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【映画評】『オオカミの家』なんてこわくない、中にいるあいだは。

La Casa Lobo
チリ,2018
監督:クリストバール・レオン&ホアキン・コシーニャ

公式サイト
https://www.zaziefilms.com/lacasalobo/


まえがき:前提

予告編を目にした瞬間から満点を疑わなかった…チリから現れた、凍りつくほど昏く深い心の海溝へと引きずり込む暗黒魔術的ストップモーションアニメ
2018年の作品ながら、日本に届いたのは2023年。この年、わたしの最高の映画体験の一つになった。

今作の発想の源泉となっているのは、2000年代までチリに実在したドイツ系移民のコミューン、コロニア・ディグニダ
表向きは平和で理想的なユートピアのような顔をしていながら、実態はナチスの残党が首謀するカルト団体で、子供の強制労働や性的虐待が40年以上に渡って罷り通っていたとされる。

1.強制追体験型アニメーション

映画は、どうやら件のコミューンから脱走したと思しき少女マリアが、森の奥で一軒の小屋に逃げ込むところから始まる。
小屋には二匹の子ブタがおり、彼女はアナ、ペドロとそれぞれに名前を付け、更には人の手足と顔を与えて、平穏な家庭を新たに作り出そうとする。

しかしその間も、外からは彼女をあやすように呼ぶオオカミの声が聞こえ続ける。"マァリィィアアァァァ…"
やがてマリアたち3人の慎ましい「家」にも、隠しきれない歪みが現れ始める…。

何はなくとも、まずはアニメーションの表現それ自体に圧倒される。常に画面上のどこかで何かが蠢き、変化し続けるのだ。
壁に描かれた多様なタッチの絵(二次元)がズズズズと動いては、床を這って紙粘土やテープなど雑多な素材を駆使した立体(三次元)にギギギギと生まれ変わったり、その逆も然り。メタモルフォーゼのもたらす快・不快を知り尽くしていると思わせられる。

全編がノーカット長回し風で映されているのも大きな特徴となっている。つまり、ずっと気が抜けない
加えて、時間の大部分は小屋の中、つまり室内の描写に裂かれ、非常に閉鎖的な印象だ。フィールドワークによる採集を中心とした環境音が360度包囲してヒソヒソカサカサと囁く音響効果(※1)も相俟って、家庭という密室空間にリアルタイムで閉じ込められ、悪夢の数珠つなぎを追体験させられる。

全体の尺は74分と、長編映画としては短めの部類に入るけれど、劇場が明転した際にはどっと鈍い疲労感に襲われたことをおぼえている。頭も身体もよく使った。でも、他で得難い満足感。

2.こころは柔らかく、不安定

この「家」で繰り広げられるヴィジョンは、流動的で可変的(※2)。溶ける、流れるといった語がしっくりくるイメージであり、「家」とはまるで消化を待つオオカミの腹の中のようだとも思うし、やはり夢や心の中の再現、記憶や認知の曖昧さや歪みを表現していると思う。

わたしたちが普段オリジナルで一定の自意識だと信じているもの(安定した「家」のように)は、実は不定形で、源泉はどこにあったのか辿ることは難しい、ということだ。

マリアは「私はオオカミじゃない」と子ブタを安心させ、保護し、育てようとする。しかし、彼女の子ブタ=我が子たちへの接し方には、無意識のうちに支配的な傾向を孕んでいることが徐々にわかってくる。
それがピークとなるのは、中盤にとあるショッキングなイベントが起こったあと。マリアは、傷ついたアナとペドロを「一様に美しく作り変える」のである。

この思想はいわば全体主義のミニチュアであり、マリアが拒絶したはずのコミューンで教育され、それと意識しないうちに彼女にも根付いてしまったものだと考えられる。
一度心に根を張った先入観・世界観の枠組みは、環境が変わっても容易には拭い去れない…今作は確かに個別具体的な史実に基づく作品でありながら、本質は普遍的な事象(たとえば虐待の世代間連鎖のような)にもタッチしているといえるだろう。

それ故に、観る人のバックグラウンドや当日のコンディション等によっては封じていたかった記憶をこじ開けてしまうかもしれず、すこし注意が必要だと思う。

まとめ:支配の真のおそろしさ

チリの政権は変わり、コロニア・ディグニダは解体された。当の施設は現在ではビジャ・バビエラと名前を変え、飲食・宿泊施設となっているらしい。

しかし、確実に現在にも尾を引く影響。トラウマとなる体験とは、そのモノ自体がなくなっても、逃げ出して時を経ても、ふとしたときに顔を出して人生を蝕むことがある。「幸せになどしてやらない」、まるでそう囁くかのように。
家庭、職場、誰か大切な存在の喪失、あるいは病の体験などにも当てはめることができるだろう。終わってからのほうが、寧ろ長く支配される。今作は、その《アフター》の残酷さをこそ描いているのではないか。

声はマリアに度々問う、「お前の家は何でできてる?」と。あんなに憎くて憎くてたまらなかったオオカミは、その姿が溶けて、流れて、変わって、果たしてどこに居るのか?
気づいてしまうことが新たな呪いになるのか、それとも救いになるのか…一様には言えないけれど、今作を純粋に一つの映画として観たときに確かなのは、毒を持つ花ほどいつも美しいということである。


注なるもの

※1:Matmosの作品とか思い出した、というかコラボしてほしい。

※2:この手の方向性はやはり定番のシュヴァンクマイエルとか想起しつつ、確かに似て非なる才能。
時に、画家が描いた富江(伊藤潤二)の絵(↓)っぽくもあったりして。

伊藤潤二『富江 / 画家』


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