せかいこわい
私がずっと抱えている問題のお話。
わたしは、もともと生きるのがあまり得意な方ではなくて、いや生きるのが得意なひとなんているのか。と思うけど。ここ5.6年は、自分生きるの向いてないなあ、なんてヘラヘラしながら生きてるのがデフォルトになってる。
シンプルにざっくり、せかいこわい。
これがわたしのスタンス、音も、空気も、目に見えるものも、見えないものも、人の心も、匂いも、感じるものも、人間関係も、自分すらも、こわい。
恐怖感しか信じられない。恐怖感、という感情、自分が恐怖を感じているということだけは信じられる。
それがわたしの生き方だった。
けれど、結論から言ってしまうと、それが覆されるほどの出来事が私の人生にはたくさんたくさん溢れていた。未だに、こわいと感じることはしばしばあるけれども恩師との出会いであったり、友達、彼氏との出会い、そんなものがとにかくとにかく”こわいせかい”を少しだけ、”こわくないせかい”に変えてくれた。
これが、HSPという性質によるものかもしれないということもつい最近知った。知ったからって、特に楽になったわけではないけれど、同じような人の呟きを見て、共感してひとりじゃないって思ったり、逆にこの性質を強く持っている人は少ないから自分レアじゃん?って思って無理に自己肯定感あげたりなんかして、なんとか。なんとか今日も生きてる。
なんども、”朝起きたら跡形もなく自分という存在もいた記憶も消えていますように”と願いながら眠りについた。いつ自分で人生の終止符を打とうかを考えたりもした。
中高時代、人生の終わりを考えるほどに、追い詰められていたわけだけれども、友達や両親、先生に相談する気にはなれなかった。
特に悩むほどのことはないけれど、せかいがこわい、だなんて誰が真剣に聴いてくれるのか。悩みがないならそれでいいじゃない、と言われそうで、それもこわかった。
もちろん、人並み、もしくは人並み以上に進路や人間関係で悩んではいたけれど、せかいがこわいことに比べたら、そこまで問題ではなかった。
いや、進路や人間関係も全てひっくるめて、せかいが”こわいもの”になっていたのかもしれない。
きれいなもの、こころが動くもの、がこの世界には多いことも知っていた。知っていたけど、きれいなものの裏にはこわいものが隠れていて、後者が世界を操っている、そんなふうに考えていた。
不運なニュースを聴くたびに、「ああ世界は今日もこわい。」と絶望的な気持ちになって、明日が暗くなる。でも常にそんな気持ちに支配されていたか、というとそうでもなくて、友達と爆笑しているときはせかいはこわくない。でも、せかいがこわくなくなっているわけではなくて、一瞬こわいという感情が麻痺しているだけだ、と自分に言い聞かせてしまう。私の悪い癖。
たのしいときは、たのしいだけだと信じればいいのに。
なんか、色々書いてみたけど纏まりも何もなく、ざっくりとした感じになってしまった。でもわたしの人生はいつもそんな感じなので、まあいいかな。せかいこわいの続きも書こうと思ったりとかしなかったりとか。
自分の考えや、感じていることを文字におこす練習。
わたしより。
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