自己責任論と連帯責任論とメタ自己責任論
こんにちはレインです。
前回「素直な良い子へ」という文脈で、語っていたのは
「責任」にまつわる問題。
これをもう少し深堀していこうと思います。
事あるごとに「自己責任だ~」とか「自己責任とかwww その範疇を出てるだろこれはww」とかなんとか。
あることない事、自分の主義主張にそって、自分の目線だけで語る。
議論という名の罵りあいを目にする事が多くなってきましたよね(笑)
(問題の本質なんかより、自分の感情と理論の正当性が大事だと透けてしまうのです…)
さて、そんな話を横目に自己責任についてあれやこれやと考えたり、誰かとお話しする機会を持ってみたりしました。
そんな事をしていく中で、「自己責任で生きる」事を決めてから人生が好転しだした様に感じている私なんかは「自己責任推奨派」なんだろうなと思い至ってみたり。とかね。
そんな風に思っていたのですが… 私が自己責任推奨派だというのは、どうやら違っていたようです。
世間一般で語られる自己責任論とは、ニュアンスが、目的が、
違っていました。
彼らが「自己責任だろ」と語る時には
「その問題は、私とはなんら関係がありませんよ」という文章…言わば
「自分には責任が無い。あんたが自分でとれ」という意味に見えた訳です。 それは、私にとっての自己責任的な生き方ではない。
そりゃあ批判も出るだろうなと。
逆に、「連帯責任派」 彼らの主張は一見するとまっとうで、理性的で、合理的なものに見えるのですが、彼等もまた。やはり、私の主張とは違いました。
「こんな社会じゃいけない。変えなければならない」
殆どの人がそう訴えるだけなのです。
そう声高らかに叫ぶだけなのです。
(そうじゃない方も勿論いらっしゃいますが、そういう方々は罵りあいという名の議論には絶対参加しない)
こういう方々に対して思うのは
「いや、貴方がそう思ったのだから、それを変えようと行動するのは、貴方の責任で行う事じゃないんですか?」
「貴方が抱いた問題意識を、正しく誤解なく感じ取れるのは貴方しか居ないのだから、貴方にしか解決できないはずなのでは?」
と思う訳です。
どちらも共通して言える事は。
「責任逃れをしている」という事。
もしくは、自分が責任を取れる範囲外の話にわざわざ首を突っ込みに行っている。
自己責任論をかざす人は「だから、貴方が責任を取れ」と言い
連帯責任論をかざす人は「だから、この社会はおかしい」と言う。
誰も、自ら動き出そうとする人が居ないのです。
或いは、議論という名の罵りあいでこそ、世界は変えていけると思ってしまっている。
(そうでないとしたら、本当に感情を正当化するだけの場所ですよね…あれ…)
そのどちらとも、私は相いれない。罵りあいには参加したくないのです。
だって、穏やかに生きていきたいんだから。
誰かをけなしたり、誰かを攻撃したり、社会を非難したりして生きていたくない。
社会は自分の手で少しでもいい方向に進むような、そんなきっかけを作りだしていける人間で在りたいと思うし、
合わない人とは離れる。合う人と関係を気付く。そうやって争いが起こり得ない状況を作って行きたい。
批判や否定は、それが成長の糧になる事を知っていて、自らそれを求める人にだけ渡したい。
そうじゃないと、相手の余計な問題にまで首を突っ込んだり、自分自身が身に着けるべき能力を、他力に依存したりすることになってしまうと思うから。
(他力に依存しても良いんだけど、それすらも自分で選ぶって事)
(自分で選んで、その他力に頼ってるんだから、その人が力不足でも、選んだ自分の責任だと言って前に進んでいける)
私は、良くも悪くも。
「責任=能力の及ぶ範囲」だと思っています。
一時期、「阿部首相やトランプ大統領は天候を左右する力を持っているのか…?」みたいな話が出ていて大いに笑わせてもらいましたが…
「なんで○○が出来ないんだ!」 というとき
「その人に○○する能力はあるのか?」と当たり前のように問う必要がありますよね。
出来ないことは出来ないから、出来ない事って呼ばれるわけで…
(出来るかも知れない事 を 出来ない事 の中に含めちゃうケースは往々にしてあるのだけれども)
自分1人を助ける能力しかない人に「なんで10人助けなかったんだ!」って言うのは酷なわけです。
人間の限界として助けられる人数が10人だった時に
「なぜ100人も犠牲にしたんだ! お前はこの地位にふさわしくない! 能力不足だ!」
というのもまた酷なわけです。
(そんなことをすると、人間の限界レベルで動ける人の責任範囲を落とす=その人の能力を落とす。事になり、その人は8人しか助けられなくなる)
(んでもって、その役職に居ても7人しか助けられない人がその役職に着いたりして、全体で助けられる数が減っちゃう)
(ポピュリズムが叩かれる1つの要因)
妄想として在るんですよね。
このくらいの地位に居る人は、このくらいできて当然だ。 みたいな。
こういう職業についている人は、このくらいできて当然だ。みたいな。
連帯責任論にはそれを根拠に語られる場合が多い様に思えてならない。
役職や素性が明確じゃなくなった途端、身近じゃない人であればあるほど
「同じ人間」として扱うことが出来なくなる。
おっと中々脱線してますね。
そんな訳で、それらを踏まえて乗り越えた、「メタ自己責任論」について語って行きたいのですが。また次の機会にしましょうかね。
(さて、いつ書く事になるのやら。)
PS
大分辛口で来てる気がしますが、同時に事実を並べただけな様な気もしている今回。
でも、「事実○○は○○だった!」みたいな広告からも見て取れるように「それ解釈やんけ」って事が大半(笑)
データや数値で示したところで、そのデータや数値は主観を持つ人間が読み取るし、「どうやってデータを取るか」を決定する。
ましてや、今回みたいにデータも数値も示していなければ、具体的にどんな事があったかも出していないような話なら尚更です(笑)
まぁ、ここは…
「辛口も、事実も、解釈次第」
って事で1つ。