コロナの時代の孔子
とりあえずみんな論語読めばいいんじゃないか問題
仁っていったいどういうものかしら
この自粛期間中、読書でもと思うのだが、重たいものを読むのは大変気が引ける。これを機に積ん読を解消しようと思うのだが、読書とは正月のように心になんの心配も無いときにするものである。それがたとえよくできたエンタメ小説であっても、たとえそれがずっと読まないで我慢していたテッド・チャンの待望の新作であったとしても、今のようにストレスにまみれているときは、話の筋を追うのもしんどい。
そんなときこそ論語である。僕はしんどいときや悩んだときはいつも論語を読む。論語はいい。悩んだとき、だいたいどうすればいいかは全部論語に書いてある。だめなのは恋愛くらいだ。孔子は七十を超えているせいか恋愛については何も教えてくれない。恋愛を孔子に頼ろうなんてのはもうダメだ。まちがっている。恋愛なら二丁目に行ってゲイバーで話を聴いてもらうに限る。知らんけど。
論語の基本は「仁」である。「仁」というのは、字の通り「二人でいる」ということである。ひとりなら、フリチンだろうが大声で歌ってようが飲んだくれようが散らかそうがドアをあけっぱなしにしてようが自由だが、嫁がいるとそうはいかない。たいがい怒られる。そう、私はいつも怒られるのだ。
仁を「思いやり」と訳すのはまあ、そうなのだろうが、どうも何か足りない気がする。思いやりだけではない。もっと包括的ななにかなのだろうという気はする。人を裏切らないとか、敬意を以て接するとか、そういったことすべてが、仁のなかに含まれる。だとすると、聞きたくなるわけだ。
面倒くさいので一言でお願いします。仁ってなんですか?
それ恕か。
論語でこの質問を孔子にするのは、子貢という人物である。
論語を読んでいるとわかるが、子貢って割とこういうところある。早く結論にたどりつきたいみたいな。せっかちなのである。孔子が人物評をしていると横から入ってきて、「私はどうですか?どんな感じですか?」って聞いちゃうみたいな。うざい。うざいけど、ちょっとかわいい弟子でもある。うざかわいい。
子貢問ひて曰く、一言以て修身之を行うべき者有りやと。
子貢は孔子に、「一言以て修身之を行うべき者」、つまり「ひとつだけこれを守っていればOK」ってことがありますか?と訊いた。
無茶である。「これだけやってればいいこと」なんてものが学問にあるはずもない。普通の先生だったら「そんなものはない」と言い切るのだが、孔子はちゃんと考えて、こう答えている。やさしい。
子曰く、其れ恕か。
「それは、恕かねえ」
恕とはなにか。孔子は言う。
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ、と。(論語、衛霊公(二十三))
「自分のして欲しくないことは、人にしてはならない」
ヴォルテールが「寛容論」で「およそ世界の真実は、自分のしてほしくないことを他人にしてはならない、ということだ」と述べていたが、孔子はそんなところはもう二千年以上も前に突破しているのである。
(ちなみにヴォルテールの「寛容論」は「論語」と共通点が多く頭に入りやすい。子曰く、と頭につけると論語になりそうな感じだ)。
確かにこれは世界の真実である。これが仁の本質ではないかと思う。しかしなかなかにこれが難しいのだ。
子貢曰く、我人の諸を我に加うることを欲せざるや、吾も亦諸を人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾の及ぶ所に非ざるなり。(論語、公冶長(十一))
子貢が「私は自分がして欲しくないことを人にしたくはないと思っています」と言うと、孔子は「いやあ、君にはまだ無理だよ」と返している。なかなか厳しいが、そういうものかもしれない。
自分がして欲しいことを人にするのはそれほど難しくない。自分のして欲しくないことを他人にしない、というのはきわめて難しい。
孔子は「これができれば仁者だよ」という意味で述べているのだろう。とすれば、このことを成し得る人物は、この世界になかなかおるまい。いないからこそ、目標になるわけである。
国会中継を見ながら論語を読むのは悲しい。
子曰く、巧言令色鮮なし仁と。(論語、学而(三))
「言葉を飾ってうまいこと言う奴の言葉には仁は少ない」。
「いわば、かつてない、他に例を見ない、まさに、最大規模の経済政策を可及的速やかに、実行して参ります」なんて言葉に、仁があるはずがあろうか。
子曰く、其の以てする所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉くんぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや。(論語、為政(十))
その人が何をしているか、何のためにしているのか、何を考えているのを見たら、隠すことなどできはしない。
隠すことなどできはしないのだ。
大事なことなので二回言った感じ。
枉れるを挙げて諸を直きに錯けば、則ち民服せず。(論語、為政(十九))
曲がった人間をまっすぐな人の上に置いたら、民は従いませんぜ。
国税局の長官にしたりとか。
大使にしたりとか。
定年延長したりとか。
子曰く、人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり。大車に輗無く、小車に軏無なんば、其何を以てか之を行らんや。(論語、為政(二十二))
人に信頼がなかったらどうにもならない。車に車軸がなかったらどうやって走らせるの?
聞いてます?
だんだん悲しくなってきた。かの人には是非、論語を読んで学んでいただきたいものである。ほんまに政治家に論語必修にしたろか。
給付金をもらうなんて、と言う人に
ようやく給付金が出る、という話が出てきた。だが、生活に余裕のある人は辞退するべきだ、というような論調も多い。
そこも論語である。
原思、之が宰と為る。之に粟九百与ふ。辞す。子曰く、母かれ。以て爾の隣里に与へんかと。(論語、擁也(三))
自分の弟子の原思が俸禄として与えられた粟九百が多すぎるとして辞退したとき、孔子は「ならん、多すぎるのならば隣近所に与えれば良いのだ」と言っている。孔子は「もらうものを辞退する」ということを決して美徳としなかった。もしそれが多すぎると思うのであれば、皆で分け合えば良いのであって、それを辞退する風潮を作ることはよくないことだと思っていたのである。
これが仁の本質である。今回の給付金が自分には多いと思うのであれば、それをもらった上で誰かに分ければ良い。受け取らないような風潮を作ることが、一番良くない。本当に必要な人も手を挙げづらくなるからである。仁が示す思いやりとは、自分の気持ちだけを優先させたものではない。己が高潔であることを示したいだけの行動を、孔子は嫌った。
コロナの時代に孔子の教えがどれだけ有用かということに気づかされる。せめて他人のいやがることをしないよう気をつけながら、なんとかこの時代を生きのびたいと思う。最後にそんな孔子の家での過ごし方を引用して終りたい。
子の燕居、申申如たり、夭夭如たり。(論語、述而(四))
孔子は家にいるときはのびのびしてにこやかであった。
STAYHOME。
作中の論語はすべて、岩波文庫版「論語」(金谷治訳注)を参考にした。
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