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【映画評】『邪悪なるもの』は悪魔と現代のトリセツ
Cuando acecha la maldad / When Evil Lurks
公式サイト
https://klockworx.com/movies/jaakunarumono/
■まえがき:ホラーとルールはズブズブ
素敵なホラーに必要な《3大要素》があるとすれば何だろう?
①「新鮮でショッキングなヴィジュアル」
②「How to ビビらせの引き出し」
そしてあとひとつ、わたしが思うのは③「ルールの設計」だ。
ルール、あるいは逆にタブーと言い換えても良い。思えば、ホラーの世界にはルールが付き物だ。
『リング』は7日以内に呪いのビデオを誰かに見せなければならない、とか。『グレムリン』は0時以降に食べ物を与えてはいけない、とか。
口裂け女には「ポマード」が効くし、きさらぎ駅に行くには駅を降りる手順が…もういいか。
ともかくそういった制限や禁忌の設定が、「何をしたら(しなかったら)ヤバいのか」を示すことで臨場感と緊迫感を与えてくれる。
人は得体の知れない存在を恐れるものだけれど、あまりに「なんでもあり」すぎると興味を削がれてしまう。そこを上手く〆るのがルールの存在だといえる。
ただし、ガチガチでも面白くないのが人間のワガママさだ。希望と絶望の配分調整。これはホラーに限らず他の物語やゲームでも同じことだけれど、ことホラーにとっては「生きるか死ぬか」という根源的な危機感に直結しやすいため、より密接なんじゃあないだろうか。
■1.三方よしの秀才ホラー
この観点で、『邪悪なるもの』はめちゃ優秀なホラーだ。サッカーとタンゴと滝の国アルゼンチンからやってきた思わぬ刺客。
「教会は終わった」と誰もが口にし(※1)、《悪魔憑き》が常態的な病のような現象として広く知られて定着している…という世界設定で、ある辺鄙な農場から広がっていく不穏と恐怖。
基本的には憑依系ホラーであり、モンスターやクリーチャーの類はほぼ(ギリのギリまで)出てこないと言って良いけれど、《何か》が確実に迫り、動物や子供(※2)といった無垢で慕わしい存在から順々に浸食されていく戦慄は何ものにも替えがたい。終始、可視化されないモノに追い回されているような感覚になる。
緩急織り交ぜて飛び出すグロ/ゴア描写やその見せ方のアイデアはどれもがFRESH&FLESH。驚きとおぞましさ、一周まわってギャグ。この時点で、上述した3大要素のうち①②は十分満たしているといえるだろう。
加えて、③「ルールの設計」もきっちり押さえてくれる。
序盤で、悪魔憑きに対しては7つのルールがある、と提示される。たとえば「電気をつけるべからず」とか、「銃で撃つべからず」とか。
これらのルール自体が個性的で面白いし、当然「押すなよ!絶対に押すなよ!」のフリに等しいわけで、要所要所で映画をドライブさせる燃料となる。混沌とした事態に翻弄されながらも、定期的にこれらのルールを思い出させることによって一定の安定感が生まれているのだ。
■2.加速するトリセツ
そしてここからが今作の真骨頂。このルールが「後からどんどん盛られる」のである。
中盤以降、エクソシスト的役割の人物が現れると、彼女によってそれまで聞いてなかった謎知識謎ルールが次々と追加される。悪魔は子供と引き合う、とか、自閉症の人の中に入ると出てこられない、とか。いくら悪魔だからって欲張りすぎである。西野カナでも事前告知義務を果たしてたっていうのに。
これらが単なる後出しジャンケンに使われると興ざめだけれど、どちらかといえば主人公(悪魔退治は素人)の置いてけぼり感というか、わかった気になっていた事象の闇深さ、手に負えなさ、そこから生まれる「もしかして既に詰んでるのでは?」感を強調するように機能していると思う。(※3)
事実、映画は後戻りできない方向へと順調に転がってゆくのだ。
正直、展開の上では「どゆこと?」とか「いやさすがにそれは」となるツッコミポイントもあるはある。しかし3大要素①②③の合わせ技で互いに補強しあっている印象で、ラストまで見せ切られてしまった。あっぱれである。
■まとめ:わたしたちのルールでもあった
そんな今作は、パンデミックホラーとして観ることもできる。
劇中の悪魔憑き現象はまさに「感染する」ものとして扱われているほか、主人公の周りには「都会で起こっていることで、こんな田舎で出るはずがない」みたいな根拠の薄い風説を信じている人がちらほらいたりする。
他にも、感染拡大防止の手続きが徹底されてなかったり、ひとたび対応をミスればどんどん拡散し手遅れになったり…
ここまでくれば誰しもが、この荒唐無稽なハズの《悪魔憑き》を未だ尾を引くコロナ禍の記憶と重ねてしまうのではないだろうか。
ここでも、キーとなるのはルールである。
思い返せば、コロナ禍中も(そして今でも)様々な都市伝説・街談巷説・道聴塗説が飛び交う情報災害に見舞われたものだ。映画の中で対悪魔ルールの真偽に迷い・振り回され・選択を誤る主人公たちと、観ているわたしたちの実体験はシンクロする。
あのとき、わたしたちもまた近しい人・愛する人たちとの分断を味わい、「何を信じれば良いのかわからない」、絶対的な秩序(ルール)=《神》の不在の不安を味わったのではなかっただろうか?
そして、その喪失感は事態がある程度収束した今でも消えるものではない。「教会は終わった」「神は死んだ」というこの映画の世界は、もしかしたら既にわたしたちが生きているこの世だったのかもしれない。アフター悪魔、いやWITH悪魔だ。
そう、悪魔はまたやってくる…
そのとき、何をルールとすべきなのか?考えておいても損はないだろう。
この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。
注なるもの
※1:今作の悪魔(ないしそれに類するもの)の名前はウリエルだったりアズラエルだったり。これらはどれも天使の名前だ。教会と神の世が終わり、天使はみな悪魔になったということなのだろうか。そもそも魔王ルシフェルが堕天使だったみたいに?
ラスト近く、主人公が額に受けるとある印も洗礼のよう。神/天使と悪魔は紙一重ということなのかもしれない。
※2:そう、今作は子供相手でもがっつり容赦がない。わたしとしては高ポイント。
※3:奇しくも、『トリセツ』の彼氏の心情と近いものがありそう。