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わたしと世界を手がつなぐ。

こんばんは🌛
にじです🌈

三連休ですね。
明日は、成人の日です。

今日は、前編後編の2本立てです。

前編は、10年前のわたしへのお手紙。
成人の日を前に、かつてのわたしに言葉を贈りました。

後編は、「手」にまつわるお話。
前編に書いたことから、連想して、手について、今思うことを書きました。

楽しんで読んでもらえたら、嬉しいです♪



前編:手紙に託したわたしの手

先日、RaMさんの記事を読んで、私も10年前は思いもしなかった人生を歩んでいるな、と思いました。


RaMさんの文章からパワーをもらいました。
私も、今の氣持ちを書いてみたいと思います。



RaMさんの記事を読んだ後、10年前の私に言葉を送るとしたら、なんて言うかな。と思い浮かびました。

10年前の私は、高校3年生。
(はい、年齢がバレましたね)

1月の今頃は、ちょうど受験シーズンでした。

私は、高校生時代を振り返ると、なんとなく暗い氣持ちになります。

それはきっとあまり自分を出せなかったから。

自分の殻に閉じこもって、人との交流を避けて、壁を作っていました。

今思うと、当時の私は、「どうせ上手くいかない」「どうせ私は嫌われる」そういうネガティブな思い込みでいっぱいでした。

自分が心の深いところでそう思ってしまっているから、人と関わっても、そういう現実ばかりが起きて、余計ネガティブになってました。

もちろん楽しい思い出も色々とありました。
きっと。

だけど、学校に行って友達や部活の子と何かしていて楽しい、と言うよりは、家にいる時にひと息つける。

そういう避難所的な安堵感でした。


ここ最近、長年の仲良しだったふあん虫とバイバイできた私から、10年前の閉じこもっていたわたしへ。

今だから言える言葉を贈ります。

閉じこもっていたわたしへ

苦しかったね
しんどかったね
どうしようもなかったよね
できることはやってきた
今を生きることで精一杯だったね

もう泣かないで
全部必要だったんだよ
閉じこもって
悔し涙を流した
あの日々は
自分はどうしようもない子どもだと
私に知らしめた

だけれど人生は山あり谷ありだから
落ちたら昇るんだよ
あの日々があったから
その連続でいまのわたしがいる

世界を変えてくれるのは
政治家でも先生でもなく
親でも友達でも恋人でもなくて
私を1番近くでみてきた
あなた自身

だって世界を変えたいと思ったのは
他でもない自分でしょう

変えたいと思ったのは
成長したいから

だからもう始まっているよ
自分が納得できる人生を
選ぶための全体を見渡してごらん

世界は自分が思うよりも
ずっと広くて
ずっとずっと深くて
とっても大きい
あなたがあなたになれば
なんでもできるから

10年後のわたしより


書きながら、しんどかった毎日が、

こんな生き方はもう嫌だ
わたしは自由になる
選ぶのは私自身なんだ

と私に教えてくれていたんだ、と思いました。

昔の私は、

自分次第でどうにでもなるんだよ!
と力説されても、
嫌氣がさして、聞く耳を持てませんでした。

きっと当時の私は、
解決してほしかったのではなくて、
こうすればよいという答えがほしかったわけでもなく、

あなたは今そういう状態なのね。
こういう氣持ちだったのね。
きっとあなたの力で前に進めるよ。

と寄り添ってほしかった。
わたし自身の本来の力を信じてほしかった。

無理やり動かそうとしてほしくはなかった。


そっと、優しく触れてほしかった。


まるで、水に浮かんだ泡を掬うように、

どこまでがわたしで
どこからが世界かも
分からなくなっていても

そっと優しく掬う手があれば、
輪郭を失わずに
自分を取り戻せたのかな


なんて。



またしても、ふわふわ
感覚的な語りとなりました。

ここまでで、前半終了です。
後半は、「手」のお話です。


後編:手がつなぐのは

その名の通り、いつも世界をクリアにみせてくださるくりすたるるさんが「手」にまつわる記事を募集しています。


手。をテーマに、私も書きたいな〜。何を書こうかな〜と考えをめぐらせたものの、上手くまとまらず、下書きに眠っていました。

そんな時、
氣がついたら、noteを書き始め、
氣がついたら、昔の私に手紙を書いていて。
文字を書く中で、自然と「手」という言葉が浮かびました。

るるさんのお題からは、少しズレるかもしれませんが、わたしにとっての「手」。
わたしはこの記事を書くことで、何を開けるかな。

終わりも分からず、言葉を綴ってみようと思います。


前編で、わたしが「手」という言葉を使ったのは、閉じこもっていたわたしがどんな助けを求めていたか、を書いた最後の部分です。

まるで、水に浮かんだ泡を掬うように、

どこまでがわたしで
どこからが世界かも
分からなくなっていても

そっと優しく掬う手があれば、
輪郭を失わずに
自分を取り戻せたのかな

前編より再掲。


例えて書いているので、厳密に考え始めると、訳が分からなく部分もあり、まるで公開自己分析のようで氣恥ずかしいですが、書きます。


閉じこもっていた当時のわたしに、
「そっと優しく掬う手」があれば、
「輪郭を失わずに自分を取り戻せたかな」

と言ったとき、

輪郭=自分と世界との境界線
世界=他者、自分以外の人やもの(生き物、存在、物質)

と言い換えられそうです。

ここで言う、自分を取り戻すは、「生きやすくなる」といったニュアンスです。

じゃあ、「手」は?と言うと、
この文章の中では、

わたし=泡
世界=水

に例えているので、

手=泡でも水でもない

となります。

このあたりから、頭から湯氣がでますね。


私が思ったのは、この文章の中で、私は、自分でないものとして手を捉えていた、ということです。

地の文というか、文章を書いている私の軸は、自分の内側、わたしの領域なのだけれど、登場する「手」は自分の外側からわたしの領域に入ってくるものとして、書いていました。


「こういう助けがあったら良かった」
と振り返るとき、

きっと、その助けは、自分が自分に対してできることではなくて。
その時、自分は自分だけではどうしようもない状態にいるのではないかと思います。

わたしという存在があって、
わたし以外のものを仮に世界と読んだ時に、
世界からわたしに差し伸べられる「手」。

それは私にはないもの。
その時のわたしはできなかったこと。
わたしが学びたかったこと。

わたしと世界を「手」がつないでいます。


外の世界とのつながりを「手」に託していたようです。


当初、「手」というお題を受け取った時、思い浮かんだのは、

手放す

ということです。

昨年から、自分のテーマになっていたことで、意識していたからすぐ浮かんだのだと思います。

そして、次に浮かんだのは、

手をつなぐ

ということ。


手放すも、手をつなぐも、手を介しているけれど、

はなれるとつながる

は、対になる言葉です。


ここから、今のわたしが書きたいこと。

それは、

はなれるのもつながるのも、
わたし自身が選ぶのだ

ということです。

はなれるのもつながるのもどちらを選んでもよいし、どっちかしか選べない、なんてことはないから、自分に合わせて、その時々で選べばいい。

選べる道がいくつもあることを分かった上で、自分の道を選ぶ。
それができるのが、自由なんだ、と。

だからこそ、

両方あるから、ちょうどいい

ということなんだな、と思います。


くりすたるるさんの記事を読んで、手力男命(たぢからおのみこと)さまのことを知りました。

神話は、あまり詳しくないのですが、古事記や日本書紀のなかで、天照大御神が天岩戸に隠れたときに、その岩を動かして、開いたという神さま。


手を使って、天岩戸を開く。

「手」は、何かを開くときに、最初に世界と触れるところでもあるのですね。

開こうと思うのは、頭とか意思かもしれないけれど、無意識に動いてしまってることもあるかもしれないけれど、何かものが動いて、開かれたとき。

それは、手が最初に触れて、
動かしている。

手って、わたし達の望みを目に見える形にしてくれているんだなと思いました。


そう思うと、やっぱり手をはなすのも手をつなぐのも、その手を持つわたし自身なのだな、と思います。

手は、わたしと世界をつないでくれている。

わたしは、手をはなすことも手をつなぐこともできる。

では、何を手放して、何と手をつなぐのか。

そんな問いかけが生まれます。

わたしは、なんてこたえるかな。

あなたは、なんてこたえますか?


そんなわけで、くりすたるるさま。
図らずも、「手」の話を色々詰め込んでしまいました。
ご査収いただければ、幸いです。



質問で終わりまして、しり切れとんぼな感じもしますが、全てを言葉にし尽くさなくてもいいのかもしれない。

そんなことも少し思いながら、今日はこの辺で閉じたいと思います。

氣がついて、学びながら、
成長していけることに感謝して。


最後までお付き合いくださり、ありがとうございます!

RaMさん
くりすたるるさん
素敵な記事をありがとうございます✨

いつもみなさまのスキコメントフォローに励まされています。
ありがとうございます✨

暖かくして、ご自愛くださいませ。
またお会いしましょう🌱


#手
#感謝

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