「まず書いてみる」のに向いているnote

文章を人に習う機会というのはそうはないもので、一番典型的なのは大学の卒論指導や院進してからのことだと思いますが、そもそも院進する人でしかも文系はとなるとたいへん少数派でしょうし、近年は卒論無しで卒業できるケースもけっこうあるようです。ということは文章を人から習うという機会はあまり人生にはないということがわかってきます。例えば報告書のようなちょっとした形式の文章について習うことはあるかもしれませんが、そういう業務に特化していないところで体系的に作文を学ぶみたいなことはまあやはり普通に考えてなかなかないですよね。小論文を勉強したりするのでもよさそうに見えますが、結構な人数がやっているはずの割にそんなに一般人の作文能力に反映していないように見えるのは、あれがテスト対策でしかないからだと思います。

かくいう僕自身も別に卒論で「てにをは」を直されるような指導を受けたわけでもないのですが、たまたま某道場に参加した流れで、書き方というか講評的なことを受ける機会がある中で負のフィードバックを受ける機会はありました。つまり、いかに自分の文章が出来ていないか、よくないかという指摘はよく受けておりました。おかげで自己肯定感の低い人生を送ることになりましたが、それはそれでないよりはずっとよかっただろうなと思う程度には自分の文体が磨かれたような気もします。

そのせいか、もしくは生来の気質ゆえかは確たることを言えないのですが、文章を書くときにあるタイプの障害が現れることがあります。それは「こう書いてはならない」もしくは「◯◯のように書くべきなのにそう出来ないので書けない」ということです。前者については教育的圧力がある状況でよく生じますが、外からの圧力が強いことによって生じる自主規制であって、アカデミアでもよくありそうですが、率直にいってより野性的なはずの文学だったり批評だったりの現場でよく起きます。後者についても自主規制のように見えると思いますが、こちらは内発的規範に基づく抑制で、僕の実感では小説のようなものを書くときによく起きます。こんなに内省ばっかり書いて全く描写がないから全然小説じゃない、とか、風景描写をしようにも状況や設定を完全なものにしておらず解像度が低いためぼんやりとしたものにしかならないしそもそもそんな状態では何も書けないし、となったりとか、そういう感じのことです。これは理想的なテクストの形式が自分の中になんとなくあるために起こる現象で、しかしその懸隔を埋める方法が自分の中にないため、結果として書けなくなるということです。この構造自体はどこにでも生じうるため、論文や批評で同じことが起きることもあります。

そう考えるとこの世の中でもっとも簡単に書けるだろうテクストは「日記」だと思いますが、しかし、恐らくは日記すらも書くことが難しいという人が世の中には少なくないと思います。日記は基本的に自分しか読まないものですから、どんな書き方をしても構わないし、何なら破綻していてすらもよいのですが、それでも出来なかったりする。その点、僕は日記を書くことが凄く得意で、なぜそう言えるかというと、起きたこと、見たこと、思ったことというものはすでに生じたものですから、それを写生するのであれば無から何かを思いつくこととは比較にならないほど簡単に思えるからです。しかし、繰り返しになりますが、これが難しいと思う人も少なくないはずで、その理由は、思ったことは言葉になっているかもしれないけれど、見たことはそれ自体は言葉になっていないからです。だからそれを言葉にすることが難しくて書けなくなってしまうので、そうなると何を書けばいいのか分からなくなってしまいます。思ったことを書けばよいと言っても、時間の流れの中で自分が言葉として思ったことなどというものは断片的なはずで、断片と断片を埋める間が言葉になっていないものだから、全体の流れが寸断されているようにも感じられ、さっきの僕の説明で言えば、風景を描写しようにも解像度が低くてどう書いたらいいかわからないばかりに、全体として何をどう書いたらいいものかということになってしまう。

そういうときはーーそういうときが万事なら万事においてーー断片的でいいから思ったことから書いていけばよいのだと思います。そうして出来上がったものを見直してみれば、そのときにまた発見があるものですから、それを手がかりにして思い出したり、思いついたり、それを手がかりにして何かを書くことができます。

これが僕が批評についてよく言う「まず書いてみる」ということです。この話は恐らく批評を超えていて、そのものずばり書くことについての話だと思えます。恐らくは文学的なテクストを書くことだったり、日記のような内省的文章を書いてみることだったり、あるいは企画書のようなアイディアに関するものを書くことだったりにもそのまま通ずるような気がします。

そこにきてこのnoteというものは非常に「まず書いてみる」ということに向いているのではないか、と僕は思ってきました。別にnoteも最近生まれたわけでもないし、何なら昔はドメインが.muだったくらいのこともあったわけですから、他のブログと何が違うんねんと思うわけですが、昔は純粋なweblog即ち日記に過ぎなかったはずのブログも今となっては一つのしっかりしたテーマを持ったエントリを書かなければならないというような圧力が働いている気がしますし、他方で僕が愛する今はなきはてなダイアリーもとい現はてなブログなどはそれはそれで、なんとなくつらーっとしたテクストを書き下ろさなければならないような磁力を感じていて、無骨なものを書いていると異常に悪目立ちするような印象があります。

じゃあなんでnoteならいいんじゃいということになるのも必定で、正直なんとなくとしか言えない面もありますが、このむき出しのテキストエディタのような感じ、壁紙とかを設定すれば多少ラグジュアリーな感じも出ますが、基本は素朴な感じで利用者みんなが同じUIを使用していて、かつあまりにも多様な人々が多様な形式の文を投稿しているこの感じが、雑踏に紛れて歩くような感じで、気楽だな、と思ったからかもしれないと書きながら思いました。

それから本当に日記として書かれるある種の自閉的なテクストは見られることを想定していないはずですが、それを公開のブログなどで書く場合、見られることを想定していないのに見られることを想定して投稿されるという矛盾に追い込まれるはずで、他方、何か分からないが書かれるテクストというものは見られるも見られるもないところで現れるものですから、それは誰からも注意されていないがしかししっかり存在している匿名風の個人のようなもので、であれば森の中に木か雑草を一本生やすような仕立ての場所に置かれるのが望ましいので、今のnoteはそんな感じがするような気がしました。あらゆるジャンルの人が何かしらの文を残している感じがしますからね。twitterでもいいのですが、twitterは短すぎる割に見つかりすぎるので、文によって自分を曝け出す試行をするのにはそこまで適切ということではないのかなと思ったりもします。タイムスタンプを残すのには最適です。

言い換えるとnoteには本番っぽいテクストもあるし本番のくせして大したことないテクストもあるしさらっとしたテクストもあれば未完成のテクストもあるということです。商売として考えると単独のエントリでお金をもらえるとそりゃあコストパフォーマンス最高だなと思ったりもしなくもないわけですが、お金を払ったりもらったりとは別次元の話として、文に書くものの本番は組版(デザイン)をされたり印刷されたりすることにあると思うので、そちらこそが本番ではないかなと思います。文章書きにとっては貴重なマネタイズが可能になる場所であるとはいっても、それが情報商材でない限りはというようなエクスキューズが必要にはなりますが、商品が主人公の現場であるというよりはコミュニケーションの結果としてマネタイズが起こっている気がするので、本当に感じる価値は人それぞれだなと思うのですが、最終的に何を言いたいかといえば、noteを草稿の場所にしたっていいじゃないという話でありまして、そう思って使うには結構気楽でいいメディアだな、ということでありました。

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