的なものだったと言える。別れていない元カレがやってきて、まだ私の心をかき乱すのか、と言った具合である。しかも実体としてはほとんど死ぬまで関わり合いを持ち続けてしまった。腐れ縁を超えている。ただの二人ではないのである。まさに運命を仕組まれた子供だ。だが精神的にはアスカはケンスケに惹かれていた。しっかりしていてよかったのだろう。もっとも僕からすればケンスケは加持のコピーにしか見えなかった。結局男の趣味は変わらんな、と思った。そう思えば呪縛であり、あまりさっぱりした話ではない。とはいえ、アスカに第三の選択死が示されたことは重要だった。成長したケンスケとのカップリングを考えたことがある人はほとんどいない気もするから、これは二次創作の外部とも言える。

これをふまえてアスカの補完について考える。

「パパもいない、ママもいない。だから誰もいなくていいようにする、そうしないと生きていてつらいから」とアスカは言う。アスカは孤独だ。お供は人形だけ。これは、シンジを失った(と思った)あとの世界観だと思える。このアスカは、誰からも必要とされてなくても構わない、それでも大丈夫でいられる強さがほしい、と願った。顔の見える人からの承認が得られないなら、せめて匿名の多くの人たちから承認されたいと願った。しかし、それが代償行為であることにも気づいていた。本当はただ、頭を撫でてほしかっただけだ、と吐露する。この世界では、それを与えてくれたのはケンスケだったようだ。

目覚めると赤い海。アスカのそばにはシンジがいた。彼は言う。「よかった、また会えて」と。そして「僕を好きだといってくれてありがとう。僕も好きだったよ」といって別れる。正確には、シンジがアスカをスタジオから追い出す。

これは、あっさりしすぎているように思える。どうしてなのだろうか? こんなことを言い出すと批評が始まってしまう。人々がこの一方的さに違和感を感じている。その気持ちはわかる。けれども材料は出揃っているように思える。確かにこれは唐突だ。セッションの終わり。切断だと言える。我々がもし困惑するとすれば、なぜシンジはこんなに切断する勇気を持ててしまったのか、ということだ。言葉上はわかる。ただ、納得したいのだ。ゲンドウを補完したから、彼の時間も動き出したから、という程度の言葉では、それが正しいかもしれないのにもかかわらず、ほんの少しだけ、これで大丈夫なのかと思ってしまうのも事実である。

つづく

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