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小説「人生の芸術」

   1

広々とした芝生がどこまでも青々と広がる、夏の静寂をたたえた庭だった。

木漏れ日がちらちらと揺れ、まるで時間が止まったかのように穏やかだった。

そんな空間を切り裂くように、突然、幼い子供の悲鳴が響き渡った。

その声はどこか遠く、悲鳴というよりも、心の奥底にずしりと重く沈み込むような響きがあった。

家のなかにいた母は、その一声に凍りついたように一瞬立ち止まったが、次の瞬間、我に返り、悲鳴の元へと駆けだしていた。

息が上がるほどに胸を抑えながら、足がもつれそうになりつつも、必死に芝生を踏みしめ、子供のもとに向かった。

背後には、太陽がぎらぎらと暑く輝き、母の影を長く地面に落としていた。

母が駆けつけたとき、目に飛び込んできたのは、小さな子供の右手からあふれ出る鮮血の色だった。

地面には、小さな肉片のようなものが散らばり、白い靄が母の頭を覆い始めた。

彼女の目には世界がぼんやりと滲み、脳がその現実を受け入れるのを拒むかのように、ただその場に立ち尽くした。

そして、横に立つ男がいた。

彼の顔には冷たい怯えが走り、動揺しているかのように手が震えていた。

その目はあたりをさまようように泳ぎ、逃げるように急いで車に乗り込むと、エンジン音が響き渡り、その場から走り去って行った。

残された母は、芝生の上に倒れ込むようにして子供を抱きしめ、その小さな血だらけの右手をそっと包み込んだ。

涙が止めどなくあふれ、その場には、青々とした芝生の緑と、子供の血の赤が、強烈なコントラストを描いていた。

母の手の震えは止まらず、彼女の意識もまた、どこか遠いところに吸い込まれていくようだった。

   2

米をついばむスズメを、うら寒い家のなかから窓越しに眺める。

ここ数日、それが僕の日課になっていた。

まさか鳥の動作をこれほどの執念をもって見つめる日が来るとは思わなかった。

だが、この静寂のなかで米粒をついばむスズメの動きには、何か言い表しがたい安らぎがあった。

どうもこの夏は異常に暑く、例年にも増して長引いた気がする。

秋の気配がようやく訪れたのは10月も半ばのことで、夜は涼しくなってきたとはいえ、昼間にはときどき汗ばむ日もある。

ふとカーディガンを羽織りたい気分になって、タンスのなかを探したが、どこにも見当たらなかった。

仕方がないので、去年三日坊主で終わったウォーキング用の上着を引っ張り出して羽織った。

どことなく古めかしい幾何学模様が施された上着は、まるで流行を無視した鉄道のシート柄のようだった。

   3

僕の住まいはJRきさらぎ駅からほど近い一軒家で、ときどき電車の走行音が風に乗って耳に届いた。

近くには小学校があり、朝の号令や運動会の歓声までかすかに聞こえてくる。

さらには川があって、台風のときなどには黒々とした渦を巻き、押し寄せる水が家にまで迫ってくることもあった。

以前、その浸水に耐えきれず、重宝していたウォーターサーバーが壊れた。

湯を沸かすという面倒が一つ増え、僕のカップラーメン生活は自然と減った。

こうして見ると、変化が悪いことばかりではない。

自分の身体もどこか軽くなったように感じられた。

   4

隣の家には65歳の男が住んでいる。

この男は一代で会社を築き上げ、現在は悠々自適の隠居生活に入っている。

その上、数年前に奥さんが亡くなってからは、まるで枷が外れたように自由を謳歌しているらしい。

旅を趣味にし、国内外を飛び回っている。

どういうわけか、今回の目的地はトルコだという。

しかし、彼がいままでの旅で何をしていたかは一度も聞いたことがないし、彼も語ろうとしない。

話がそれで終わってしまうところが、かえって彼らしい。

さて、その隣の男から頼まれていたのが、このスズメへのエサやりだった。

彼は僕を何度も飲みに誘ってくれては、決まって勘定を払ってくれる。

無理にでも僕が払おうとすれば「金の話をするな」とあたかも叱るように押し返されてしまう。

そんな恩を受けている手前、スズメにエサをやるぐらいは当然だと引き受けた。

スズメといっても飼っているわけではなく、電線に集まる野鳥のために、玄関先に米を撒くのだ。

スズメは僕がいなくなるのを見計らって群れをなしてやって来ては、米粒をついばんで去っていく。

   5

ある朝、僕が米を撒いてスズメを窓越しに観察していると、ふと視界の端に、青白い影が入った。

道の向こうを歩いていたのは母親らしき中年の女性と、彼女に手を引かれた少女だった。

ふたりの姿はぼんやりとした影を落としていて、母親は娘をかばうように歩きながら、どこか疲れ切っていた。

ところが、その娘の視線に妙な違和感を覚えた。

少女はじっと、隣の家の玄関前に集まっているスズメたちを見つめていた。

しかし、その瞳はどこまでも暗く、何の輝きもなく、虚ろだった。

彼女の目に宿るのは、まるで底なしの深淵のような感情であり、美しい花や澄んだ青空の一つも、心のなかに残したくないといった風だった。

少女の母は、そんな娘を支えることに疲れ果てたようで、一刻も早くこの苦難から逃れたいと思っているようだった。

歩幅も乱れ、頼りなく、一歩ごとに引きずるような足取りだった。

   6

こうして3日目の朝もエサをやり、家に戻ると、郵便受けにはピザ屋のチラシとともに、副業の明細や印税の通知が届いていた。

副業の封筒を開けると、予想外の金額に驚いた。

逆に印税のほうは500円に満たない程度で、いまだに願望と現実の差を見せつけられた思いがした。

作曲家として暮らしていきたいと願ってきたが、実際に食べさせてくれているのは、ただの業務ソフトのソースコードだったのだ。

藝大を卒業し、去年から始めたピアノ教室には、まだ生徒がいない。

音楽を教えることで、やっと自分の知識が血肉となるのを感じられるのだが、現実は生徒集めの苦労がある。

それでもピアノの前に座り、軽く手ならしをすると、なにか心が整うのがわかった。

その時、見覚えのない番号から電話が鳴り響いた。

勧誘の迷惑電話かと訝しんだが、特に忙しいわけでもないので、冷静にからかい半分で受けてみることにした。

電話口から響いたのは、よく通る、抑揚のある女性の声だった。

「はい、貝渕です」と応答すると、少しの間があってから「こちら貝渕ピアノ教室でございますか」と丁寧に尋ねる声が続いた。

その声は耳にすっと染み渡るような滑らかさを持っていて、僕のなかにあった警戒心が、少しずつゆるんでゆくのがわかった。

迷惑電話だと思ってすでに防御を固めていたのに、その用心が拍子抜けした。

ピアノ教室の看板を出しているわけでもなく、紹介で生徒が増えることもなかった。

どうやって連絡先を知ったのかと考えると、インターネットの地域情報掲示板に載せた広告が、目に留まったのかもしれない。

「そうですが」と返すと、自分の声がいささかぶっきらぼうに響いたことに気づいた。

しかし、柔らかな語調に切り替える間もなく、彼女は続けた。

「娘にピアノをお教えいただきたいのです。一度、私と娘、貝渕さまの3人でお会いしてから、ご決断なさっていただきたいと思うのですが」

その言葉には、控えめでありながらどこかしら重みがあった。

生徒として門戸をたたく前からこんなに慎重になるのは、どういう事情なのだろうか。

普通に考えれば、不登校や、自閉症スペクトラム障害を抱えている可能性もあるだろう。

断る理由は特に思いつかず「ええ、かまいませんよ」と答えると、彼女はほっと息をつくように「ありがとうございます」と静かに礼をした。

そして、面談の日時は明後日に決まった。

   7

翌日は実家の片づけに駆り出され、父の遺品整理に取り組んだ。

父が逝ったのは去年の七月、盛夏の頃である。

今となっては、その灼熱の日々の記憶も、過ぎ去りしものとして涼やかな影を落とすばかりだが、思いがけず今日この日も汗を流すこととなった。

父の残したものの大半は、着物やコートといった衣類だった。

ひとつひとつがタンスや押し入れの奥深くにしまわれていて、ほとんどが古びた、つつましい色合いをしている。

かさばる布団も含めて、それらを市の指定ゴミ袋に詰め込むと、袋はたちまち膨れあがり、何度も持って行かねば片づけきれない量に感じられた。

ゴミ捨て場まで何度も往復する苦労が目に浮かび、母の蟹江と顔を見合わせては「まぁ、これも仕方がないか」と諦めに似た苦笑を浮かべた。

家の隅々まで潜んでいた父の気配が、作業の過程で静かに消え失せていく気がした。

釣り道具を見つけたときなど、父が釣りから戻り、穏やかな表情で釣り上げた魚を手にしていた光景が胸に蘇ったが、その竿もノコギリで短く切断し、リールはリサイクルショップに売ろうとまとめた。

蟹江も僕も、形見分けのようなことに頓着しない性分だった。

物を取っておくことよりも、思い出に委ねて静かに過ごすのが、合理的で好ましいと感じているからである。

冷淡ともとられかねないが、生前の父もその合理性を是とした人間だっただけに、僕たちも淡々とした気持ちで物を片づけられた。

けれども、音楽を志した自分が、合理的な家族のなかであえて「感情」に訴える音楽を選んだのは、ただ静かに片づけるだけでは済まされない思いが心の奥にあったからかもしれない。

「タンス片づけてたら昔のアルバムが出てきたよ。これ見てみな」

蟹江が片手にアルバムを持ち、僕に軽く笑いかけた。

「ふーん」と冷やかに返したが、受け取るとその手にやや重みが伝わった。

僕は表紙を一瞥し、小さな自分がそこに写っていることを確認した。

けれども、アルバムを覗き込むと幼少期から青少年時代の色々な記憶が重くのしかかってきて、そっと息を詰めたくなるような気持ちに襲われた。

嫌な記憶の数々が、心の奥からえぐり出されるようで、早々にアルバムを閉じ、ただ作業に戻ることにした。

ゴミ袋に入れたものを次々と軒下に運び、無言で作業を続けた。

それでも予想していた以上に多くの荷物が出てしまい、いっそ市の環境センターへと車で持ち込み、処理してもらうことにした。

廃棄料金は従量制のため、市指定のゴミ袋の代金が二重払いになるのは無駄だが、そんなことはどうでもよく感じられた。

車に積み込んだゴミを見つめながら、僕は運転席に座り、蟹江を助手席に乗せた。

秋の涼やかな風が車内を抜けていき、少し開けた窓から僕の髪をさらさらと揺らした。

「まだ暑いねえ」と蟹江がぼんやりと呟く。

「もう寒いよ」と僕はすかさず返したが、蟹江はどこか考え込むように黙りこんだ。

僕はエアコンの温度を1℃下げ、彼女のために窓もすこし閉じた。

しばらく静かな時が流れた後、不意に蟹江が思いがけないことを言い出した。

「あんた、自分の仕事に満足してないでしょう」

僕ははっとして、ハンドルを握る手に力が入った。

ずっと無干渉だった蟹江が、突然、心のなかを見透かすような言葉をかけてきたのだ。

何気ない表情をしながらも、人の心を深く見つめる視線を持つ蟹江が、幼少時代から僕を観察してきたことを思い出した。

彼女は僕の考えが口に出されぬ前から察していたのだろう。

言葉がすぐには出てこなかった。

喉の奥に引っかかったまま、言いようのない気持ちに乱され、車をセンターラインから少し外してしまった。

「いいよ。満足していないこと、それをわかっているなら」

蟹江はどこか穏やかな調子で、そう呟いた。

けれども僕には、その言葉の奥に、ずっと僕の背中を押し続けてきた彼女なりの感情が潜んでいるように感じられた。

彼女の期待を裏切るような返事をするのが、なぜか憚られる。

僕は思わず視線を前方に固定し、言葉を呑み込んだ。

自分の理想を蟹江に語ることは、もはやできないのかもしれない。

社会人として自分を律するなかで、子供じみた理想を口にすることの浅はかさに、今更ながら自分の弱さが露呈する気がした。

   8

2時が近づくと、僕は重い腰をあげ、呼び鈴の音を待った。

その音が響いた瞬間、僕は窓から見たあの母娘の姿を思い出した。

朝、スズメのエサをまく彼女たちの光景が妙に心に残っていたのだ。

しかし、それを口にするのはどこか憚られた。

ひそかな覗き見のような気がして、言葉にするのがためらわれた。

彼女たちを教室へ案内し、椅子に腰かけてもらった。

まるで風に揺れる一輪の花のように、母と娘は静かに座っていた。

母親が茂子と名乗り、彼女が口を開いた瞬間、僕はまるで一枚の古い写真の中に引き込まれたような感覚に襲われた。

その声には、過去の物語を秘めた静かな響きがあった。

「この子は、盲目なんです」と、茂子の静かな声が僕の心に届いた。

その言葉は空気に溶け込み、僕の心に鈍い痛みをもたらした。

言葉を返すべきだと思いながらも、どの言葉も拙く、もどかしい気持ちで胸が押しつぶされるようだった。

いっそ、事前に知らせておいてくれたらとさえ思う。

準備ができたなら、もう少しまともな言葉が出てきただろうか。

僕はただ、その続きを聞くほかはなかった。

   9

茂子は、少し間をおいて娘の手袋を取り、僕の視界にそっと差し出した。

その手袋が防寒用だと思っていた僕の予想は、無言で裏切られた。

彼女の手の小指と薬指は、幼い頃の事故で失われていた。

残った中指も、なんとかつながれはしたものの、神経が途絶えているためにほとんど曲げることができないのだという。

彼女は、音楽に触れていた幼き日々を失ったことへの痛みを、静かにしかし確かに抱えているように見えた。

僕は、何か気の利いた言葉を探すのをやめ、ただそのままの気持ちを口に出すことにした。

思ったことをそのままぶつければ、それがどんな言葉でも彼女たちは受け止めてくれるだろう。

たとえその言葉が彼女たちの傷に触れたとしても、何も言わずに終わるよりはましだ。

部屋の空気は、少しずつその重みを増しているように感じられた。

沈黙が満ち、僕は茂子に向かって、思うがままに問いを口にしてしまった。

「なぜ、いまになって、盲目という新しいハンデがあるにもかかわらず、再びピアノを弾こうとするんですか」

その瞬間、自分の言葉が冷たい響きを持っていたことに気がついた。

言葉の選び方も悪かったが、声の高さもどこか詰問するように響いてしまったのだ。

渋い顔をして取り繕いながら、自分の感情の希薄さについて考えていた。

「ピアニストになること。それがこの子の、子供のころからの願いだからです」と茂子は静かに言った。

「盲目になったことで唯一見えた希望が、ピアニストになることだったからです」

その言葉は重く、しかし不思議な暖かさを帯びていた。

僕の心にずしりと響く。

子供のころからの願い……僕も作曲で生計を立てることを目指していたが、それは彼女の思いと比べれば、どこか生ぬるいものかもしれない。

僕は作曲家になることを諦めても、別の道を探すことができる。

だが彼女は、見えない鍵盤の向こうに自分だけの光を見出しているのだ。

彼女にとって、その鍵盤から生まれる音色こそが光であり、希望であったのだ。

僕の目には、彼女が見つめる鍵盤の先に、いくつもの音の色彩が浮かんでくるように思えた。

低音のうねるような深い響き、中音の踊るような軽やかさ、高音のきらめく輝き。

それぞれの音が織り成す色彩が、彼女にとっての「見えるもの」なのだ。

彼女の耳の奥には、どこか遠い昔から聞こえてくる海のざわめきや、風のそよぐ音が絶え間なく響いているのだろう。

その音に、彼女も僕も導かれるようにして、心のどこかで共鳴しているのかもしれない。

「すこし、考えさせてください」

僕の言葉は、思考に絡みつくとりとめのない音のなかで、なんとか絞り出したものであった。

胸の奥に重苦しさと、温かなあわれみのような感情が渦巻き、それが僕を遠くへ引き離していくような感覚だった。

帰りたくても帰れない、帰ることを忘れてしまいそうな、そんな場所へと連れ去られるようだった。

「何人ものピアノの先生に掛け合いましたが、匙を投げられました。先生だけが希望なんです」茂子は一瞬視線を落とし、まわりを見渡した。

その先には、僕がピアノの上に飾った額縁入りの楽譜があった。

自分で作曲した弦楽四重奏の楽譜だ。

満足のいく出来だったため、自分の手で飾っていたものだ。

茂子はそのサインが僕のものであることに気づき「先生は、作曲もされるんですか」と尋ねた。

そのとき、部屋の扉が短いノックの音とともに開き、そこには母が立っていた。

「ええ。本当は作曲家になりたいんです。でも自分の曲と売れ線の曲のギャップに悩んだり、自分を貫き通すか、自分を変えるか。売り込むのも苦手だし、どうも……でもそれじゃあ食えないから、こうやってピアノ教室を開いてみたり、副業でなんとか食いぶちを稼いでいるんです。で、合ってるでしょ?」と母が、無理やり明るさを押し込むように言った。

「合ってる、な。でもそう簡単に片づく問題じゃない」

僕は苦笑しながら言った。

母はそれだけ聞くと、静かに部屋を後にした。

母が出て行った後、茂子がふと「あなたは信念で生きていらっしゃる」と言った。

その言葉に、僕は思わず照れくさくなり、頭をかいた。

「信念なんて、そんな崇高なものじゃないですよ」

   10

僕は古くからの友人、川崎に会うため、彼が支部を構えている鳳凰館を訪ねた。

川崎とは、あの青臭い中学時代、どこか尖った角を持ち合わせた連中とバンドを組んだときに知り合った。

その頃、僕らは夜更けの街にさまよい出て、音を求め、青春の破片を投げ捨てていた。

あの頃は川崎もただの仲間の一人で、ベースを鳴らす男だった。

いつしか彼は会社を経営する立場になり、義理堅く、人情深い、どこか任侠の影を抱えた男に成長していた。

鳳凰館のなかへ足を踏み入れると、僕は彼の過去と現在の姿が交差して見える気がした。

広い事務所には、彼の電気工事会社の社員が行き交っており、皆一様に川崎に向ける視線には、信頼と尊敬が混じっている。

応接用のソファに腰を下ろした川崎は、ひと息ついたように、ゆっくりとタバコに火をつけ、懐かしい香りが漂った。

5年前、僕はタバコを断ったが、その香りは変わらず、甘くかつしみじみと心に染み入るものがあった。

だが、今や僕にとっての嗜好品は酒に変わり、再びタバコを口にすることはもうないだろう。

彼の隣で、僕は苦笑しながらも、その香りに一瞬だけ、戻れない過去の自分を重ねてみた。

僕は、オリジナル楽曲の売り出し方について話し始めた。

作詞・作曲・編曲・演奏、歌も僕が歌って、レコーディングした音源だ。

しかし、それにこだわっているわけではない。

僕の曲が表に出るなら、どんな形でもかまわないのだ。

自分なりに試行錯誤してきたが、どうにも要領がつかめず、もがき続けていたのだ。

それを聞いた川崎は、タバコの煙をゆっくりと吐き出してから、平然と、しかしどこか熱を感じさせる口調で言った。

「それなら、オレにマネジャーとして動かせてもらえないだろうか。貝渕は人間関係が得意じゃないのは知っているからさ」

川崎の言葉は、いつもながら何の遠慮もなく、ただ心からの提案だった。

彼は、僕が言葉に出さずとも抱えている不安を見抜き、その解決策を真っ直ぐに持ちかけてくる。

これほどまでに僕のことを理解し、支えようとしてくれる人間がいることに、僕は胸がいっぱいになった。

   11

「ちょうど電気工事会社のほかに、音楽プロダクションを立ち上げよう考えていたんだ。どうしてもバンド時代が忘れられなくてね。もちろん宣伝の方法も考える。貝渕は、自分の活動に集中すればいい。餅は餅屋というだろう。創作家は売ることなんか考えずに、ただ心の赴くままに作品を作ればいいんだよ」

川崎はどこまでも物事を率直に語る男だった。

彼がこうも簡単に言ってのけるのを聞いて、僕は思わず感心してしまったが、彼の言葉には、どこか現実を超えた理想が含まれていた。

彼は電気工事会社をゼロから立ち上げるときも、自らの理想を掲げ、周囲の信頼を勝ち得てきた。

人間の心理や求めるものに敏感であり、その強い求心力で人材を集める、まさに天賦の才を備えた男だった。

「プロダクションを作るといっても、音楽業界となんの繋がりがないところからスタートして、どうにかなるんだろうか」

僕が率直な疑問を口にすると、川崎は自信満々に口角を上げた。

彼にとって、計画を実行に移すことに何らの不安もないかのようだった。

その笑顔の奥には、すでに勝算が固められているのだろう。

彼は決して無鉄砲ではない。

自分にとって有利であると確信しているからこそ、僕に持ちかけているのだと感じた。

「仕事仲間に、もと有名アイドルグループにいて、奥さんが現役声優っていう人がいる。まずは、そこを当たってみる。うまくいけば、芸能界とつながれるチャンスだ」

彼の言葉は、まるで石に刻まれたかのように確信に満ちていた。

その自信に満ちた計画が現実味を帯び、僕はこれからの未来が少しずつ開けていくような気がした。

川崎は、何の見返りも求めず、ただ僕が成功することを心から願い、僕を信じているのだろう。

彼のなかで僕は、今も変わらず一つの希望、つまり彼が守り抜きたい小さな星のような存在なのだ。

川崎が音楽プロダクションを立ち上げようとしている理由には、僕のような見捨てられがちな存在を少しでも輝かせたいという、静かな願いが隠されている気がした。

彼が持つ、その熱い情熱に応えるため、僕はなんとしても結果を出さなくてはならないと思った。

僕にとっては、彼の期待に応えられることが、何よりの義務であり、喜びなのだ。

それから何日かが過ぎた。

   12

ピアノ教室の件、あの少女に「弾きたい」という夢をどう実現させるか、その返事をそろそろしなければならない時期が来ていた。

僕はいつものようにだらしなく朝を迎え、顔を洗い、ぼんやりと歯を磨いたあと、重い身体をピアノの前に沈めた。

柔らかく差し込む午前の光が、ピアノの光沢に影を映していた。

僕は指を見つめ、あの少女と同じ制約で弾けるか試すため、ゆっくりと右手の指にテーピングを施していった。

人差し指と薬指をぴたりと巻き、中指の関節もきつく縛って動きを抑える。

これで、彼女の不自由を少しは理解できるかもしれない。

気の重さとともに息をつき、鍵盤に手を置いた。

重々しく鳴る最初の和音。

しかし、たちまち僕はこの試みが無謀であることを思い知らされた。

右手が動かない。

3音を同時に響かせるどころか、指がもどかしく揃わず、音が濁る。

左手でカバーしようとするも、すぐに限界がきてしまう。

「指が足りない」と思わずつぶやき、絶望に似た思いで鍵盤を見つめた。

彼女は、そんな指でどうして「弾きたい」と思えるのだろうか。

その純粋さに答えたい。

しかし、どうすればいいのか……頭を抱え、思わず傍らに置いていたビールに手を伸ばした。

ビールの冷たさが、ほんの一瞬、胸の奥の空虚さを鎮めてくれる気がした。

が、それも長くは続かない。

僕は今や昼も夜も酒なしではいられない身体だった。

数か月前に病院で受けた血液検査の結果が目の前に浮かぶ。

肝臓の数値は散々で「半年以内に肝硬変に進行する」と医師が告げた言葉が、今も耳に残っている。

しかし、僕にはもう避けようがない。

酒を入れずに過ごそうとすれば、身の内からぞわぞわとした焦燥が沸き上がり、冷や汗に襲われる。

ピアノの前に座るとき、作曲しようとするたび、僕は必ず酒に頼らざるをえないのだ。

ぼんやりと見えるピアノの黒鍵が滲んで見えた。

僕は口を軽く開け、もう一口とビールを飲んだ。

すると突然、電話が鳴り響いた。

   13

僕は一瞬、何が起こったのかわからず固まった。

時計を見やると、針は午前11時を指していた。電話の音が、現実の寒々しさを突きつけるように鳴り続けた。

「もしー。今日昼から暇あ?」

電話の向こうで、どこか親しげで無造作な響きが耳に届いた。

電話をかけてきたのは、長いつき合いの真央だった。

彼女はいつも唐突で、まわりくどさがない。

「暇だよー」

実際には暇などあるはずもない。

やらねばならないことが山積している。

安請け合いした作曲の依頼、ピアノ教師を引き受けるとした場合に解決しなければならない諸問題と実験。

しかし、僕は自然に「暇だ」と返事をした。

真央と飲む酒のうまさは格別で、それだけで他の用事を後回しにしてしまうのだ。

「もんじゃ行かねぇ?」

真央の男言葉が、妙に小気味良く聞こえる。

気さくで飾り気のない性格が、まさに言葉のままにあらわれているようで心地よい。

一時間後、きさらぎ駅の東口にあるもんじゃ屋で待ち合わせることになった。

駅前には居酒屋や小さなスナックなど、古びた街の賑わいが漂っていた。

歩みを進めるうち、僕はどこか懐かしい気分に包まれた。

かつて、夜遅くまで語り合った仲間たちの面影が脳裏をよぎり、かすかな寂しさが胸をつく。

真央と訪れたもんじゃ屋は、その東口の一角に古びた風情でひっそりと立っていた。

壁には色褪せたポスターがいくつも貼られ、油でぎとぎとになったり、千切れて垂れ下がったりしている。

こんなに雑然としていながらも、気取らない雰囲気が心をほぐしてくれる。

席に着くなり、真央は無造作に瓶ビールを傾け、注がれたビールの泡がグラスを越えてこぼれそうになる。

僕も彼女にならい、手酌で静かにコップに注ぐ。

僕らの間で、手酌はいつものことだ。

干渉し合わない、自然な距離感が二人の間にある。

「あたし最近セフレができたんだけどさぁ、金貸しちゃったんだよね」

真央がぽつりと切り出した。

彼女の表情には、言葉の裏に微妙な迷いが浮かんでいるようだった。

「返ってこない前提で貸したんだろ。帰ってくると思っていつかいつかと考えてると病むからな」

思わずそう答えたものの、どうやら真央の言いたいことは別にあるらしい。

僕の言葉が彼女の心に届いていないような空気が流れた。

僕は気まずさを感じ、自分の悩みを語ることでその場を和らげようと試みた。

「オレはセフレより、ひらめきと能力がほしいな。その能力を使って、いい曲が作りたい。いまはいくら作って応募したり公開しても、ほとんど反応はないからね。音楽とは何か。正直、誰かに教えてほしいよ」

僕は努めて明るく言ったが、心の内は重い。

この深刻さが表に出ないよう、ことさら軽い口調を装った。

真央はそんな僕を見つめ、真顔で言った。

「おまえほんと音楽だけには全力だもんな」

だが、それはもうかつての自分で、現在の自分ではなかった。

いまでは、あの音楽にすべてを捧げていた情熱はすっかり萎え、他人の音楽さえ聴きたくなくなっていた。

よそから聞こえるメロディーのひとつひとつが、心に不快な波を立てるのだ。

   14

真央と別れ、帰り道でふと銭湯に寄ってみた。

酒以外に何かリフレッシュできるものを試してみたかったのだ。

入ってみると、最近流行のビアバーを併設した銭湯で、風呂上がりには珍しいクラフトビールを飲むことができる場所だった。

湯気に包まれ、久しぶりの心地よさに浸りながらも、ビールを飲むとやはり僕の心は落ち着くどころか、酒への依存が増していることに気付かされた。

明日は地元のさびれた公園にでも行って、木陰で本を開くのもいいかもしれない。

そう考えてみたが、それもどこか空虚な気がした。

   15

翌朝、公園に足を運ぶと、夜露を含んだ木々が朝の光を受け、まるで生き物のように輝いていた。

葉のひとつひとつが透き通るような光をまとい、風がそよぐたびに小さなさざ波を立てる。

それはまるで、木々が朝を迎えてささやかな喜びを歌っているかのようだった。

ふと頭上を見上げると、枝と枝の隙間から切り取られた青空がのぞき、澄んだ蒼が高く広がっていた。

僕はその美しさにしばし息を飲み、この瞬間の奇跡を瞳に焼きつけた。

だが、そのとき、心のなかでひとつの疑念がよぎった。

いま、目の前に広がるこの美しい光景を、あの盲目の少女は決して目にすることがないのだ。

彼女が抱くのは、ただ純粋に音楽を奏でたいという願いと、それを聴く人々の心へ届ける強い想いだけだ。

その願いのために、僕に何ができるだろうか。

何も見えない彼女にとって、音はただの技術ではなく、心そのものの吐露であり、彼女が感じ取る世界そのものなのだろう。

僕の胸に、その純粋な想いがしみこんできた。

見える僕が、見えない彼女のために何ができるのか。

見えるからこそ、この光を、この色彩を、その音に乗せて届ける橋渡しになれるのではないか。

このとき、自分の役割がすっと心のなかで形を成した気がした。

自分の使命をはっきりと悟ると、あれほどもやもやと迷いを感じていた頭のなかが、不思議なほどすっきりと晴れわたった。

この美しい朝の光のように澄んだ想いを彼女に返してやりたい。

ピアノ教師の話を引き受けよう、そう思えた。

人生に迷ったとき、答えはすぐそばに、身近な場所にあったのだ。

この光景をもって、彼女が奏でる音の助けとなりたい。

   16

「引き受けてくださるのですね。本当にありがとうございます」

茂子の声は、安堵と感謝がこもり、まるで長い夜の果てにようやく灯った光を見つけたかのようだった。

茂子は深々と頭を下げ、その姿は、どこか切実で、長く閉じ込められていた祈りのようだった。

「ありがとうございます。一生懸命、勉強させていただきます」

少女も、少し緊張を込めてお辞儀をした。

見えない瞳が、しかしその決意だけは確かに伝えてくる。

あどけないながらも彼女の内面に宿る覚悟が、その小さな身に張り詰めているようで、僕はただ微笑んで頷くしかなかった。

しかし、次の瞬間、視界が急に暗転し、世界がぐらりと揺れた。

意識がぼんやりと遠ざかり、全身の力が抜けていくのがわかった。

僕は声を出そうとしたが、声帯は僕の指令に応えず、ただ重力に引かれるまま椅子から滑り落ちていった。

その場に崩れ落ちた僕の耳には、遠くから母親の驚いた叫び声がかすかに届いていた。

しかし、まぶたはどうしても持ち上がらず、あたりは次第に深い闇に包まれ、気づけばもう何も感じられなかった。

   17

医師は淡々とした口調で「急性腎不全を起こし、あなたは倒れたんです。原因は不明ですが、透析により危機は脱しました」と告げた。

その言葉は僕の耳に重たく響き、思わず息を呑んだ。

目を開けば白い天井が見え、周りは病院特有の消毒液の匂いが漂っていた。

薄いカーテンの向こうにある光が、ぼんやりとぼやけて見え、時折ナースシューズの軽い足音が近くで響いた。

医師に詳しい説明を求めると、どうやら倒れた僕が救急車で運ばれたときには、もう一刻を争うような状態だったという。

腎臓がほぼ機能を停止し、透析を施すのが少しでも遅れていれば、呼吸困難を引き起こし、さらには心不全に陥る可能性もあったという。

その話を聞くたびに、僕は無意識のうちに喉の奥がつかえるのを感じた。

どれほど危ういところを越えてきたのか、今さらながらに体中の毛が逆立つ思いがした。

しばらくして、看護師に付き添われて母が病室のドアから現れた。病室は、昼下がりの柔らかい陽射しに包まれ、外の景色がやわらかな光にかすんでいる。

その陽射しが、なぜか病院の白い壁と相まって、どこか冷ややかな感覚を漂わせていた。

母は、僕の顔をじっと見つめ、言葉を発するでもなく、ただ少し震えたような目で僕を見ていた。

いつもはたくましく、決して動揺を見せない母の目の奥には、初めて見る動揺と安堵の入り混じった表情があり、それが僕の胸に静かに染みていくのがわかった。

夜の病院は静まり返り、廊下の奥から機械音が遠く響いていた。

薄暗い蛍光灯の明かりのもと、母はベッドのそばに立っていた。

その顔はどこか影が差したように見え、彼女の声は今にも途切れそうなほどか細かった。

「あんた。死んだと思ったんだからね。おまえにはまだまだ、やらなきゃいけないことがあるんだ。死ぬな」

母の言葉は押し殺したような低い声で、それに続いて涙が彼女の頬を伝って流れた。

まさか、この母が涙を流すとは――そんな思いがよぎると、心の奥が鈍く締め付けられるようだった。僕は冗談めかしたくなった。

「簡単に死ねるかよ。レッスンが待ってんだ」

そう言ってみせたものの、胸の奥には空虚さが広がっていた。

レッスンがなければ死んでもいいと、冗談交じりに言おうとしたが、その言葉を喉元で飲み込んだ。

母の涙を目にすると、そんな言葉はただの虚しい響きでしかない気がした。

母はポケットからミニタオルを取り出し、涙をぬぐいながら口を開いた。

「先生の話によると、酒も腎臓に悪いらしい。よく考えな。つぎは本当に死ぬかもね」

母の言葉が静かに胸を打った。

まだ僕には「死」というものがどんなものか十分に理解できない。

恐れる気持ちも湧いてこなかった。

死んだとして、何が残るのか。

僕がいなくなっても、世界は変わらず動き続けるのだ。

そんなことを考えてみると、不思議なまでに実感が湧かず、ただ目の前の母がここにいることの方が現実味を帯びていた。

「ああ。考えとく」

母の目がしばらく僕を見つめ、そして静かに頷いた。それから彼女は黙って病室を後にした。

数日後、腎臓の数値は回復し、透析治療の必要はなくなった。

医師はカルテを見つめ、眉間に深い皺を寄せていた。

医師は「原因不明です」と不思議そうに口にしたが、僕にはもはやそれがどうでもいいことのように思えた。

   18

僕はレッスンが始まるまでの数日間、快気祝いに、きさらぎ駅周辺の行きつけを巡ることに決めた。

何かといえば出向く君寿司はそのひとつで、どこか昔気質の風情を残す店だった。

暖簾をくぐると、カウンターの向こうで、まだ若いが頼もしい若大将が顔を上げた。

「まいど。あら、貝渕さんだったの」

予約の電話を入れておいたので、おかみさんがすぐにカウンターへ案内してくれた。

旦那さんは相変わらず寡黙で、挨拶をすると再び黙々と包丁を握り直していた。

カウンター越しに並んだ包丁や素材が整然として、どこか神聖なものを感じさせる。

「貝渕さん、最近何やってんの? 音楽やってる?」と若大将が聞いてきた。

「何やってんだろね。ソースコード書いてるかな。あ、プログラマーってやつ」

「そうなんだ。器用なんだねえ」

器用――その一言が胸に刺さった。

肝心なところで器用に立ち回れず、音楽家としての信念を貫き通せず、リスナーの心に届くような曲を生み出せていないのだ。

プログラマーとして収入を得ているといっても、それは飢えを凌いでいるにすぎない。

満たされているわけでも、ましてや誇らしく思っているわけでもない。

特上寿司が目の前に置かれた。

光を反射してほのかに輝くネタに箸をのばし、酢飯の香りが鼻をくすぐるのを感じながら、一貫一貫を黙って食べた。

うまかったが、心に何かぽっかりと穴が開いたままだった。

寿司を平らげると、勘定を済ませて店を後にした。

つぎに足を運んだのは、君寿司のすぐ近くの焼き鳥屋だ。

ここは煙と炭火の香りが客を惹きつけるが、なぜか毎回会計が少しばかり割高に感じられる。

常連たちも「ちょっと高いかな」と口にする程度の「ぼったくり感」があるのだが、不思議と引き寄せられてしまう。

暖簾をくぐって一歩足を踏み入れると、店内には焼き鳥の香ばしい匂いが立ち込めていた。

カウンターに腰を下ろし、チューハイを頼む。

こうしていると、ただ日常の一部として何かが欠けていく自分を実感する。

しかしその欠けた部分を満たすものが、音楽でしかないことも痛いほどに分かっていた。

「ひさしぶりだね。最近はどう? 音楽やってるの?」

おかみさんが言った。

この問いがどれだけ僕を追い詰めているか知らないのだろう。

僕は顔には出さず、ただ曖昧に微笑んで見せた。

しかし心の内では、冷たい杭を打ち込まれたような嫌な感覚が胸をよぎる。

この問いが、どこかで僕の人生全体を否定されているような気分にさせる。

音楽をやっていない僕には、生きる意味もないのか?

音楽で成功していない僕は、ただ価値のない人間にすぎないのか?

自分でも答えられないそんな問いが頭に浮かび、ため息をつこうとした時だった。

   19

ガラガラ、と古い引き戸が開く音がして、誰かが入ってきた。

その気配に振り向くと、髪の長い、美しい女性が立っていた。

「貝渕じゃーん。ひとり?」

真央だ。

僕の、数少ない友人のひとりだ。軽く手を上げて合図を返しながら、彼女に微笑んで見せた。

「また会ったな。ひとりだよ」

真央は軽く笑いながら、カウンターの席に腰掛けた。

彼女のこの飾らないところが、いつも気持ちを楽にさせてくれる。

「飲んでるあたりが一緒だからな。隣座ろうっかな」

彼女はごく自然な調子でそう言った。

先日、一緒にもんじゃを食べに行ったばかりだったが、きさらぎ駅周辺で飲んでいると、やはり誰かしら顔見知りに会うことが多い。

そしてそのたびに、僕はこの町の繋がりを心のどこかで嬉しく感じているのだった。

「そういえば、真央ちゃんは『音楽やってる?』とか聞かないよな」

僕がそう言うと、彼女は片眉を上げてちょっとした驚きを示しながら、肩をすくめた。

「だって病むっしょ」

この簡潔な返答が妙に染みた。

真央はおそらく、僕が音楽という言葉にどれほどの負荷を感じているかをわかっている。

彼女のその何気ない言葉が、心にさざ波を立てることなく染みこんでいくのを感じた。

彼女が僕を一番理解してくれる。

いつも飲むたびに、そんなことを思うのだ。

変な気遣いもない、気まずさもない。

どれだけ僕が惨めな話をしても、どこかで受け止めてくれる気がする。

焼き鳥を次々に注文しながら、僕たちはいつものように愚痴大会を始めた。

僕は彼女の愚痴を黙って聞いて、適度なところでうなずく役回りだった。

ハツの塩、つくねのたれ、軟骨の串焼き、それから鳥刺し。

店内の熱気と煙に混じって、僕らの愚痴と笑い声が漂っていた。

いつの間にか心地よい満腹感に包まれ、ほんの少し頭がふわふわとした気分になった。

やがて、勘定の時間が来た。

いつもどおり、少し高い会計に心のなかで苦笑いしながらも、真央と割り勘にして席を立った。

   20

タバコの煙と焼き鳥の匂いが絡みついた夜の風に吹かれながら、僕らは並んで歩いた。

その何気ない歩みが、まるで当たり前のように思え、どこかほっとするのだった。

シメのバーは、僕と真央にとってある種の聖地のような場所だったが、真央にとっては「最悪の出会い」だった場所でもある。

彼女がある男とカウンターに並んで座っているとき、ふとした気まぐれで僕が「連絡先教えてよ」と声をかけたのがきっかけだった。

あれから何度も「男が隣にいるときにナンパするか、フツー?」と真央に小言を言われた。

あの頃の僕は、ただいろんな女の子と仲良くなりたいと考えている浮ついた青年だったのだ。

「ひさしぶりのおふたりで。いらっしゃいませ」

マスターがいつものように、抑揚のある調子で出迎えてくれた。

僕と彼とは昔、随分と荒れた仲だった。

僕がまだギターをかき鳴らして歌っていた時代の話だ。

自暴自棄の果てにこの店で「誰にも届かねぇ曲しか作れねえんだったら、ギターなんかいらねえんだよ!」と叫んで、ギターを派手に破壊したこともある。

その残骸を床にばらまいていた僕に、マスターは何も言わず、ただその散らばった破片を片付けてくれた。

それ以来、僕にとってこの店は、酔いに紛れて心を吐き出せる唯一の場所となったのだ。

そんな出来事をいちいち蒸し返すこともなく、マスターはこの夜もふたりの会話をそっと見守ってくれた。

その気遣いが、まるで静かに流れる川のように穏やかで、心に染みた。

真央も同じような空気を感じ取っているのか、いつもより落ち着いた表情で、軽く微笑みを浮かべてグラスを口に運んでいた。

僕たちはここで幾度となく、音楽やら人生の愚痴やらを繰り返し吐露し合った。

ほろ酔いで話したはずのその内容は、朝にはかすれて消えかかっているが、それでも夜の深い感覚が残っていた。

そして、真央と別れ、僕はバスに乗って帰路についた。

夜の静寂が、アルコールの入った身体に重くのしかかるように、どこか儚げな気配が漂う。

バスがしばらく走ると、車窓に斜めの水滴がぽつりぽつりと流れてきた。

雨が降り始めたのだ。

車窓を伝う水滴は、街灯の光を柔らかくにじませ、窓ガラスに映る夜景はおぼろげに、まるでどこか不確かな夢のように揺らめいて見えた。

そのぼやけた夜景が、僕の胸のなかで雑然としたままの思いを、嫌というほど映し出しているように思えた。

   21

翌日の夜、僕は家でひとり、ただ飲むことにした。

飲まずにはいられなかった。グラスを手にするたび、どこか底なしの渇きを感じる。

けれども、飲み干すほどに湧き上がるのは渇きではなく、幾重にも折り重なった自分への苛立ちと哀れみだった。

肝硬変に一歩ずつ近づいている身体を承知していながらも、今日もまた酒を口にする。

ソースコードを書き続けながら飲む酒は、いつも無味乾燥な味がした。

かつては毎日触れていた音楽ソフトは、もう何日も起動させずに、画面の隅に小さく縮こまっている。

作曲用のキーボードには何カ月も触れていなかった。

埃をかぶったその鍵盤に手を置くことが、いつしか自分の心を突き刺す行為のように思えて避けてきたのだ。

そして、その夜も僕の心には問いが押し寄せてきた。

才能ある作曲家たちの楽曲に触れたときの、どうしようもない悔しさ、憎しみ、嫉妬、羨望、殺意。

届かない音楽に、ただ憧れ続けるこの心。

追求したいメロディーの断片がふっと浮かんでは消える。

頭のなかでは、どこかで拾った旋律が、脳内をいつまでもぐるぐると回り、執拗に編曲のイメージを掻き立てる。

けれども、形にはできない。

オレは何だ?

ただの酒飲みか?

誰かのためになる曲を書けるのだろうか?

それすらわからなくなっているのに、どうしても音楽を手放せない自分が、情けなくて仕方なかった。

あきらめる、そんな言葉を知りながらも、なぜかそれを口にすることだけはできなかった。

そうした思考の渦に、どれだけ飲んでもかき消せぬ不安や焦燥が心を締めつけていた。

そのとき、電話が鳴った。川崎からだった。

   22

「先日、青山さんというプロデューサーに会ってきた。東京のミニFMだが、出演と楽曲を流してくれる話を取ってきた。しかも知り合いのよしみで無料でやってくれるって。貝渕、出てみないか?」

川崎の声は落ち着いていた。

淡々と仕事をこなし、事実だけを伝える口調には、いささかの誇張も装飾もない。

僕がその申し出に驚く様子を見透かしているようでもあり、また、それに興奮するつもりがない冷静さを貫いているようにも見えた。

「ありがたい話だが、弾き語りアーティストとしては引退した気分なんだ。ただ、うちの生徒さんに気になるピアニストがいるんだ。そのために機会を取っておくことはできないだろうか? かわいいし、オレが出るより何倍もいい」

僕は少しおどけたふうに答えた。

川崎の提案に感謝しながらも、彼の申し出の意図を軽くはぐらかすようにして。

彼もすでに僕が断ることを予測していたかのように、なるほどなと言った。

「演奏するのはベートーヴェンのピアノソナタだ。それに、練習してからになるから、だいぶ先の話になると思うけど」

彼はただ「了解」とだけ言った。

その言葉には、まるで道の先にある景色がすでに見えているような、揺るぎない確信があった。

川崎なら、この計画も、次なる手も、いくつもの筋書きを心に描いていることだろう。

彼に対する信頼は、まるで自分の未来を預けているかのような不思議な安心感を与えてくれた。

「ありがとう。老兵は死なず、単に消え去るのみだ」

僕は冗談めかして答えたが、胸のなかには微かに複雑な感情がわき起こっていた。

自分が舞台から降り去っていくことに抗う気持ちもあれば、今は自分を越えていく若い才能に、いつの間にか心からの期待を寄せている自分もいる。

どれだけ飲んだのか、気づけば記憶が途切れ、夜は静かに闇のなかへと消えていった。

   23

早朝、目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗く、朝焼けも見えない静かな時間が流れていた。

酔いが早く回り、昨夜はいつものようにブラックアウトしてしまったせいか、自然と早く目が覚めてしまった。

起き出してリビングに向かうと、母が落ち着きなく動き回っているのが見えた。

何かの準備をしているようで、慌ただしく、家のなかの静けさとは対照的な雰囲気を漂わせている。

「今日なに? なんかあんの?」と半分寝ぼけた声で母に尋ねると「今日は溝さらいだよ」と手を休めずに返事が返ってきた。

溝さらいという、年に何度か訪れる田舎の恒例行事。

村中の住民が道ばたの溝を掃除し、泥をさらう作業だ。

まだまだ元気な母が引き受けてくれているが、ふと、この先のことを考えてみると、自分がこの役目を担う日がいつか来るのだろうと想像してみる。

田舎暮らしには、こうした古い慣習がいくつもつきまとっている。

けれども、僕がこの家から出ない理由はほかでもない。

土地も建物もすでに僕の名義になっており、住まいを替えることなど到底考えられないのだ。

この家に僕が愛着を持つのは、物件の所有という表面的な理由だけではない。

僕は長年をかけて、この家を自分にとって完璧な空間に作り上げてきた。

得意のDIYを駆使して、家の一角をほぼレコーディングスタジオとして仕上げてしまったのだ。

寸法を計算して壁を張り、反響を抑えるための吸音材を入れ、ミキシングや録音に合わせた機材を手配した。

ありとあらゆる角度から「音」を考え抜いた部屋がここにある。

音楽が生命のように流れるこの場所を離れてしまうのは、僕にとって何もかもを失うようなものだった。

田舎暮らしの「溝さらい」といった日常は、都会の人々から見ればささやかなものだろうが、ここでの生活のなかで、これらの習慣と僕が作り上げた音楽の空間は、どこかで繋がっている気がしてならなかった。

この家のひとつひとつが、自分の心の隅にまで染み渡り、馴染んでいるのだ。

   24

その日は、久しぶりに編曲の仕事が舞い込んできた。

思わず心が揺れ、微かに昔の創作意欲が疼くのを感じた。

駆け出しの女優が歌う曲で、一曲は単に編曲を任されただけのものだったが、もう一曲は僕の弾き語り時代の曲を彼女が気に入り、歌いたいと言ってくれたものだった。

昔の自分が作り上げた曲を、今度は別の誰かが別の声で表現しようとする――それを考えただけで、ひどく不思議な気持ちが胸を駆け巡った。

だが同時に、重荷を背負わされたような緊張がのしかかる。

僕の音楽が、果たして他人にとって価値あるものになりうるのだろうか。

彼女の声に合わせ、キーを女声用に変更し、アレンジも本来のものより穏やかで柔らかなものに仕立てることになった。

僕は、例によって酒の助けを借りた。

これで仕事が捗るのは皮肉なものだが、すっかりそれなしではやり遂げられなくなっていた。

ワインを一口、また一口と飲み干しながらピアノの鍵盤に手を置き、音の重なりに酔いしれ、記憶の底からアイデアを引き出す。

どうにかこうにか3日間で2曲を完成させた頃には、疲労と酩酊で頭が霞み、まるで夢を漂っているような感覚だった。

しかしながら、これで仕事が終わるわけではない。

実際、いままでの経験上、先方が満足して「完了」となることはほとんどないのだ。

修正の嵐に見舞われ、何度も何度も細かな調整を重ねて、時には原型が見えなくなるほどアレンジを崩されることも少なくない。

そうなると、果たしてこれは僕の編曲なのか、それとも僕がやるべき仕事だったのかと悩みが深まるばかりで、手応えもやりがいも薄れてしまう。

ところが、今回に限ってはそのままの形で採用されたので驚いた。

なぜか、と聞かれても、答えられるはずがない。

まぐれに違いない――そんなもの、僕の実力ではないのだから。

   25

きさらぎ駅近くにある「きさらぎ焼きそば」という店――僕は、かつてこの店の常連だった。

薄暗い店内には、昼も夜も区別のつかないような時間が漂い、常にそこには、訳ありの不良や、どこか飄々とした善良な市民たちが出入りしていた。

彼らの沈黙のなかに漂う、人生に飽きているような空気が、僕にはなぜか心地よかったのだ。

しかし、いつしか店の様子は変わり、ライブ酒場のようになっていった。

いつ行っても、音楽に陶酔する若い連中や、自分の歌声に酔いしれるアマチュアたちがギターをかき鳴らしていた。

あの静かな、どこか人生を諦めたような顔ぶれが少しずつ姿を消し、変わりに肩を組みながら楽しげに笑う人々があふれていたのだ。

僕自身も昔はギター弾き語りで店に顔を出し、そんな連中の輪に加わっていた時期があった。

しかし、あるときから音楽に対して、言いようのない苦痛を覚えるようになっていた。

もはや音楽が楽しみではなく、いつのまにか耐えがたい重荷になっていた。

自分で奏でる音にも、他人が鳴らす音にも、心がささくれ立つのを感じる。

特に、店で演奏される自分の得意でないジャンルの音楽には耐えられなかった。

音楽をしているからこそ、どこか見過ごせないのだろうか、とも考えた。

しかし、それは単なる憶測だった。

実際のところ、そんな理屈ではなく、僕の心には暗く渦巻く妬み嫉みがあるだけだった。

他の連中が自分にはできない演奏を成し遂げるのを見ると、胸が焼けるように苦しくなった。

どんなに気をそらそうとしても、つい聴き入ってしまい、そのたびに自分の音楽が取るに足らないものに思えてくる。

彼らが生き生きとした表情で演奏を終え、拍手を浴びながら立ち去る姿が、自分には到底届かない光のように見えて、羨ましくてならなかった。

僕は、そんな自分を知るのがつらかった。

とうとう、きさらぎ焼きそばにも足を運ばなくなり、静かに逃げることを選んだ。

自分が逃げているというのは百も承知だったが、それでも逃げる以外にどうしようもなかったのだ。

心のどこかで「この先も、こうして逃げ続けるのか」と問いかける声が、ずっと、ずっと響いていた。

しかし、それに答える気力も、もう残ってはいなかった。

   26

先日、血液の検査をしたが、腎臓の数値は健康な人とかわらなくなっていた。

明日から琴未とのレッスンが始まる。

その事実を頭で繰り返しながら、僕はいつも通り、グラスに琥珀色の液体を満たして飲んでいた。

一日の終わりを待ちわびていたかのように酒を手に取り、胃のなかに流し込んでいるのだ。

母が「そろそろやめたら」と繰り返しても、僕の心には何の響きもしなかった。

夜の帳が降りた部屋のなかで、僕は一人、かすかな電球の光に照らされながら、ただ酒に沈んでいた。

窓の外を見ても、暗い街の輪郭がぼんやりと見えるだけだ。

琴未とのレッスンが明日に迫っている。

どうしてもやめられないこの酒が、彼女の前では一切匂わないように、時刻を見計らってはいるのだが、結局のところ、僕の心の奥に潜む迷いや恐れが酒を手放すことを拒んでいるのだろう。

母が階下から何かを片付ける音がする。

それが、まるで遠い世界の出来事のように響いてきた。

家族でありながら、まるで赤の他人のように、お互いの生活がすれ違っているように感じる。

母の忠告も、僕にとってはただの雑音と化していた。

   27

翌朝、おとずれた茂子と娘に「改めまして、よろしくお願いします。前回はご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした」と謝った。

僕は深々と頭を下げた。

茂子は少し驚いたように目を丸くし、そしてすぐに優しげな表情を浮かべた。

「いえいえ、お身体はもう大丈夫なのですか?」

その問いに、僕は「はい」とうなずき、少し自嘲気味に言葉を足した。

「なにしろ原因不明で腎不全になり復活したわけですから、医師のほうでもよくわからないそうです」

僕の言葉に、茂子の顔には微妙な困り顔が浮かんだ。

彼女は眉を少し寄せ、不安げに視線を落としながら「原因不明ということは、再発する可能性もあるということですね」と何かを恐れるように呟いた。

「わかりません。医師はそれに関して触れませんでした。しかし、そのときはもう透析でしょうね」

僕の一言に、その場の空気が一瞬ひんやりと静まった。

けれど、やがて茂子は頷き、小さな安堵の笑みを見せて「なるようにしかならないですものね」と軽く肩をすくめ、ほっとしたように笑顔を浮かべた。

その後は、少しの沈黙をはさみながらも、僕たちは自然と談笑に移っていった。

娘は、茂子と僕の会話を聞きながら、うつむいたまま微笑むような表情をしていた。

母娘で揃っていると、茂子は快活で親しみやすく、目尻にできる細かな笑い皺が、会話に小さな温もりを添えた。

その軽い笑い声が部屋のなかに漂い、少し前まであったよそよそしさや暗い影が溶けていくのが感じられた。

僕も次第に心が和み、肩の力が抜けていくのがわかった。

「今日からこの子を置いていきますので、どうにかよろしくお願いいたします」

茂子は丁寧にかしこまってお辞儀をした。

「そういえば、お子様のお名前をまだお聞きしていないのですが」

僕が尋ねると、茂子は「あっ」と小さく驚いた声をあげた。

「すみません、話に盛り上がってしまって。琴未といいます。お琴の琴に、未熟の未と書きます」

茂子は空中に指をすっと滑らせ、名前を文字に起こすように描いてみせた。

その仕草がどこか微笑ましく、そして少し愛おしかった。

「美しいお名前ですね」

僕は心からそう思った。琴未、琴に未熟の未。

琴線に触れるには、未熟――そんな儚さと可能性を秘めた名前が、まるで今の彼女の姿そのものに思えた。

その後、茂子を玄関まで見送り、別れを告げた。

彼女の去り際の笑顔には、何か深い期待が込められているように感じた。

その瞳の奥にある切なる思いを噛みしめるように、僕も深々と頭を下げた。

レッスン終了後、琴未を迎えに来るという約束を背にして、僕は彼女の後ろ姿が消えるまで、じっとその場に立っていた。

   28

僕は琴未をピアノの前に導き、その小さな体が椅子に沈むのを見届けた。

彼女に「なんでもいいから好きな曲を一曲弾いてくれないか」と頼むと、彼女はうなずき、小さく息を整えた。

目の見えない彼女は、ふつうなら人目を気にするような指の欠損を、隠すこともせず、堂々と鍵盤に置いた。

その指に視線を注ぐ自分の心に、僕はどこか罪悪感のようなものを感じた。

触れてはいけない領域に入り込んでしまったかのような気分だった。

「あの、先生。好きな曲はありますが、いくつか音を鳴らせない部分があります。それでもかまいませんか?」

彼女の言葉には、やはり静かな葛藤がにじんでいる。

「もちろんだよ。君には酷だが、その鳴らせない部分がどうなのかを知りたいんだ」

彼女はピアノに向かって身体を正し、背筋を伸ばして演奏を始めた。

しなやかで美しい音色が部屋に満ち、僕の胸にじんわりと響いた。

鳴らせない音が確かにあったが、それでも音楽は途切れることなく流れていった。

欠損があるとは思えないほどに繊細で、凛とした音色。

僕は、これならばと思った。

しかし、コンクールで評価される基準には届かない。

彼女はそれをわかっているのだろう。

だが、彼女の表情にはどこか揺るぎないものが漂っていた。

「盲目になる前まで練習していたから、基礎は問題ないね。でも、どうしても鳴らせない、指が足りない音があるんだね」

琴未は真剣に僕の言葉に耳を傾けていた。

「そこは編曲でどうにかできるかもしれない。左手が忙しくなるが、右手を補うんだ。今日のところは、君のレパートリーを演奏してもらって、指の欠損がどう演奏に影響しているかを確認しよう」

彼女はわずかにうなずいたが、その瞳は音楽に対する絶え間ない情熱で満ちていた。

僕は彼女のすべてのレパートリーを聴いた。

一曲一曲、心を込めて演奏する彼女の姿を見つめるうちに、彼女の音楽が心に重く、そして深く入り込んでくるのを感じた。

たどたどしい部分も少しはあったが、どれもその年齢にしては十分すぎるほどの完成度を見せていた。

奏でられる音は無理なく自然で、彼女の技術の確かさが伺えた。

「驚くほどの完成度だ。正直、どこがどうなっているのかわからない。まずは君の演奏を研究しなくちゃ」と声をかけると、琴未は小さな笑みを浮かべた。

その笑みの奥には、見えない未来に向ける彼女の強い決意と覚悟が宿っていた。僕は彼女の力になりたいと強く思った。

   29

ある日、僕は何気なくテレビをつけていた。

そこでふと目に留まったのは、指を欠損したサックスプレイヤーが、まるで何も失っていないかのように自由自在にサックスを奏でる姿だった。

残った指だけで見事に音を操り、メロディーを織りなすその演奏は、驚くほど美しかった。

僕は感嘆しながらも心の奥に不安がよぎった。

琴未がこの番組を観ていなければいいのだが。

もし観てしまえば、自信を失ってしまうかもしれない。

その思いが胸を締めつけた。

番組が終わり、部屋に静けさが戻った頃、電話が鳴った。

琴未からの電話だった。

嫌な予感が当たってしまったのだ。

「すっかり自信を失くしてしまいました。わたしが練習をしたとして、あそこまで自由自在に弾きこなせる可能性はあるんですか」

琴未の声は沈みがちで、頼りなさげに震えていた。

その問いに僕は一瞬、言葉を失った。

彼女の苦しみが痛いほど伝わってきて、胸が張り裂けそうだったが、僕はどうにか答えをひねり出した。

「僕はそのサックスプレイヤーに会ってくる。そしてヒントをもらってくる。それまで待っていてくれないか」

彼女をどうにか支えたい一心で言葉を告げた。

その後すぐに川崎に連絡を入れ、趣旨を伝えた。

「なるほど、事情はわかった。青山さん経由でサックスプレイヤーにコンタクトを取れないか聞いてみよう」

川崎は相変わらず淡々と、冷静に事を進めてくれるのがありがたかった。

「よろしく頼むよ。そこに大きな可能性が含まれている気がするんだ。楽器は違えど、共通する部分、参考になる部分は大きいはずなんだ」

「了解だ。しばらく待ってくれ」

頼もしい返事が返ってきた。

   30

数日後、川崎がついにサックスプレイヤーとの面談を取りつけてくれた。

場所は六本木のライブハウス。

約束の時刻、僕は緊張しながら楽屋を訪れた。

ドアを開けると、サックスを手にした彼が、リラックスした笑顔で出迎えてくれた。

「僕のプレイを観てくれたんだ。嬉しいよ。今回の話の趣旨は青山さんから聞いている。けど、僕、インチキなんだよ」

「インチキ……ですか」

思わず声を張り上げてしまった。

「そう、インチキさ」

彼は照れくさそうに笑いながら、サックスを持ち、音階を上下させてみせた。

そこには抜けている音が確かにあった。欠損した指が担うべき音が、ぽっかりと抜け落ちていたのだ。

「僕はジャズの世界で生きている。即興演奏の世界なんだ。使えない、押さえられない音は押さえなければいい。単純なことなんだよ」

彼はそう言いながらも、それが自分の持てるすべてを注ぎ込んだ演奏であることが、目の前で証明されているようだった。

僕は彼の言葉に驚き、思考がまとまらないまま帰途についた。

楽器を前にしたときの「必ず完璧であるべきだ」という執着が、あまりにも不自然で無意味なものだったかのように思えた。

彼の演奏が、僕にとって新しい扉を開けたのだ。

帰宅してすぐ、僕はまたテーピングで琴未の指と同じ状態を再現し、ベートーヴェンの曲を弾いてみた。

弾けない音は弾かないで工夫を凝らし、響きの印象をどうにか再現しようと試みた。

その演奏は、見事に想像以上にうまくいった。

僕は嬉しさのあまり、すべてを忘れたように自分の好きな曲を、楽しく、気の向くままめちゃめちゃに弾きまくった。

その時、盲目の彼女が一つの可能性の先で、新たな光を見出す未来を思い描いていた。

次のレッスンで、琴未にこのことを伝えるのが楽しみで仕方なかった。

僕は琴未のために、彼女のレパートリーにあるベートーヴェンの曲を一つひとつ確認していった。

真夜中の静寂のなか、わずかに軋む机に向かい、手元の紙に書きつけるペンの音だけが響く。

彼女が弾きやすいように、右手で和音を、左手で旋律を補い、ひとつの小節を何度も推敲しながら進む。

時に行き詰まり、深く息を吐き、再び音符に集中する。

筆先が滑ると、そこに見えるのは彼女の指先の動きであり、どのように触れたら音が彼女の心と調和するのか、その光景が浮かんできた。

気がつくと、外は薄明かりに包まれ、朝の気配が漂い始めていることに気づいた。

カーテンの隙間から差し込む僅かな光が、夜通し開きっぱなしの楽譜に淡い影を落としていた。

眠気にまぶたが重くなるのを感じながらも、僕の指は止まらない。

何度も書き直しを重ね、音符の間に彼女のための工夫を込めるたび、胸の奥に言葉にはできない充実感が湧き上がった。

ほとんど寝ずに数日かけてこの作業を続けたが、奇妙なことに、苦痛は感じなかった。

琴未の小さな指が、この曲を通して彼女の心を解き放つ、その瞬間を思い描くだけで、疲れは消えてしまうのだ。

   31

ラムネのアトリエは、彼女の無頓着さとこだわりが混然とした不思議な空間だった。

彼女は藝大の後輩で、美術を専攻している。

古びた木の階段を軋ませながら上ると、扉の向こうからはかすかにラジオのような音楽が漏れていた。

ドアを軽くノックすると「どうぞー」と気だるそうな声が返ってきた。

そこにはいつものように、気ままなショートカットで寝癖がぴょんと跳ねたままのラムネが立っていた。

彼女の横顔には小さなペンキのシミや傷が残り、アーティストとしての苦悩と情熱の痕跡が見えるようだった。

「なに描いてんの?」と僕が尋ねると、彼女は筆を止めずに「インセクティサイドです」と短く答えた。

彼女の目には、深い何かを探ろうとする輝きが宿っている。

壁に立てかけたカンバスには、まだ形をなさない絵の具の色が塗りたくられている。

青、緑、赤がごちゃごちゃに混ざり、形にはなっていないが、彼女の持つ不思議なエネルギーが確かにそこに存在していた。

僕は何気なくカンバスを見つめながら思った。

彼女が一見無頓着でいて、実はそのすべてが計算されているようにも感じられるこの空気は、他にはない特別なものだ。

まるで彼女そのものを映し出したような空間だ。

「インセクティサイド……もしかして、塗料にピレスロイドを混ぜて殺虫絵を描こうとしてる?」と心のなかでつぶやきながら、改めてラムネを尊敬している自分に気づいた。

彼女の目の奥にあるものが何なのか、それがいつか僕にも分かる日が来るのかはわからない。

しかし、そう思いながらもここにいることが僕にとって大切な気がした。

「芸術家が売れることを考えたら、もうそれは芸術じゃないんですよ。売れるから作るんじゃない。作るから売れるんです、そこを忘れちゃいけませんよ、貝渕さん。あなたは真面目だから、その線引きがどうもはっきりしすぎているんです。売れるか売れないか、その二択だけで物事を決めてしまう。しかし、実際のところ、世の中にはその二択の間に無数の世界が広がっているんです。揺らぎもあれば、感情もあって、そして想いも込められている。お金にならなくても、やり続ける価値があるじゃないですか。もし本当に限界が来たら、その時は一緒にバイトでもしましょうよ」

あるとき、そう言って彼女は笑った。

そのとき、片側だけに覗く八重歯が目に入った。

いやらしさもなく、無垢な魅力を漂わせるその笑顔に、僕は視線を奪われた。

   32

アトリエは散らかっていた。

だが、ただの散らかりではない、彼女の創造の跡を感じさせる散らかりだった。

壁際には、古びたガラクタの山が無造作に積み上げられている。

そのなかには、どこから集めたのか、小さなクリスマスツリーがいくつも組み合わされていた。

それが集まり、部屋の一角に大きなツリーを成している。

古びたスマートフォンには手術用のメスが接続され、まるで機械が人間の内面を引き裂こうとしているような異様な姿をしていた。

壁際にはプロジェクトマッピングに使うとおぼしき機材が山積みにされ、彼女の手を待っていた。

どれも、一見すれば廃棄物同然の物ばかりだが、彼女の手にかかると、それぞれが独自の意味を持ち始めるように見えた。

彼女はその場に佇むだけで、まるでこれらの物たちに命を吹き込む司祭のようにすら感じられる。

このアトリエ自体も、また特別な意味を持っている場所だった。

ここは、かつて彼女の父が営んでいた小さな工場の跡地で、今は彼女が自由に使っている。

彼女がここにいるときだけ、場違いな機械や道具たちが、この古びた空間で彼女に従い、新しい役割を担うことが許されるのだ。

鉄の粉が染みついた壁、木目が擦り切れている古い作業台。

そうしたものすべてが、彼女のアトリエには、かつての工場の面影を残しつつも、芸術のための聖地へと変貌していた。

ラムネは作業台に腰をかけ、ガラクタを愛おしそうに眺めた。

彼女の視線の先には、無造作に積まれたものたちが、ただのものではない輝きを帯び始めていた。

その姿に、僕は言葉を失った。

   33

「夜中まで作業して、そこのベッドで寝るんです。ベッドは段ボールでできた被災地用のものをゆずってもらいました。冬は灯油ストーブですが、夏は工業用の大型ファンしかないのでわりと地獄です」

彼女はいつもどおり、当たり前のことのように言った。

言葉に暗さや重みはまるで感じられなかった。

むしろ、どこか誇らしげな調子すら含んでいた。

その態度が彼女らしくて、僕は不意に微笑みそうになった。

そこで、彼女は少し首を傾げ、僕に視線を向けてきた。

「ところで、つぎのレッスンはいつなんですか?」

「あれ? その話したっけ。あさっての午後だよ」

得意のブラックアウトだ。

「今夜ここで飲みません? 鍋やカセットコンロはあるので、水炊きとか」

彼女はあどけない表情のまま、唐突に誘いを持ちかけた。

広いアトリエ、段ボールのベッド、灯油ストーブ。

そんな環境で水炊きだなんて、なかなかの光景になりそうだと思った。

「いいね、最高だ」

「決まり! 早速買い出しに行きましょう」

そう言って、ラムネはさっと革のコートを羽織り、出かける準備を整えた。

いつもながら、彼女の行動には迷いがなかった。

僕もエコバッグを片手に、彼女に続いた。

外に出ると、きさらぎ市の冬の冷たい空気が肌に突き刺さるようだった。

ショッピングセンターに着く頃には、身体も少し温まり、ラムネと二人で次々と食材をかごに放り込んだ。

白菜、ネギ、しいたけ、そして鶏肉など。

買いすぎることを知りつつ、アルコールも数缶加えてしまう。

「これだけあれば十分だろう。飲みすぎるし太ってしまう。ラムネのスタイルの良さをキープできる量でなければ、僕がすべて消化する」

「そんな意気込まなくても冷蔵庫があるから大丈夫ですよ」

ラムネは屈託なく笑った。

その笑みには、今この瞬間を存分に楽しんでいる彼女の無邪気さが満ちていた。

八重歯が、また覗いた。

買い物袋をアトリエ1階の床にどさりと置いたとき、その音が無機質な広い空間に響いた。

冷えきった部屋には、一瞬、土の匂いと野菜の青臭さが立ち上がった。

アトリエは工場の跡地らしく、薄暗い電球がぼんやりと照らしていたが、それでもラムネの手際が一際光って見えた。

彼女はカセットコンロに火をつけ、鍋に湯を張り、手際よくネギを切り、しいたけの傘に飾り包丁を入れていく。

その指先のしなやかさは、どこかアーティストらしい繊細さを感じさせた。

「ねえ、白菜はこれくらいの大きさでいい?」

僕が尋ねると、彼女は少し身をかがめて覗き込み「ちょうどいいです」とにっこり笑った。

僕は不器用な手つきで包丁を握り、言われるがままに切っていく。

それがただの白菜だとしても、食材に命が宿る瞬間があるように感じた。

音符が旋律に姿を変えるときのような、ささやかな高揚感だった。

中央に置いたテーブルにカセットコンロを据え、いよいよ鍋の準備が整った。

湯が沸くまで、僕たちはひさしぶりの再会に乾杯をした。

エコバッグから出したビールの缶が、乾いた小気味良い音を立てた。

冷たい泡が舌の上で弾け、何も考えずにいる時間がなんとも心地よい。

お通しに冷奴を取り出し、無言で口に運んだ。

ビールと冷奴、それだけで十分にうまい。

ラムネがくすりと笑って「先生、今日はお疲れさまでした」と言った。

僕も笑い返しながら、彼女と杯を交わした。

湯気がふわふわと立ち上がる鍋を見つめていると、いつしか酒の酔いが全身を包み始めていた。

夜が更けるにつれて、テーブルの上に置かれた鍋はどんどんと具材で満たされ、空間全体が野菜と鶏のほのかな甘みで満たされていった。

だがその頃には、僕の記憶はすでに断片的になっており、話したこと、彼女の表情、どこで何を食べたかさえ、翌朝にはまったく思い出せなかった。

鍋の最後の湯気とともに僕の意識も薄れて、ブラックアウトしていたのだ。

   34

起きたとき、狭いベッドにふたりで寝ていた。

しかしブラックアウト慣れしている僕としては、なにもなかった自信があった。

頭をかいて、洗面所に向かおうとしたところで「おはようございます。昨日のこと、覚えてますか」と朝支度を終えたラムネが言った。

「覚えてはいないが、ただ寝ただけだと断言できる」

僕は妙な自信を込めて言った。それが彼女を傷つけることだと知らずに。

「あーやっぱり貝渕さんですね。やっちゃったことにして、強引に気分転換させようと思ったのに」

ラムネは歯ブラシのセットを棚にしまいながら言った。

僕はアトリエのベンチに腰を下ろした。

その瞬間、頭痛がじわっと広がるのを感じた。

どうやら少し飲みすぎたようだ。

「君がそこまで身体を張ることはない。鍋に誘われただけで、十分気分転換になったよ。本当にありがとう。ところで、なぜ君はそんなに僕のことを思ってくれるんだい?」

「この状況でその問いは酷ですよ」

「申し訳ない……」

   35

琴未のピアノに向き合う姿には、ただの練習ではない凛々しさがあった。

無邪気さの残る笑顔とは裏腹に、ピアノに向かうたびにその眉には決意の陰が宿る。

僕が言葉を挟むたび、彼女は一瞬こちらを見て、多少見当はずれのまっすぐな視線で「はい」とうなずく。

その顔には、今を懸命に生きている、痛みと決意を背負った彼女のすべてが映っているようだった。

「ここをもうちょっと弱く弾いてみて」

指示を出すと、琴未はその細い指先に力を込め、音に宿す想いを微調整する。

僕はサックスプレイヤーのことを思い出しながら、彼女に話してみた。

「鳴らせない音は鳴らさなくてもいいって彼は言ってたんだ。むしろ、それを補うのが彼のスタイルなんだよ」と言うと、琴未は考え込むように鍵盤のあたりを見つめた後、小さくうなずいた。

編曲した楽譜の通りに彼女に演奏してもらうと、左右の動きと音のバランスに耳を奪われた。

欠けた音があるにもかかわらず、それは人の心に響く音色だった。

「素晴らしいね。この調子でどんどんいこう」と言うと、琴未は嬉しそうに微笑み、その笑顔に僕はますます胸が熱くなった。

「先生、わたしピアノコンクールに出てみたいと思ってるんです。小さい規模のものですが」と彼女が言ったとき、彼女の目はその場を離れ、まるでステージに立つ自分を想像しているかのようだった。

僕は彼女のその気持ちを十分に理解できた。

音楽を通じて自分の存在を確かめたい、自分の音を誰かに届けたい――その純粋な願いが、彼女の心のなかで燃えている。

「いいじゃないか! 是非参加しよう」と僕は答えた。

「お客さんの反応を見てみたい気持ちもあるし、今後の勉強にもなるだろう」と言うと、琴未は喜びを顔いっぱいに浮かべ、まるで花が開くように微笑んだ。

   36

2週間ほど経ったある日、長いレッスンの合間に僕が彼女にお茶を出したとき、不意に彼女の指が僕の腕に触れた。

彼女の指先は、まるで僕のなかに隠された過去をそっと引き出すかのように、僕の傷跡に触れた。

そして、少しの沈黙の後、琴未が静かに口を開いた。

「いまの触れたそれは、たぶん傷……その傷跡がいくつも………アームカットですか」

その鋭さに、僕は少し驚いた。

だが、同時に彼女がどれだけ敏感な指先を持っているのかを知り、苦笑しながら肯定した。

「そう、アームカットだ。病んでいたころ、自分の存在が苦しくてしかたなかったんだ。ほかに表現する術もなくてね」と言うと、琴未は小さくうなずき、僕の傷跡にもう一度、そっと触れようとした。

その指先が腕にふれる瞬間、彼女が言った。

「きっかけはどうあれ、もう二度とやらないでください。大切な人が自分自身を傷つけるのはつらすぎます」

その声には、どこか母のような、姉のような、深い慈愛があった。

彼女の言葉は、これまでの彼女が受けてきた痛みや葛藤の上に成り立っていた。

僕は彼女のその言葉を、心の奥にゆっくりと染み込ませるように、静かにうなずいた。

「ありがとう。ひとつよかったことは、その攻撃性を外に向けなかったことだ。誰も傷つけることなく、ここまで来れたんだからね」と僕が冗談めかして言うと、琴未はその純粋な瞳で僕を見つめ、深くうなずいた。

その瞳には、いっさいの曇りもなく、ただひたすらに未来を見据える光が宿っていた。

僕はそのまま彼女の小さな手を握り、次のレッスンに向けて心を新たにするのだった。

   37

ピアノコンクール当日、このあたりで名を馳せた演奏家たちが集まり、会場には緊張と期待の入り交じった空気が張り詰めていた。

僕は茂子と客席に座り、静かに順番を待った。

人々のざわめきは次第に高まっていき、そのなかで、心のどこかで期待している自分がいることに気づいた。

琴未がこれまでの努力を注ぎ込み、今日この場で誰よりも美しい音色を奏でる瞬間を夢見ていた。

やがて彼女の順番が来た。12番手、最後の演奏者として琴未がステージに姿を現すと、その瞬間、客席が息を呑んだように静まった。

深く一礼し、ピアノの前に座る彼女は、いつものように凛とした姿勢で鍵盤に手をかざした。

指が舞うたび、音が会場を満たし、その流麗な旋律は、聴く者の胸に穏やかでいて深い感情の波を呼び起こしていった。

両手が交差し、彼女の独特な奏法が浮き彫りになると、客席からは再び息をのむような音が聞こえた。

その交差する指は、まるで空気に描く一筆書きのように自在で、音の繊細さと強さの絶妙なバランスを保っていた。

片手が補う形のアレンジではあるが、彼女の奏でる音には、人々の心を静かに揺さぶる力があった。

演奏が終わった瞬間、会場には一瞬の静寂が訪れ、そして大きな拍手が巻き起こった。

僕はその拍手に、これまでの努力が結実した手ごたえを感じ、胸が熱くなった。

茂子も琴未の演奏に目を潤ませ、手を合わせていた。

結果発表が行われ、琴未は奨励賞を授与された。

壇上に上がった彼女の姿は晴れやかで、賞の重みを丁寧に受け取っているように見えた。

その表情には、決して満足の笑みではない、しかし不思議と自信をたたえた輝きがあった。

総評が読み上げられた。

「演奏は甘美であり、心を動かされるところ多数。しかし右手のハンデが大きく、ベートーヴェンの再現には及ばない」

その言葉は、彼女の演奏が与える感動と、越えがたい限界の両方を示していたが、僕には技術を超えた「何か」が、確かに人々に伝わっていることを感じた。

琴未もその評価を深く受け止め、かすかに微笑んでいた。

その日の演奏が、彼女にとって、そして僕にとっても大きな一歩であることを、心の奥底で噛みしめていた。

   38

コンサート帰りの夜道は、冷たい風が吹き抜けていたが、僕たちの心は満ち足りていた。

街灯に照らされたアスファルトを歩きながら、茂子がふと思いついたように言った。

「お疲れさま会として、みんなで回転寿司に行くのはどうかしら?」

琴未も僕も、コンサートの緊張から解放されて、空腹がいっそう募っていた。

僕たちはその提案に、まるで子供のように笑顔で頷いた。

回転寿司の店内は活気に満ち、カウンターを流れる皿たちが目を引いた。

僕たちは並んで座り、最初の一皿を取って口に運んだ。

茂子はお酒を飲まない様子だったが、僕はビールをひと口含むと、喉を潤すようにゆっくり味わった。

心地よい苦みと、ふわりと広がる麦の香りが、体中に染み込んでいくようだった。

琴未は、茂子に取ってもらった皿を手で慎重に確かめながら、次々に寿司を楽しそうに口に運んでいた。

茂子も、琴未の様子を温かい眼差しで見守っていた。

そんな穏やかな光景を眺めながら、ふと、僕の頭の片隅にひとつの疑問がよぎった。

琴未も茂子も、まったく「父親」の話をしないのだ。

そのことが気にかかった。

しかし、言葉にすることは躊躇われた。

彼女たちの表情は、静かで、互いを思いやる優しさに満ちている。

それを乱してまで訊くべきではない気がしていた。

それでも、家族の形にはきっと複雑な事情があるのだろうと、彼女たちの表情に浮かぶ影に感じ取るものがあった。

茂子はいつもの落ち着いた声で言った。

「琴未、今日は本当によく頑張ったわね」

琴未は静かに頷き、満たされたような顔で微笑んだ。

   39

ある日の冷たい風が街路樹の葉を揺らす午後、空はどこか薄い雲に覆われ、日が沈む前の微妙な陰りがあたりを包んでいた。

レッスンを終えた琴未は、少し疲れたような、それでいてどこか安心したような顔つきで僕のそばに立っていた。

茂子が迎えに来るまでの時間、僕らはしばらく静かに過ごしていた。

やがて茂子が「こんばんわ」と玄関のドアを静かに開け、靴脱ぎへと進み、一方で蟹江は夕食の支度にとりかかっていた。

台所からは食材を刻む音や、まな板が鳴る微かな響きが届き、家庭のぬくもりが漂ってきた。

だが、そのひとときの静寂を破るように、フードプロセッサーの機械的な音が突然鳴り始めた。

その瞬間、琴未はまるで何か恐ろしいものに触れられたかのように「いやぁ!」と小さく悲鳴をあげた。

その声は震え、か細く、それでいて痛みを含んでいた。

彼女は耳をふさぎ、身を縮めて床にうずくまってしまった。

僕は驚いて「音、音だ!フードプロセッサーを止めてくれ!」と思わず声を張り上げた。

音が消えると、台所に立つ蟹江は気まずそうにこちらに視線を向けた。

フードプロセッサーが止まり、再び静けさが戻ったものの、琴未はまだ耳を押さえたまま、震え続けていた。

部屋には、彼女の肩が小さく震える音まで聞こえるほどの静寂が漂っていた。

茂子は息を潜めるようにそっと近づき、琴未に優しく手を差し伸べると、その手を取って静かに立たせた。

その仕草には、母としての哀しみと、娘に対する深い思いやりが宿っていた。

   40

夜の静寂が辺りを包み、月明かりが薄く路地を照らしていた。

琴未親子の家は、まるで時代に取り残されたようにひっそりと建っており、暗がりのなかでその佇まいが一層際立って見えた。

周囲にはコンビニのような明るい灯りもなく、街灯もぽつりぽつりと点在するのみで、ほとんどが影に沈んでいた。

その影のなか、僕は「城田」と書かれた表札を見上げ、静かに玄関の前に立っていた。

招かれて入った室内はどこか冷たく、しかし生活の匂いが微かに漂っていた。

庭には敷き詰められた砂利が足元にざりざりと音を立て、茂子の後に続く僕の足音が響くたびに、妙に心がざわついた。

部屋のなかには琴未の姿はなく、僕と茂子、二人だけの会話が始まることを悟った。

「そろそろ話さなければいけませんね。さきほどのことも、父親のことも」

茂子は静かに切り出したが、その目にはかすかな揺らぎがあった。

彼女の唇は言葉を選ぶようにかすかに動き、しかし、その口調には覚悟が感じられた。

僕は無言のまま頷き、彼女の言葉を待った。

「琴未は、6歳の頃に指を欠損しました。その原因は、父親が使っていた大型の芝刈り機に指を巻き込まれたからなのです。そして父親はその場を放棄し、それから今まで帰って来ていません。私が発見したときには、中指だけがわずかにつながっている状態でした。父親がすぐに病院に診せていれば、もっと良い状態まで回復していたかもしれません。いまはもうそんなことをいっても仕方がありませんが……」

彼女の声は落ち着いていたが、その奥には、静かに隠された苦しみがにじんでいた。

彼女の指先がかすかに震えているのを僕は見ていた。

その話を聞きながら、胸の奥に怒りとも悲しみともつかない感情が湧き上がるのを感じた。

「僕には、その場を放棄するお父様の心情が理解できません」

僕は怒りとさみしさに襲われた。

彼女は淡々とした様子を保ちつつ、僕の言葉を受け止めているようだった。

「それは私たちも同感です。ただ、もともと子供に興味がなく、生まれたときも周囲の友人知人に『うちの娘はエラーで産まれた』といっていたそうですから、そもそも娘のことなど邪魔な存在くらいにしか思っていなかったのかもしれません」

「エラーというのは、つまり」

僕は、尋ねるのが苦しいと感じながらも言葉をつないだ。

「避妊失敗ということです」

茂子の言葉は冷静だったが、少しの間があった。

僕は当時の社会の厳しさを思い返した。

堕胎には大きな負担が伴う。

経済的にも茂子夫妻には難しかったのだろう。

僕は言葉を選びながら、あるいは言わなくても通じるかのような静寂が二人の間に流れていた。

「フードプロセッサーの音を極端に嫌がったのは、芝刈り機のモーター音に似ていたからですか?」

「そうです。高校生になって完全に視覚を失ったことで、音に対する感覚がより敏感になったんだと思います」

確かにひとつの感覚が失われると、ほかの感覚が鋭くなるという話は聞いたことがある。

彼女が持つ音の鋭敏さが、同時に彼女を苦しめる原因でもあるというのは何とも皮肉なことだった。

「城田さん……いや、さっき表札に書いてあったので。もしわたしが琴未さんのお父さんを探そうとしたら、迷惑でしょうか?」

僕はすでに彼女の父親を探す覚悟を固めていた。

そこには、娘を無惨に捨てた男に対する怒りと、一方で人間の弱さに対する関心がないまぜになっていた。

「いや、探せるなら、探して本心を聞いてみたいです。琴未もおそらくそうだと思います。しかし、そのために時間を割いていただくのは申し訳がございません」

茂子はきわめて明瞭な発音で、感情を抑えるように流れるように答えたが、そのひとことひとことには、彼女のなかに秘められた本心が刻まれていた。

「いや、暇ならいくらでも、というわけではありませんが、勤め人よりは時間が自由ですので。なにか手掛かりはありませんか?」

僕は手帳を取り出し、書き込む準備をした。

茂子の顔が少し硬くなりながらも、口を開いた。

「東京の東のほうが出身ですから、そのあたりに帰っているのかもしれません。銭湯と浅草のホッピー通りが好きでした」

僕は手帳に走り書きをしながら、彼女の言葉を記憶に焼き付けた。

帰り際、僕が身を翻そうとしたとき、茂子は「ちょっと待ってください」と言って、タンスの奥から何かを取り出してきた。

それは父親の写真だった。

「ありがとうございます」

僕は一礼し、その場を後にした。

暗闇に戻る道すがら、僕の手には重い写真が握られていた。

薄曇りの空が昼を過ぎてなお重く垂れ込め、街路を歩く人々の影を曖昧に映し出していた。

   41

僕は人探しの共として、誰よりも行動力があり、何よりも時間に融通の利くラムネを誘った。

彼女はいつものように飄々と「OK」と言い、約束通り駅にあらわれた。

僕たちは昼頃に駅で合流し、どこか薄暗く陰のある東京方面へと向かう電車に乗り込んだ。

揺れる車内で僕は手帳を開き、地図に書き込んだ場所を指さした。

「名前は城田亀治郎。写真はこの通り。まずはいくつかの銭湯をまわって、夜にホッピー通りに行こう」

手帳のページには、彼の好みそうな銭湯のリストと、ホッピー通りの酒場がびっしりと記されていた。

銭湯での情報収集は気が遠くなるような作業だが、僕たちにはこの道しか残されていなかった。

「了解です。ふやけそうですね」とラムネが笑った。

「たしかにふやけるかのぼせそうだな、そうなった時点で銭湯はやめてホッピー通りに向かおう」

ラムネは小さく頷き、街の風景を眺めながら黙り込んだ。

電車は台東区、墨田区とゆっくり進み、やがて城田がいるかもしれないと言われている城東の地、葛飾区に差し掛かった。

僕たちは足早に銭湯を7軒まわり、それぞれの番台に写真を見せ、湯船に浸かって話し、彼の情報を探した。

しかし、あたりのどの銭湯にも彼の姿を見た者はおらず、午後もすっかり暮れていく頃、僕たちは当初の予定通りホッピー通りへと向かうことにした。

夜の帳が降りるホッピー通りは、相変わらずの喧騒に包まれていた。

辺りに漂う煮込みの匂い、古い酒場の柔らかい光に照らされ、客たちの笑い声が混ざり合っている。

僕たちは通りでもひときわ人気のある煮込み屋に入り、奥のカウンターに腰を下ろした。

そのときだった。店内に突如として怒号が響いた。

   42

酔っ払い同士の掴み合いが始まり、鍋がひっくり返る音が響いた。

その乱闘から少し離れたところに、くたびれた帽子をかぶり、無精ひげを生やした男がひとり立ち上がった。

彼は酔いが回った様子でぼんやりとした目をしていたが、歳を重ねたその顔立ちに、写真の面影が確かにあった。

「ケッ、大将、勘定」

その語尾の房総訛りで確信した僕は、ゆっくりと彼に歩み寄り、心を落ち着けて声をかけた。

「すみません。あなた、城田さんじゃありませんか?」

「あー。誰だおめぇ」

彼は僕に気づくと、まるで面倒くさそうに振り返り、鋭い目で僕を睨みつけた。

僕は喉が詰まるような思いを振り切って続けた。

「城田琴未さんの知り合いです。あなたを探しに来たんです」

「それなら単純な話だ。なにも話すことはねえ」

「どうして家族を捨てたんですか!」

ラムネが血相を変えて口を挟んだ。

城田は小さく鼻で笑い、少しの間沈黙した後、面倒くさそうに唾を吐いた。

「めんどくさかっただけよ。結婚する気もガキを作る気もなかった。生活費をみんな風俗に使っちまう旦那なんていねぇほうがいい。しかも娘の指をぶった切っちまった。そんな親父はいねぇほうがいい。どっちにしろオレは家に戻る気はねえ。オレは死んだってことにしておいてくれ。かみさんのことだから失踪届を出してるだろ。オレの失踪期間はもうとっくに過ぎてる。法律的にも死んだことになってるはずだ。オレは日銭を稼いでここで飲んだくれてるのが性にあってんだ」

その言葉に、まるで冷たい刃で心を抉られたような痛みが走った。

彼の言葉には一片の後悔もなく、ただ虚ろな空気だけが漂っていた。

「そんな……」

ラムネは肩を落とし、呆然とした表情で立ち尽くしていた。

「ラムネ、行こう。人探しは終わりだ」

「でも……」

ラムネの目には涙が浮かんでいた。

彼女はまだ何かに縋りつきたいような顔で城田を見つめていたが、僕は静かに彼女の肩に手を置き、別れを告げるようにその場を後にした。

その夜、僕たちは宿泊するホテルの近くにあった小さなバーに入り、乾いた喉を潤すように黙って酒を口に運んだ。

ラムネは酒を少し口に含むと、ぽつりと呟いた。

「親は、あんなに簡単に子を引き離せるものなんでしょうか?」

僕は彼の問いにどう答えていいか分からず、少し間を置いてから答えた。

「オレは親になったことはないからな、何ともいえないよ」

ラムネは少し間を置き、さらに問いかけた。

「風俗ってそんなにいいものなんですか?」

僕は苦笑し、軽く首を振った。

「それも同じ答えだよ。オレは行ったことがないから」

僕たちは酒を飲み干し、やがて無言で会計を済ませ、静かな夜の街に戻った。

ホテルへの道すがら、薄闇のなかで彼女の背中がどこか小さく見えた。

その小さな背中には、重い失望が静かに刻まれていた。

   43

ラムネにホテルの手配を任せていた僕は、チェックインを済ませたあと、彼女がカウンターから受け取った鍵を見て一瞬ぎょっとした。

「あれ? もしかして同じ部屋?」

ラムネは少しだけ笑いを含ませて、カギを軽く回しながら言った。

「ベッドも同じです」

「なんで?」

「アトリエで一緒に寝たじゃないですか。今さら別の部屋にするほうが不自然ですよ。これなら安いし」

確かに彼女の言葉には一理あった。

僕は何となく納得したような気になり、彼女の意図を深く考えないことにした。

ただ、やはり変な気がした。

部屋に入ると、僕たちは荷物を置き、それぞれ寝支度を整えた。

先にベッドに入ったラムネの横に僕がゆっくり入ると、急に彼女が体をこちらに向けて、そっと抱きしめてきた。

その動きは自然だったが、どこか無防備で、僕の心を揺さぶった。

「どうしたんだ」

あまりに親密な空気に気まずくなった僕は、わざと明るい調子で言った。

しかしラムネは僕の言葉を気にもせず、目を閉じたままこう答えた。

「酔ってるからですよ」

「酔ってるなんていつものことじゃねぇか」

「そうですね」

ラムネは僕をさらに強く抱きしめ、その腕のなかから温もりがじんわりと伝わってきた。

ふとした沈黙が流れ、彼女が低い声で続けた。

「あたしの好きなアーティストの曲に、今の気持ちをよく表してる歌詞があるんです」

「気になるな」

「ある地下アイドルの曲で『僕の腕のなかに抱きしめた華奢な身体。ほかの誰かに抱かれんのだとしたら、君の好きな人であってほしいと願う』って歌詞です」

彼女の言葉は、妙に切なさを含んでいて、僕の胸に静かに響いた。

言葉には出さないまま、どこか理解しているような気がした。

彼女の気持ち、彼女の孤独、そして僕に向けたささやかな想いが、柔らかい温もりに乗って流れ込んでくる。

「なんだかわかる気がする」

僕が言うと、ラムネは満足そうに微笑んだ。

「わかるんだ。嬉しいな。好きな人はいるんですか?」

「いない」

僕はできるだけ簡潔に、そして感情を抑えた声で返した。

「そっか」

それからしばらく、静かな時間が続いた。

やがて、ラムネの穏やかな寝息が聞こえ始めた。

その寝顔はまるで無防備な子供のようで、しかしどこかに大人びた、少しだけ傷ついたような影があった。

僕はその寝顔をじっと見つめていると、不意に胸が締めつけられるような、言いようのない切なさがこみ上げてきた。

どうしてだろう、この一瞬が何かを物語っているような気がして、言いようのない焦燥と愛しさが入り混じった。

触れられそうで触れられない距離。

そんな儚い瞬間が、過去の失われたものに混じるような感覚をもたらした。

時が経てば、もう二度とこの寝顔を見ることはできないかのような予感に駆られた。

僕は、しばらく彼女の顔を見つめ続けていた。

   44

「風俗に来る人っていうのは、どういう心理なんだろうか?」

薄暗い店内に少しばかりの戸惑いを抱えつつ、僕は目の前の彼女に尋ねた。

彼女は小首をかしげて、少しの間考え込むような表情を浮かべた後、話し始めた。

「単純に女の子が好きか、抜いてもらうのが好きか、癒されたいって人もいるよね。
あとは胸やお尻を触ったり、大事なところを触ったり、見たいって人」

その言葉は、まるで彼女の日常を説明するように、平易でなんの装飾もなく僕に響いた。

ここは性風俗店の一室だ。

琴未の父の心理を探るため、どんな考えを持っているのかを知りたくて、僕は話を聞きに来ていたのだ。

彼女は少し不思議そうな目で僕を見つめてきた。

「ほんとになにもしなくていいの?」

「あくまでも話しを聞きに来ただけだから。しかも先日、仲のいい女の子に『僕の腕のなかに抱きしめた華奢な身体。ほかの誰かに抱かれんのだとしたら、君の好きな人であってほしいと願う』っていわれちゃったからね」

その言葉に彼女は目を丸くして「それ完全に告白されてんじゃん」と返してきた。

そういうのが当然だとでもいうように、当たり前の反応だった。

「でもさ、彼女とはずっと友達でいたいんだよね。やっちゃったら、その関係崩れるじゃん。それが嫌なんだ。友達は友達のままでいたい」

「真面目なんだね」

彼女は、トレーに置かれたローションやイソジンのボトルを整理し直すように、片付けたり並べ替えたりしていた。

どこかしら、彼女の神経質を反映しているような仕草だった。

「真面目とはちょっと違うかな。ただ、心がやめとけっていってる」

僕の言葉を聞いて、彼女は一瞬だけ手を止めた。

その瞳に、何かを察知するような光が宿っているのを感じた。

「霊的なもの?」

「霊的じゃない。もっと自分の声が内側から聞こえてくる感じなんだ。僕は少年の頃からずっとその声にしたがって生きている。それを含めての自我なんだ」

言葉にしてみると、それはますます曖昧に響いたが、彼女は頷いた。

それから不意に、こんな質問を投げかけてみた。

「あのさ、風俗の仕事ってなにを売ってると思う?」

「時間かな。お客さんの要求に応える時間」

僕自身もその答えに確信があったわけではなかったが、何かしらの真実に触れているような気がしていた。

僕は、ここまで来る間に、答えを探していた。

その回答が、こうして口をついて出たのだ。

「オレ今日ここまで来るときに思ったんだけど、風俗街を歩くと、青年から老年まで、さまざまな年代の人たちが歩いているのが見えたんだよね。この幅広い年代の人たちを受け入れる風俗嬢という職業が、もっとも人のためになっているんじゃないかって思えてきたんだ。自分の『今ここ』という貴重な時間と空間を、わけ隔てなく、もっとも純粋な欲望のために、差し出して対価を得ているのであるとね」

彼女は目を細めてじっと僕を見つめた。

しばし沈黙が流れたあと、ぽつりと言った。

「お兄さん、いままで出会ったことがないタイプ。ギラつく目も、舐めるように全身を見る目も。どちらもないし」

その言葉に僕は少し苦笑した。

こうして誰かに理解されること、それがどこかで自分の足元を支えているのだと、ぼんやり感じていた。

「それはありがたいな。オリジナルを商売としている自分としてはね」

彼女の言葉に真剣な思いがこもっていることがわかった。

僕はひとつ礼を言って、性風俗店を後にした。

道を歩きながら、ふとラムネの顔が浮かんだ。

だが、この体験を彼女に話すことはないだろう。

ラムネに余計な妄想を抱かせたくはなかったからだ。

   45

僕とラムネは、城田家の門前に立ち止まり、冷え冷えとした秋風に背を押されながら重い足を踏み出した。

門をくぐると、その足取りは地面に吸い込まれるように重く、心にのしかかる重圧が一層増してゆくのを感じた。

気が進まぬ訪問だが、正直に全てを告げるのならまだしも、今日はそうではない――今日は、嘘をつきに来たのだ。

ラムネと話し合った結果、真実がもたらす苦痛があまりにも酷で、茂子とその娘にさらなる痛みを与えるのは忍びなかったからだ。

ダイニングキッチンに通され、僕らは茂子と向かい合わせに座った。

薄暗い照明のなか、部屋は沈んだ影に包まれていた。

二重の蛍光灯の一本が切れていて、照らし出される空間はどことなく陰鬱だった。

茂子の顔もその薄闇に沈み込むようで、いつもよりも少なくとも10年は老けて見えた。

肩が落ち、やせた指を組み合わせたその姿は、何とも言えない痛ましさを漂わせていた。

自然と僕の心も深く沈み込み、横にいるラムネもうつむいて、声を殺している。

「僕とラムネの調査の結果、残念ながらお父様は亡くなられていると判明しました。残念なお知らせとなってしまい、お悔やみ申し上げます」

ラムネも一瞬うなずき、慣れない敬語で「お悔やみ申し上げます」と神妙な面持ちで頭を下げた。

その姿に、いつも元気な彼女もまた、この場の重みに押しつぶされそうなのが分かった。

「そうですか。そんなことではないかと思っていました」

茂子の声は静かだったが、奥にある覚悟のようなものがにじみ出ていた。

「おかげさまで、古い荷物を捨て、やっと娘と新たな道を歩めそうです。本当にありがとうございました。お連れ様もありがとうございました」

茂子は僕とラムネに深く頭を下げた。

その姿に、彼女が長年抱えてきた重荷からようやく解放される瞬間を目の当たりにしたような、何とも言えない安堵と哀愁が入り混じった感覚を抱いた。

「この機会に、わたくしのことについてもお話ししたいと思うのですが、聞いてくださいますか?」

茂子は少し震えた声で、遠慮がちに言った。

声はかすかに揺れていて、薄暗いダイニングキッチンの空気のなかに、か細い糸を紡ぐように漂っていた。

「はい。もちろんです。聞かせてください」

   46

僕は改めて姿勢を正し、茂子の話を受け止めるために、すべての注意を向けた。

横でラムネも僕にならい、そっと背筋を伸ばす。

茂子の話が始まると、ダイニングキッチンに漂っていた静寂が急に重く、密度を増したように感じられた。

「わたしと亀治郎は、わたしが大学3年のときに知り合いました。特別に恋人がほしいとは思っていなかったのですが、勉学のつらさから、誰か心を許せる人がいればよいなとは思っていたんです。そんなとき、いきつけの飲食店で働いていた亀治郎と知り合ったのです」

茂子の視線は過去を見つめるように遠く、瞳の奥にひそむ色褪せた記憶が今も鮮明に蘇っているのがわかる。

若かった彼女が、その頃の重苦しい勉学の日々を思い出し、ほんの少し心の隙間を埋めるように見つけた出会い――亀治郎の粗野で無骨な態度に、若き茂子は強さを感じ、頼れる存在として見誤ったのだろう。

その時の彼女の心の揺れが、今も胸の奥底で消えずに残っているのかもしれない。

「学業は継続するという条件で結婚の話がまとまりました。ほどなくして、琴未が産まれました。わたしは条件通り学業を続ける予定でしたが、亀治郎は『オレに育児を押しつけるのか』と言って激昂しました」

茂子の声が微かに震えた。

まるでその激昂がこの場にも響いてくるかのようだった。

彼女の理想と現実が、ほんの些細なことで壊れ始めた瞬間――希望に満ちていた音楽の道も、琴未の誕生も、夢のようでありながら茂子の心を縛る枷と化していたのだ。

「わたしは夫婦で分担しあったり、託児所や保育園を利用して育てればと提案しましたが、亀治郎は納得しませんでした」

茂子の細い指がわずかに揺れ、その姿は彼女がどれほど孤独に戦い、日々葛藤していたかを物語っていた。

「そのころやっとわたしの実力が発揮できるようになり、ホテルのホールでの演奏を任されたり、コンクールで賞を取れるようになりました。すると、亀治郎は嫉妬深くなり、学業だけでなく音楽そのものををやめろとわたしに迫ってきたのです」

その言葉にこめられた諦めと悲しみは、茂子が抱えてきた苦しみの一端だった。

音楽の夢に生きようとした彼女が、自らの大切なものを捨てる決断を強いられた瞬間の悲嘆が、目の前に現れたように感じた。

「本当に『琴』が『未熟』なのは、わたしのほうなんです。そんな名前を子供に押しつけ、わたしは正直、罪の意識のようなものを感じています。これがわたくしたち家族のすべてです」

そう語り終えた茂子は、小さく息を吐いた。

彼女の話に込められた後悔と哀愁が僕の心をぎゅっと締めつけ、話を聞いているだけで胸がいっぱいになるのを感じた。

言葉にはできない、彼女の人生の重みがそこにあった。

「お話いただいてありがとうございました」

精一杯、僕がそう言葉を搾り出すと、茂子はかすかに微笑んだが、その微笑みもどこか寂しげで、遠い過去に沈んでいくようだった。

横のラムネは無言で、深々と茂子に礼をした。

その沈黙のなかに、彼女の思いが込められているように感じられた。

少しでもこの重苦しい空気を和らげようと、僕は思い切って声の調子を変えた。

「ところで、琴未さんの練習のほうはいかがですか?」

その瞬間、ダイニングキッチンに滞っていた闇が、ふっと吹き払われるようだった。

茂子は顔を上げ、表情が一変して明るくなった。

「ええ。順調にやっております。近いうちに先生のほうに伺わせていただければと思っております」

その返答には、琴未にかけている期待と愛情が溢れ出していた。

新たな道を歩み始めた母と娘の、確かな絆がそこに見えるようだった。

僕は手帳を取り出し、日付を確認して「僕は来週以降ならいつからでも大丈夫です」と答えた。

茂子の期待を受けて、琴未がこれからどのように成長していくのか、僕の心も少しだけ温かくなった。

「わかりました。琴未に伝えておきます」

茂子の笑顔には、少しばかりの希望が灯り、部屋の薄暗さを払拭するようだった。

   47

琴未のレッスンは静かに再開した。

窓から差し込む午後の淡い陽光が部屋を満たし、しんとした静けさのなかで、彼女がかすかな息を吸う音までもが聞こえる気がした。

今日も、僕が編曲したベートーヴェンの譜面が開かれている。彼女がこの曲をどれだけ愛し、そして挑んでいるかを、僕はそっと見守るように感じていた。

「自主練中に気づいたのは、右手のパートを左手で補うとき、強弱のバランスがうまく取れないことです」

琴未は光のない瞳で僕を見つめ、少し身を乗り出しながら説明した。

指先を微妙に動かしながら、楽譜のなかで苦心する箇所を示そうとする彼女の身振り手振りには、音楽にかける情熱が垣間見えた。

その瞳は確かに盲目であるはずだが、彼女の心の奥深くに秘められた光が、僕の存在を一気に見抜くかのように感じられた。

まるで、彼女の目が見えているかのように僕を捉え、細部に至るまで洞察し尽くしているようだった。

「なるほど、バランスか。たしかになめらかさが必要になってくるね」

僕はそう答えながら、琴未がそこまでの領域に達していることに、驚きと誇らしさを覚えた。

音楽という言葉にならない世界のなかで、彼女はすでに自らの演奏を客観視し、冷静に分析する力を備えている。

指導者である僕を前にしても、彼女は自ら課題を見つけ、越えていこうとする強さを持っていた。

その成熟ぶりに、僕はいつか彼女が僕の指導を遥かに超えてゆく瞬間が訪れるのを確信した。

彼女の指先が鍵盤をなぞるように動き、何度も自分の演奏を心のなかで再現しているのだろう。

音はなくとも、琴未の周りには確かにベートーヴェンの旋律が漂い、音と音の狭間に彼女の情熱が詰まっているように感じられた。

   48

紅茶で一息入れた。僕も琴未も紅茶が好きで、僕は無糖、琴未はスティックのグラニュー糖を一本だけ入れた。

それは、彼女の慎重な性格をよく表しているようだった。

僕らはカップを手に持ちながら、しばしの沈黙に包まれていた。

いつものことだ。

だが、その静けさのなかで、僕は突然、何とも言えない切なさに襲われた。

レッスンをしている間は、ただ音楽に没頭し、余計なことは何も考えない。

それがいいのか悪いのかはわからないが、その瞬間だけは、自分が何者であるかさえ忘れるほどに集中している。

だが、レッスンが終わって一息ついた途端、心のどこかから普段は顔を出さない思いが湧き上がってくるのだ。

それは漠然とした不安と言えるだろう。

何が不安なのか、はっきりと掴むことはできない。

それでも、その不安はいつも僕の心の奥に潜んでいて、どんなにうまくいっている時であろうと、あるいはうまくいかない時であろうと、絶え間なく僕に襲いかかる。

それはまるで、曇った空に隙間なく降り注ぐ光のようなものだ。

見えなくても、感じなくても、確実にそこにある。

そして、その光は時折、僕の心をざわつかせ、僕をどこか遠くへ連れ去ってしまう気がした。

「たまには気分転換に普段やらない曲を演奏してみよう」と僕は言った。

しばらくの沈黙の後、選んだのはビートルズの「レット・イット・ビー」だった。

発売当時は「ピアノのお稽古」と揶揄されたこの曲を、今こうして真剣に取り上げてみるのも悪くない。

逆手に取った選曲に、静かに心が燃えた。

   49

窓の外には、曇り空から淡い光が薄く差し込み、部屋全体に柔らかい陰影を落としていた。

その光がかすかに琴未の表情を照らし出し、彼女は小さく息を吐きながら鍵盤に目を落とした。

「レット・イット・ビー」は、確かに簡単な伴奏だ。

だからこそ、強弱のつけ方、音と音の間の空気に漂う緩急のセンスが問われる。

センスとは、本来どこまでも練習して、最後の最後に初めて手にできるものだと僕は思っている。

センスがない、と諦めるのは、まだ何かが足りないことに気づかない人間の逃げ口上に過ぎない。

琴未には、そのセンスを問えるだけの練習量があると、僕は信じていた。

目に見える形でその練習量を知っていたわけではないが、彼女の弾く音には、いつも何かしらの希望や後悔、あるいは人々の抱える見えない感情を表現する力が宿っていた。

部屋に響く彼女の音には、何とも言えない重みがあり、同時にそのなかにある光を僕は体感していた。

「僕がボーカルをやる。ギター弾き語りだったけど、前にちょっとやってたからね。ピアノの指使いは琴未ちゃんに任せる。弾く指を左右どちらに振るか。即興演奏の練習にもなるだろう」

「はい。挑戦してみます」

僕はゆっくりとレコードをプレイヤーにセットした。

手が滑らないよう、慎重に針を落とし、やがて「レット・イット・ビー」の柔らかな音が部屋全体に流れ出した。

古いレコード独特のノイズがかすかに混ざり、どこか懐かしさを伴ったメロディーが、静かに空気を震わせる。

窓の外には薄曇りの空が広がり、時折さっと風が吹き抜けて、カーテンが小さく揺れた。

琴未は、そんな情景を感じ取るように目を閉じ、じっと耳を澄ませていた。

曲が終わる頃には、彼女の表情に小さな変化が現れ、ふと息を整えるように背筋を伸ばした。

驚くべきことに、彼女はたった一度の再生で、この曲のすべてをそのまま記憶してしまったのだ。

彼女の聴音・暗譜力には、いつもながら脱帽させられる。

琴未は鍵盤に手を置き、ゆっくりと最初の和音を空気に溶かしてゆく。

僕が歌うひどい歌などお構いなしに、静かな伴奏が流れ、その響きが部屋全体を包み込むように広がっていくのを感じた。

鍵盤に触れる琴未の指先は、すでにベートーヴェンを何度も弾き込んで鍛えられ、左右の手がどちらに動くべきかを本能のように察知していた。

その選択は、もはや障害のある者とは思えないほど正確で、目の前の音楽に全身を捧げている様子が伝わってきた。

琴未の演奏が、目に見えない力で空気を満たしていくのを感じ、僕は思わず胸の奥で静かに感動を覚えた。

   50

「先生、もう弾き語りは再開しないんですか?」

琴未が、膝をポンポンと叩きながら、楽しそうな笑顔で僕を見つめて言った。

彼女の瞳はまっすぐで、まるで疑うことを知らない純粋な輝きを湛えている。

「デモを聴きましたけど、先生の声には人に伝える力がありますし、いい曲もいくつかあるのに、もったいないですよ」と琴未は続けた。

その声には、どこか本気の励ましが込められているようで、胸の奥が少しだけ温かくなった。

僕は窓の外に目を向け、遠くからの車の音や風のかすかなざわめきに耳を傾けるようにしながら、ゆっくりと口を開いた。

「しばらく歌ってないからな。正直、ヘタクソになってしまったし、もう歌うことが楽しいって思えなくなってしまったんだ。それは歌い手にとって死だ。最近は、作曲して誰かに歌ってもらうほうがずっと楽しく感じてる。幸いなことに、今度駆け出しのアイドルに曲を提供できることになったし、それを機に作曲の仕事が増えればいいんだが、まぁ世の中そんなにうまくはいかないもんさ」

自分でも、どこか悟りを開いたような気持ちでつぶやいた。

「でも、今度先生の弾き語りライブ、路上でやってみましょうよ! 新宿に行けばたくさんいるじゃないですか、路上で演奏してる人。先生もキーボード持って、ちょっとやってみましょう!」

琴未の瞳がいっそう輝き、僕に熱い想いを伝えようとするかのようにキラキラと光っている。

その瞳に応えたい、そんな気持ちが胸にふわりと浮かんだ。

「いまさら、恥ずかしいなぁ」と苦笑しながらも、琴未の純粋な期待の眼差しに押され「でも、センスのある琴未ちゃんに言われると悪くないなとも思えてきたよ。いっちょやってみるか!」と思わず笑ってしまった。

   51

数日後、僕は新宿駅南口に電子ピアノを設置し、琴未の傍らで小さな弾き語りライブを始めてみた。

冷たい夜の空気のなかで、最初は行き交う人々も足を止めなかったが、次第に2~3人の観客が立ち止まり、そして気づけば20人以上が僕の周りに集まっていた。

街灯の光がぼんやりと路上に広がり、僕の歌声とピアノの音が夜の空気に溶け込んでいく。

ギターの弾き語りをしていた頃とは違って、予想以上の人が集まった。

僕の声はピアノと一緒に演奏することで、どこか柔らかく響き、思いがけない一体感が生まれたのだろうか。

正直、驚いた気持ちだった。

しまいには「プロデューサー」と名乗る、あやしい風貌の男がふらりと現れ、名刺を差し出してきた。

彼が去ったあと、冷たい空気のなかで胸に灯った小さな希望を抱えながら、僕は琴未に「ありがとう」と静かに言った。

   52

「世間が狭いのは承知の上だが、あやしい風貌の男が以前話していた青山プロデューサーだったとはね」

川崎の事務所の一室で、僕はそう口にした。

窓から差し込む午後の陽射しが、事務所の古びたソファと壁の色を淡く照らしている。

部屋にはCDや楽譜が無造作に積まれていて、その一つひとつに年月の重みが漂っている。

プロダクションを始めるにあたり、川崎は中古のCDや楽譜を買い集めていたのだ。

午後の光が斜めに差し込み、部屋の隅に淡い影を落としていた。

僕は深く息をつき、琴未の話を切り出した。

「前にちょっと話してたけど、例のローカルのラジオ番組で、琴未のピアノ演奏を流してもらえないだろうか。盲目で指にも障害があるピアニストとして。わがままを言えば出演もさせていただければと思うんだけど」

川崎がこうして耳を傾けてくれることで、心の奥の言葉も自然と出てくるようだった。

琴未のことを語るうちに、僕のなかに不思議な熱がこみ上げているのを感じていた。

彼女の音楽への情熱を、盲目でありながらも指先から放たれる音を、どうしても誰かに聴いてほしかった。

そんな思いが、長年寄り添ってきた川崎には十分に伝わっていたに違いない。

「なるほど。話題性もあるし、いいかもしれない。でも、自分の弾き語りを流せるチャンスだけどいいの?」

川崎の言葉には、僕の野心や目標を理解しているがゆえの配慮が含まれていた。

それに応えながらも、今は琴未に焦点を当てたいという決意が心のなかで揺るぎなく定まっていた。

「オレなんかあと回しでいいよ。番組があれば、またチャンスはあるでしょう」

その日のうちに、僕は琴未の写真とデモを青山プロデューサーに送り、祈るような気持ちで返事を待った。

そしてすぐに琴未の出演が決まったと知らせを受けたとき、心のなかに小さな火が灯った。

   53

収録当日、琴未は母親に連れられ、少し照れくさそうにスタジオに姿を現した。

琴未は普段とは違う、かわいらしい衣装に身を包み、白い肌と微かに輝く瞳が、少女の美しさの頂点を見せていた。

彼女は、そこに立っているだけで自然と人を引き込むような存在感を持っていた。

外からも丸見えのサテライトスタジオに入ると、ひときわ輝いていた。

僕は思わず息を飲んだ。

収録が始まると、琴未は一切の不安を感じさせることなく、堂々とした振る舞いを見せた。

彼女の声にユーモアが混じり、時折放たれる笑顔にスタジオ全体が和んでいくのがわかる。

僕はそれを目にしながら、彼女の姿が演技などではなく、18歳の素の彼女なのだと感じていた。

彼女の本質的な明るさと強さがそこにあり、それは僕の心に小さな光を灯すような感覚をもたらした。

「いやぁ、すごくよかったよ。君に惹かれた人は多いはずだ」

青山プロデューサーが彼女に向けて発した言葉の通り、琴未には人々を引きつける魅力があった。

彼女がふと僕のほうに向けた無邪気な笑顔を見た瞬間、僕は再び強く思ったのだ。

彼女は外の世界で光を放つべき存在なのだと。彼女こそが僕の星であり、音楽のなかで誰よりも輝けるのだと確信した。

「そうですか? いつも素はあんな感じですよ。先生の前ではかしこまったフリをしてるだけです」

数日後、番組と川崎の事務所には、彼女の演奏と出演を称えるファンのメッセージが多数届いたという。

彼女の演奏が、そして彼女そのものが、確実に人々の心を動かしている。

その事実に、僕は静かに胸が熱くなるのを感じていた。

   54

大学時代からの友人に、不犬斗という珍しい名字を持つ男がいる。

「いぬあらず」と読む。

不思議なことに、彼の顔はどこか犬のような愛嬌があり、犬そのものの表情をしているように見える。

それでいて、彼は立派な人間なのだから、まるで注意書きのように「あらず」とつけたのだろうか。

学部も生き方も違っていたが、なぜかウマが合い、ずっと交流が続いている。

ある日の夕方、不犬斗から電話がかかってきた。

大学を卒業していくらも経たないのに、どこか懐かしさがこみ上げてくる。

「琴未ちゃんのピアノの先生をやってるんだって?」

「どこで聞いたんだよ」

「ラムネちゃんがいってたんだよ」

「あーそういうことか。不犬斗はむかしからアイドルの推し活やってたもんな。それで今回は琴未ちゃんというわけか。コンサートがあればゲスト席と面会はセッティングできるけどな。いまのところ会うチャンスはないな」

「そんなことわかってるさ。何年も推し活やってれば。今回の電話は確認のためだよ」

「そうか。いまのところ、コンサートの予定はないが、あれば知らせるよ」

「わかった。楽しみに待ってるよ」

ラジオの収録から数日後の夜、川崎から電話があった。

静まり返った部屋に響く電話の音が、どこか不吉な気配を漂わせる。

僕は受話器を取り、川崎の声に耳を傾けた。

「青山さんから提案があったんだけど、琴未さんを映画に出演させてみないか?」

その言葉に、僕の胸に嫌な感情がざわめくのを感じた。

琴未が芸能界に引き込まれていき、ピアニストとしての夢を見失ってしまうのではないかと恐れたからだ。

そしてそれは同時に、彼女が僕から遠ざかっていくことを意味していた。

「どういう話でそうなった?」

眉間に皺を寄せ、怪訝な表情で尋ねる僕の様子が川崎にも伝わっているだろう。

「先日のラジオで、青山さんが琴未さんをいたく気に入ってね。盲目のピアニスト役で出演してもらえないかって。ちょうどいい脚本があるから、そこにうまく入れ込むってさ」

僕は少し息をつき、ホッとした。

その役がそれほど目立つものではなく、おそらくセリフもないだろうと思い、多少なりとも安堵の気持ちが心に広がった。

「琴未ちゃんとお母さんに確認して、連絡するよ。でも、断られるような気がする」

電話を切ると、僕の心にはまだ整理しきれない思いが残っていた。

頭を冷やすために、僕は夜の海へと足を運んだ。

   55

黒く冷たい波が暗い空の下で寄せては返し、遠くの対岸には無数のライトが輝いている。

その光がきらめく様子を眺めていると、不意に琴未をここへ連れてきて、ただ飾らないままの彼女と話をしてみたいという気持ちが胸に浮かんできた。

あのラジオ収録のときのような、純粋でまっすぐな彼女を、この静かな場所で感じたかった。

だが、僕はため息をつく。

彼女は18歳の成人だが、彼女は僕の生徒なのだ。

その関係が、僕にためらいを抱かせた。

帰宅してすぐに琴未に電話をかけた。

母娘で話し合った結果、出演を快諾するとの返事だった。

思いのほかあっさりした返答に、僕は意外な感じを受けたが、それは琴未の「少しでも世の中に出て、ピアニストとしての道が開ければ」という純粋な願いの表れだというのが伝わってきた。

きっと、ひねくれているのは僕自身なのだろう。

僕は川崎に連絡し、青山プロデューサーにもこの返事を伝え、琴未の出演が正式に決まった。

撮影はまだずっと先の話だったが、僕はこのことをこっそり不犬斗にも知らせた。おそらく、彼が誰よりも喜んだに違いない。

   56

「きょう暇かぁ?」

昼前に届いた真央からのメッセージに目をやり、少し笑みがこぼれた。

デスクには編曲の仕事が山積みで本当は忙しかったが、納期はまだ先。

僕は一瞬考えてから「暇だよ」と返事を打った。

「寿司いこうぜ」

「いいねぇ」

「何時にする?」

「早めの時間にしてサラッと飲むか」

「おけーい」

昼時、真央と待ち合わせた寿司屋に入ると、外の喧騒から切り離された静かな空間が広がっていた。

木の温かみが溢れるカウンターと、昼の柔らかな光が差し込む店内。

彼女と向かい合った瞬間、不思議と緊張がほぐれ、心が穏やかになるのを感じた。

気の合う仲間とはこういうものなのだろう。

グラスを持ち上げ、軽く乾杯を交わすと、まずは刺身の5点盛りと生牡蠣を注文した。

運ばれてきた皿には、新鮮な魚の艶やかな色が美しく並び、牡蠣は冷たく湿気を帯びた殻の上で輝いていた。

食欲をそそる香りが鼻をくすぐり、気づけば僕たちは料理をつまみながら、くだけた話を始めていた。

僕はグラスに口をつけ、少しリラックスした気分のなかで「避妊失敗ってさ、けっこうあるの?」と切り出した。

真央は笑ってビールを自分のグラスに注ぎ、そのまま僕のグラスにも注いでくれた。

彼女の白く細い指に光る金の指輪が、昼の光を浴びてかすかに輝いていた。

「あたしはないけど、けっこうあるっぽいよ。いまはモーニングアフターピルがあるから数は減ったかもね」と言って肩をすくめた。

「そうか……」

僕は顎に手を当てて渋い表情をしてみせた。

「誰かとやった?」

真央が、僕の顔をじっと見て聞いた。

「いやいや、やってない。ただ、参考にしたい話があってな」と僕は首を振り、大げさに否定した。

「なんだよー、期待したじゃんか。おまえなんも浮いた話ないよな」と言って、彼女は苦笑しながらお通しをつまんだ。

「つまんねー男で悪りぃな」と返しつつ、僕は少し体を乗り出して「でもさ、先日セックスできそうだったんだよ」と低い声で言った。

真央は驚いた顔で「え、勘違いじゃね?」と言い、焦ったように箸を持ち損ねて床に落とした。

すぐにおかみさんが新しい箸を持ってきてくれて、真央は小さく礼を言いながら僕に向き直った。

「いや、あれは勘違いじゃないと思う」とラムネとのエピソードを事細かに語ると、真央は納得したように頷いて「なるほどねー、それ勘違いじゃねえわ。疑って悪かった」と言ってくれた。

僕は胸を撫で下ろしながら「ああ、なんか安心した。勘違いのバカ男にならずに済んだ」と小さく笑った。

「そんだけ誘われててやらねー男もバカだけどな」と真央はからかうように言ってビールを飲んだ。

「それもそうだな……傷つけちゃったかな」

「ほら、すぐそうやって深刻ぶる。悪りぃ癖だぞ。ほら、グラスが空いてんじゃねーか。飲め飲め」

ラムネの気持ちがわかったのはいいが、それを知ったことで次に会うのが少し気まずくなるような不安が残った。

しかし、このままにしておけない。

早いうちに会いに行って、話をした方がいいだろう。

明日、ふらりと彼女のアトリエを訪ねてみようと心に決めた。

   57

ラムネのアトリエに足を踏み入れると、そこには独特な香りが漂っていた。

金属の冷たい匂いと、スプレーの強烈なにおいが混じり合っている。

彼女は何かのオブジェを丹念に塗装している最中で、集中した様子で手を動かしていた。

僕はその光景をしばらく眺め、彼女が一区切りつくのを待ってから「おはようございます」と静かに声をかけた。

「わあ、びっくりしたぁ。どうしたんですか急に」

ラムネは驚きのあまり身をすくめて、顔を振り返らせた。

彼女の驚きが大げさに見えて、少しばかり申し訳ない気持ちになった。

「ラムネが普段どんな作品を作っているのか興味がわいてね。それで来た」

僕は適当な訪問理由をでっち上げた。

だが彼女は疑いもなく、その説明を受け入れたようだった。

「いま作ってるのは何をあらわしているかわかります?」

ラムネが軽く首をかしげ、真っ白な頭部の模型を僕に向けてみせた。

その無機質な表情は、どこか冷たくもあり、何かを語りかけているようにも見えた。

「さすがにこれだけじゃわからないな。なにかヒントは?」

僕が尋ねると、彼女は真鍮でできた網目状の針金を頭部の上に持ってきた。

金属の冷たい光が、白い模型の上でかすかにきらめいていた。

「わかった! AIだ」

僕は声を上げた。

「正解です。でも正解がわかっちゃいけないんですよ、本当は……まだまだだな。『なんだこれは!』といわせないと」

彼女は少し恥ずかしそうに肩をすくめるが、目には真剣な光が残っている。

「芸術は爆発だ! ってやつか」

僕は笑いながら言ったが、ふとアトリエの隅に置かれた作品が目に入った。

前回見た「スマートフォンにメスを接続したオブジェ」

その意味の見当はついていたが、あえて口には出さずにいた。

突然、僕はふと思い立ち、照れくさそうに言葉を続けた。

「今度さ、公園に行かない? 夜景を見に」

その言葉を発した途端、自分の口調がやけに照れくさく響き、僕は思わず視線を落としてしまった。

言ってしまった自分が恥ずかしく、思わず足元を見つめた。

「どうしたんですか急に?」

ラムネはスプレー缶を手に持ったまま、興味半分、不思議そうな顔で問いかけてきた。

「ラムネと行ったら、どういう気分になるのかと思ってさ」

どこか所在なげに足を揺らしながら答えたが、ラムネの視線は鋭く僕を捉えていた。

「実験ですか」

その目には、真剣で冷静な光が宿っていて、僕は一瞬たじろいだ。

「実験だね。でもオブジェを作るのに実験することもあるでしょ? オレも作曲の実験をすることがあるし」

なんとかそう返すと、ラムネは少し考え込んでから、少しだけ微笑みを浮かべた。

「たしかにそうですね。なんだか騙されたような気がしますが……行ってみましょうか」

「いつにしようか。いまスケジュール確認できる?」

心のなかに小さな期待が膨らんでくるのを感じた。

ラムネはスマートフォンを取り出し、少しの間、静かな時間が流れた。

「じゃあ今夜にしましょっか? 天気予報は晴れだし」

「よし、それでいこう」

ラムネがふと視線を戻し、少し笑いを含んだ顔で言った。

「あ、きょう生理ですけど大丈夫ですか?」

真面目な顔を装った彼女に、僕は思わず笑いをこらえながら「そういう冗談はおよしなさい!」と半笑いで返した。

そのとき、昼の静かなアトリエが、ふたりの笑い声でほんの少し温かみを帯びた気がした。

   58

僕たちが向かったのは、僕のとっておきの場所だった。

街の灯りが遠くに揺らめくなか、人知れぬこの場所は、ただ特別な人にだけ教えたいと思う場所で、僕にとって心の隠れ家でもあった。

草が生い茂る土手に腰を下ろすと、夜の静けさが身体を包み込み、澄んだ空気の冷たさが頬に心地よく触れた。

目の前には、工場の無数の灯りが、まるで海のなかで静かに瞬く星のように散らばっていた。

暗い夜に浮かぶ鉄の構造物がその光を受け、どこか無機質でありながらも、不思議と心を引きつける美しさを放っていた。

「すごくきれい!  工場の夜景なんですね。自然も美しいけど、構造物も美しい」

ラムネの声には驚きと感動が混じり、夜景を見つめる彼女の目は、まるでその光を映すかのように輝いていた。

彼女の喜びが僕に伝わり、心が少し温かくなるのを感じた。

「構造物の美しさを追求する。ラムネの得意分野だ」

僕が言うと、彼女はうなずいて静かに笑みを浮かべた。

夜景の淡い光が彼女の横顔を照らし、鼻筋の通った美しい顔がより一層際立って見えた。

「今夜は流れるようなショートカットだな。寝癖が立ってない」

僕は、照れ隠しのようにそう言ったが、ふと心の奥に「かわいいね」と言いたくなる気持ちが湧き上がった。

しかしそのひとことがどうしても言えず、夜空に目をやった。今夜の夜景には何か特別なものが感じられた。

ラムネはふと目を伏せ、少し息をついて言った。

「あたし、もう言いたいこと言っちゃいます。あまりにも鈍感だから。あたしは貝渕さんのことが好きです。好きな人ととっておきの夜を過ごすために、おめかしして来たんです」

その言葉を聞いた瞬間、僕は返答に困り、胸の奥がざわめいた。

頭が真っ白になり、結局「はい。ありがとうございます」とだけ答えるのが精いっぱいだった。

「なんですか、それ」

ラムネは八重歯を見せて笑った。

夜景の光が彼女を柔らかく照らし、その笑顔がいつもよりも一層美しく、はかないように映った。

僕は心を落ち着けるように息をつき「ごめん。今はまだ、回答をすることができない。ただ、回答期限の目安を知らせることはできる。琴未の指導を終えるまでだ。あの子は吸収が早い。長くはかからないと思う」と言った。

僕の言葉に、ラムネは真剣な眼差しで問いかけてきた。

「それは、琴未ちゃんに恋愛感情を抱いているということですか?」

彼女のその問いに、胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。

自分の心の内が「恋愛感情」という具体的な言葉で示され、逃げ場のない現実として自分に突きつけられたような気がした。

「それは否定できない。だが、彼女への指導の熱量を、恋と勘違いしている可能性がある。指導が終わってしまえば、サッパリとした気分に戻るかもしれない」

自分に言い聞かせるようにそう答えながらも、その言葉の不確かさが心に残っていた。

ラムネは冷静な表情を崩さずに言った。

「あたしがその間に、ほかの男とくっついちゃっても平気ですか?」

彼女の問いに、僕は唇をかみしめた。

少し前なら、答えるのは簡単だっただろう。

しかし今は違っていた。

ふらふらと揺れ動く自分の心に、どこか情けなさを感じつつ、口を開いた。

「平気……ではなくなってしまった」

その声は、心の奥から絞り出すような、途切れ途切れのものだった。

彼女は僕の言葉に、静かにうなずき、微笑みを浮かべた。

「なら、待ってますよ。琴未さんのことに決着がつくまで。あたしはそう簡単に人を好きにならないから大丈夫ですよ。貝渕さんとは3年くらいの仲になりますけど、好きになったのは最近ですから」

彼女の言葉が夜の静けさのなかに深く響き、胸の奥に温かな感情が広がっていった。

その瞬間、夜景の輝きが彼女の横顔をやさしく映し出し、ラムネが僕にとってどれほど大切な存在かを改めて実感させられた。

   59

僕はアトリエまでラムネを送って、すぐに帰るつもりでいた。

しかし、アトリエの扉を閉めかけたところで、彼女がふと顔を上げて僕に言った。

「あの、飲んで行きません? ここの屋上、ビアガーデンみたいに見晴らしがいいんですよ」

彼女は夜空を見上げ、どこか遠くを見るような目をしていた。

「それは気になるな」

僕は答えながら、彼女に導かれるまま、建物の隅に取り付けられた垂直のハシゴに手をかけた。

鉄の冷たい感触が手に伝わり、少し慎重に足をかけると、上から聞こえる彼女の足音が頼もしかった。

ラムネは慣れた足取りでさっさと登っていた。

屋上に出ると、見事な夜景が広がっていた。3階建ての建物の屋上だったが、周囲に遮るものがほとんどなく、街の灯りが遠くまで見渡せる。

住宅地の明かりがぽつぽつと静かに瞬き、夜空には月と星が冷たい光を放っていた。

「いい景色だ。月も星も綺麗に見える」

僕は思わず声を上げた。澄んだ夜の空気が心に染み入るようで、日常のすべてが遠くに感じられた。

「お酒持って来ますね」

ラムネは身をひるがえし、するするとハシゴを降りていった。

やがて、下から小さな物音が聞こえ、しばらくして彼女はビニール袋を手にして戻ってきた。

なかにはビールが4本、冷たい缶のまま静かに詰められていた。

ラムネは袋から1本取り出し、僕に渡してくれた。

ビニール袋がカシャカシャと音を立て、その音が夜の静寂に際立って響いた。

僕もビールを受け取り、彼女と軽く乾杯をした。

キャンプ用の折り畳み椅子を取り出し、互いに向かい合って腰を下ろすと、冷えた夜風がふたりの間をやさしく流れていった。

「貝渕さんって、本当にまじめというか、しっかりした人ですよね」

ラムネの少し低めの声が、夜のなかではっきりとした輪郭をもって耳に届いた。

彼女はビールの缶を開け、最初の一口を静かに飲んだ。

「なぜ?」

僕も缶を開けたが、ふとした拍子に泡があふれてきて、慌てて口をつけた。

「だって、さっきの場面ですけど、あたしのこと好きっていっておけば、やっちゃうことできたじゃないですか。それで琴未さんが好きなんだったら、ごめん、やっぱりオレ琴未ちゃんが好きだとかなんとか言えば済んだ話で」

ラムネは、ゆるやかに真剣な目でこちらを見つめながらそう言った。

「ああそうか。言われて気づいた」

僕は空を見上げ、夜空の暗がりに目を落とした。空には小さな星が点々と瞬いていた。

「えっ。可能性を知っていて、自分を制御したんじゃないんですか」

ラムネが反対側の夜空を見上げたまま、驚いた声を出してこちらを振り返った。

「そんなめんどくせぇことなんかしねぇよ」

ふと気が緩んでしまい、房総方言が口をついて出た。

「あたし、ますます貝渕さんのことが好きになりました」

ラムネの笑顔は、どこか柔らかく、楽しげだった。

夜景の光がその表情をやさしく照らし、夜風に吹かれながらビールを飲む姿が、愛おしさを感じさせた。

「好きを多用するとありがたみがなくなるよ」

僕は独り言のように呟きながら、ビールを一気に飲み干した。

ごくり、と喉が鳴る音が静かな夜に溶け込んだ。

「それでもいいです。好きな気持ちは言葉にしないと。特に鈍感な人には」

彼女は、優しく微笑んで、僕をじっと見つめていた。

その言葉が、胸の奥で静かに響き、温かなものがふとこみ上げてきた。

「ちげーねぇや」

僕は小さく頷き、夜空をもう一度見上げた。

冷たい星々が僕たちを見守るように輝き、心の奥でふっと温かな感情が広がった。

その夜の静けさは、二人の間に流れる何かを確かに映し出していた。

夜の静寂を切り裂くように、電話が鳴り響いた。茂子からの着信だ。

   60

耳元にあてると、彼女のかすかに震える声が聞こえてきた。

「夜分にすみません。琴未は昨日の夜から高熱を出して寝込んでいたんですが、さっきようやく熱が下がって……ピアノの練習を少しでもしようとしたんです。でも、いざ弾こうとしたら、右手の手首がまったく動かせなくなっていたんです。琴未はショックで、また寝込んでしまって……」

僕は瞬時に胸が締め付けられるような思いに襲われた。

手首が動かせない……それはピアニストにとって絶望的な障害だった。

ピアノの鍵盤を前にして、指先に魂を込めることができなくなる。

どれほどの絶望を意味するか──それが彼女にのしかかっていることを思うと、僕のなかにも焦燥が駆け巡った。

「今日はもう遅いですから、明日の朝、医師に診てもらいましょう。原因がわからないのは、琴未さんもおつらいでしょうから……僕も病院に同行します」

僕の言葉は自分を落ち着けるように響いたが、その実、内心は大きく動揺していた。

茂子が教えてくれた病院の名前を、震える手でメモ帳に書き込み、電話を切ったあとも、じっとその紙を見つめ続けていた。

ラムネに別れを告げ、家路についた。

   61

翌朝、僕は早めに病院へ向かい、診察室の前で茂子と琴未と合流した。

薄暗い廊下で待つ彼女たちの姿は、病院の冷たい空気に染まり、琴未の青白い顔が小さな震えを見せていた。

診察室のドアが静かに開き、医師があらわれて診断を伝えた。

「橈骨神経麻痺といいます。高熱を出して寝込んでいたときに、寝相が悪くて神経を圧迫してしまったんでしょう。全治一か月というところですね。無理に動かそうとせず、自然に任せておけば治りますので、特に投薬は必要ありません。お大事になさってください」

その瞬間、僕も茂子もほっと胸を撫で下ろした。

完治が見込まれるという医師の言葉は、冷たい病院のなかにあって温かく響いた。

しかし、琴未にとっての一か月が、長く苦しい時間になるかを想像すると、胸が締めつけられた。

「一か月、レッスンはお休みですね」と僕が言うと、茂子も小さくうなずいた。

しかし、その一か月が琴未にとってどれほど重要な時期かを僕は忘れていなかった。

彼女はピアノへの情熱に突き動かされているのだ。

琴未は左手だけでも練習を続けていた。

茂子から聞かされたその話に、僕は頭が下がる思いがした。

たとえ片手だけでも、彼女はピアノから離れることを拒んだのだ。

琴未のその姿勢に触れて、ふと自分の人生を振り返らずにはいられなかった。

果たして、自分は何かにここまで一生懸命になったことがあっただろうか。

彼女のように、熱をもって、打ち込んだものがあっただろうか。

その問いが静かに胸に残り、僕はその日、彼女の成長に負けないようにと心に誓うのだった。

   62

エックスエンターテインメントのウェブサイトで、琴未が一か月の休養に入ることが公表された。

画面にそのお知らせが載せられると、現実感が湧いてきた。

改めて、琴未が僕の友人である川崎の運営するこのプロダクションに所属していることに、奇妙な縁を感ぜずにはいられなかった。

特に不犬斗が「ネットでは早く琴未ちゃんの演奏が聴きたい、姿を見たい、って話題になってるよ。一か月後になったら、早めにコンサートなり、ラジオ出演なり、メディアへの露出を増やしたほうがいいと思う」と言ってきたとき、彼の熱意に胸が温かくなった。

「アドバイスありがとう。不犬斗には何かの形で還元しないといけないな」

「いいんだよそんなの。僕は琴未ちゃん推しだから。それが友達の助けになるなら喜んで情報提供するよ」

不犬斗の声は弾んでいた。

その声の余韻が耳に残るなか、半月ほどが過ぎて、僕は作編曲やプログラマーの仕事に没頭していた。

少しずつ依頼は来ていたが、店舗音楽の作曲と組み込みソフトウェアの依頼ばかり。

静かな部屋に一人きりで作業を続けるうちに、ふと、琴未の顔を見たくなって茂子に連絡を入れた。

「あいかわらず、一生懸命やっています。気分転換ついでに、来て見てやってください」

その言葉に誘われるように、その日、僕は琴未の部屋を初めて訪れた。

城田家のリビングから一歩奥まったその部屋は、まるで彼女の音楽の情熱と穏やかな家庭の温もりが合わさったような静かな空気に包まれていた。

部屋の片隅には、茂子が現役時代に使っていたという古いヤマハのピアノが控えていた。

そのピアノは、古びてはいたが重厚で深みのある音色を宿していた。

琴未が座ると、その小柄な身体に反して響き渡る旋律が、部屋の隅々まで染み渡り、まるでその背後に広がる闇のなかに、彼女の音が光をもたらしているようだった。

「がんばってるかい。ひさしぶりだね」

僕はドアを半開きにして、控えめに声をかけた。

「先生」

琴未の顔が、まるで夕焼けに染まったようにさっと赤くなった。

半月ぶりの再会が、彼女にとっても嬉しいものだったのだろう。

「あれから半月立ったから、様子を見にきたんだ。土産話も持ってきた」

僕はそう言いながら部屋に足を踏み入れ、彼女に向かって柔らかい微笑みを浮かべた。

「土産話ですか」

琴未は僕の声をたどり、まるで不安を打ち消すように僕の手にそっと触れた。

その細く温かい指先が、確かに僕の存在を確かめようとしているかのようだった。

「ちょうど半月後に、有名楽器店のピアノコンクールがあるんだ。楽曲は自由。優勝者には奨励金が出て、コンサート映像が店頭の液晶ビジョンに一ヵ月放映される。やってみないかい」

僕は無理のないように、できるだけ慎重に声を落とし、彼女の気持ちに寄り添うように話しかけた。

「もちろんやります。先生もついて来てくれるんですよね」

琴未は顔に喜びの笑みを浮かべ、今にも跳び上がって喜びを爆発させそうな様子だった。

「それはもちろん。では、お母さんに手続きをしてもらうよ」

琴未の顔が少し引き締まり、彼女は袖でふと涙を拭った。

「どうした」

不意にこみ上げてきた感情が、自分でも抑えられなくなったのだろう。

「わたしはハンデを負っているけど、その代わり、みんなのやさしさを十分に受けとっていることがうれしくて」

僕はその言葉を聞いて胸が締めつけられる思いがした。

もし自分に恋人がいたら、こんなふうに心を揺さぶられるものなのか――その感情が、抑えきれずに胸に広がっていった。

「先生。先生の顔はどこ」

琴未の手をそっと取って「ここだよ」と自分の頬に導いた。

彼女はもう片方の手もそっと添え、僕の顔を両手で包み込むようにしてそのまま自分の前に引き寄せた。

次の瞬間、彼女は僕にキスをした。

その唇はほんの少しずれていたが、その無垢な気持ちが伝わって、僕は微笑ましい気持ちに包まれた。

「琴未ちゃん」

「ごめんなさい。ずっとこうしたかったんです。所詮、高校生の初恋です。気にしないでくださいね」

そう言われて気にしないでいられる男が、一体どれほどいるのだろう。

「じゃ、早いけどおいとましようっかな」

照れ隠しに、僕は琴未の肩をぽんと軽く叩いた。

「変なことしたからですか」

琴未の顔が一瞬不安な色に曇った。

「いや、いくつかやらなきゃいけないことがあるから。心配しないで大丈夫」

彼女の不安を打ち消すように言うと、琴未は安心したように微笑んで、かすかに「それならよかった。それでは、おやすみなさい」と寂しげに見送ってくれた。

その表情が、夜道を歩く僕の胸に切ない残響となって響き渡った。

   63

それから半月が過ぎ、いよいよ楽器店主催のピアノコンクール当日がやってきた。

秋晴れの清々しい空気が会場を包んでいたが、僕の心のなかは期待と緊張で乱れていた。

ロビーから聞こえてくる観客の話し声や、ホールの隅々にまで張りつめる静寂に、コンクールの重みが漂っているようだった。

会場に到着した琴未は、少し緊張した面持ちをしていたが、その表情には確かな決意が宿っていた。

医師の言葉どおり、琴未の手首は完全に回復していた。

小柄なその姿が舞台裏で音もなく立っていると、まるで彼女のなかに流れる音楽がその身体を支えているかのように見えた。

「君ならできる。大丈夫だ。感情も何も込めようとしなくていい。ただ情景をイメージすれば、指は勝手に動く」

僕はそう言って、琴未の肩にそっと手を置いた。

彼女の顔には一瞬、不安が揺らいだように見えたが、その後すぐに静かな決意が浮かび、深呼吸をして舞台へと向かっていった。

まばゆいライトが彼女を照らし出すと、琴未はまるで夜空に浮かぶ小さな星のように、けれどその輝きには揺るぎない力があった。

ピアノの椅子に腰かけ、最初の音がホールに流れ出す。

琴未の演奏は、予想をはるかに超えるものだった。

盲目でありながらも、指に欠損がありながらも、まるで何の制約もないかのように、音符が織りなす世界は豊かで美しく、ホールを埋め尽くす聴衆の心を捉えて離さなかった。

その演奏には、ただの技巧を超えた深い情景が宿っていて、聴く者を遠い夢のなかへと誘うかのようだった。

ステージを見守りながら、僕は彼女の成長を目の当たりにしている感動に震えた。

どの演奏者も素晴らしかったが、僕の心は琴未に軍配を上げたかった。

彼女の演奏には、耳に聞こえない何かがあった。

彼女自身が積み重ねてきた年月、乗り越えてきた困難、そのすべてが音に乗って流れていたのだ。

演奏が終わり、しばらくして司会者の女性がステージに現れると、会場の空気がさらに張り詰めた。

   64

誰もが結果を待ちわびて、息を潜めている。

「それでは、結果発表にまいります。特別賞、木村幸恵さま」

観客席からは大きな拍手が湧き起こった。

しかしそのなかには、落胆の声も混じっていた。

「おめでとうございます。つぎは、グランプリの発表です」

僕は胸の動悸が高鳴り、不安と期待が交錯して、手に汗を握りしめた。

不犬斗や琴未のファンたちも、息を呑んで見守っている様子が伝わってきた。

「グランプリは、城田琴未さんです。おめでとうございます」

瞬間、ホール全体が歓声に包まれ、拍手と歓声が彼女を祝福するようにこだました。

僕は抑えきれない感情に突き動かされるまま、楽屋からステージに飛び出し、彼女を抱きしめた。

気づけば僕の頬は涙でぐちゃぐちゃになっていたが、そんなことはどうでもよかった。

琴未はやったのだ。小さな一歩かもしれないが、彼女はその障害を乗り越え、ついに輝かしい栄光を手にしたのだ。

その後、エックスエンターテインメントには琴未宛てのメッセージが次々と届き、メディアからの取材も殺到した。

川崎はその対応に追われつつも、すべてをきちんと整理し、琴未に最もふさわしい形で対応を進めてくれた。

僕もメディアにインタビューを受けることが何度かあったが、彼女の努力と音楽への熱意について語るたび、胸に熱い思いがこみ上げてきた。

彼女の人気はとどまるところを知らなかった。

その笑顔と音楽に触れた人々が、彼女を心から応援し、琴未の名はますます広がっていった。

数日後、不犬斗から電話がかかってきた。

電話が鳴った瞬間、直感的に、これは良い知らせではないと感じた。受話器を取り、彼の重々しい声が耳に入った途端、その予感が現実のものとなった。

   65

「琴未ちゃんのアンチがすごい勢いで増えているんだ。先日のコンクール動画が出回ってる。アンチがいうには、クラシックを冒涜してると。ハンデを補うために楽譜を書きかえる。インチキ女だと。しかも、ピアノの先生とデキてるって書かれてる。これは非常によくない」

不犬斗の声が、どうにも暗く沈んでいた。

電話越しにも彼の悔しさや焦りが伝わり、僕の心にも一気に冷たい影が差し込んでくるようだった。

琴未の努力と才能に対して、なぜそんな憶測が投げかけられるのか――正当な批判とは程遠い、その言葉の暴力にただ腹立たしさを覚えた。

「なんとかならないのか」

抑えようと思っても、声にはどうしても焦りが滲んでしまった。

彼女を守りたい気持ちが、どうしようもなく押し寄せてきていた。

「こういう場合、なにをしても火に油を注ぐだけなんだよ。しばらく大人しくして、火が消えるのを待つしかない」

その言葉に、不犬斗の無力感が滲み出ていた。

僕も同じ無力感にとらわれていた。

彼女がようやく手にした光が、今こうして陰に押し込められようとしている。

琴未が抱えるハンデを思うと、その心中を想像するだけで胸が痛んだ。

電話を切ったあと、僕は川崎にすぐ連絡を入れ、琴未への誹謗中傷が殺到していることを伝えた。

エックスエンターテインメントにも、すでに様々な手段で心ない言葉が届いているという。

普段はクールな川崎も、さすがに沈んだ声で「琴未ちゃんが知ったらどれほど傷つくか……」と漏らした。

その夜、僕はふとラムネが以前作ったオブジェのことを思い出した。

あの異様なオブジェ、スマートフォンと鋭利な刃物を意味するメスが組み合わさった「ネットでの誹謗中傷はメスになる」という作品だった。

ネットの無責任な言葉が、人の心を容赦なく傷つけていくという意味を込めた、彼女独自の表現だった。

オブジェの鋭利な線や冷たい金属の質感が、今も目の前に浮かんでくるようで、ラムネの鋭い洞察に息が詰まる思いがした。

僕の頭のなかに浮かぶのは、琴未の笑顔や演奏に没頭する姿ばかりだった。

彼女がまさにその瞬間も、どんな思いで日々の練習に向き合っているかを思うと、痛々しさが胸を締めつけた。

琴未はどんな逆境にも負けない意志を持っている。

けれど、その小さな肩に、あまりに重い重圧がかかっているように思えた。

夜も更けた頃、電話が鳴り響いた。

その低い振動の音が、静まり返った室内に重く響く。

手に取って耳に当てた瞬間、相手が琴未であると分かり、僕の胸に緊張が走った。

「こんばんは。琴未です」

その言葉の端に、どこか冷たい響きを感じた。

   66

彼女がアンチの件を知っていることを、直感で察した。

「その調子だと、知っているのかな」

「誹謗中傷のことですよね。学校の友達から聞いて、きょう知りました」

その言葉が胸に刺さり、僕は息を詰まらせた。

真夜中の静寂のなかで、電話の向こうにいる琴未の姿が、ぼんやりと浮かんでくる。

彼女がどんな気持ちでこの話をしているのかを考えると、僕は自分の無力さが痛いほど身に沁みた。

「ごめん。僕の腕が未熟なばっかりに。もしクラシックを冒涜したのだとしたら、それは僕だ。責任は僕にすべてある」

自分でも意識せずに、言葉が口をついて出た。

責任を琴未に背負わせてしまっているかのような現実が、ひたすらに悔しかった。

深夜の重い沈黙が、彼女の呼吸音とともに耳に届き、心が締めつけられるようだった。

「そんなことはありません。実際、コンクールでは多くの人たちが演奏を聴いて感動してくれたじゃないですか。専門的な勉強をしていないので、わたしの意見はなんの足しにもならないかもしれませんが、先生の編曲はすばらしいです。原曲へのリスペクトが感じられます。だからそう自分を責めないでください」

彼女の声は震えることなく、澄んだ響きを保っていた。

琴未の言葉は、僕の心の奥に深く染み入り、涙がこぼれそうになるのを感じた。

電話越しの彼女が、ただ静かに優しく僕を支えてくれているようで、思わず胸がいっぱいになった。

「ありがとう。生徒に励まされるとはね。オレはやっぱり未熟だ」

「先生。近いうちに会いましょう。わたしは先生が心配です」

「いや、気持ちは嬉しいが、やめておこう。写真でも撮られれば、アンチの格好の餌食になる。いまはただ、大人しくするんだ」

彼女の気持ちが痛いほど伝わってくるのに、それを受け止めることができない自分がもどかしかった。

彼女は静かにため息をついたかのようだったが、その後すぐにまた落ち着いた声で続けた。

「わかりました。……ひとつ最後に伝えたいことがあります。わたしに双子の弟がいたことはご存じですか?」

「いや、聞いてないな」

   67

「自殺したんです。17歳のときに」

僕は言葉を失った。彼女のその一言に、全身が凍りついたように動けなくなった。

突然の告白に、適切な返事を探そうとしたが、言葉が見つからなかった。

「前触れはあったの?」

やっと探し当てた言葉だった。

「ありませんでした。ただ、生気がありませんでした。その、具体的にではなく、なんとなくの話なんですが」

「生気」という言葉が彼女の口から発せられた瞬間、その意味が遠い靄に包まれるようで、僕はその深さを捉えかねた。

だが、彼女がその言葉を選んだことには確かに重みがあると感じた。

「あとあと調べてみると、いじめにあっていたようです。ただ本人はなにも書き残さなかったので、詳細は不明ですが」

その言葉が、夜の暗闇に染み込むように響いた。

琴未が弟のことを話すたび、その記憶が彼女にどれほど深い傷を与えているかを痛感し、胸の奥が軋むように痛んだ。

「どんな弟さんだったの」

「電子工作が好きで、家にこもってずっと実験をしているような子でした」

彼女の声が柔らかく、それでいて寂しげに響く。

彼女にとって、その記憶は今でも色褪せることなく、重く彼女の心に残り続けているのだろう。

「ほかに気になることは」

「死体には、いくつものアームカットの痕がありました。そして死ぬときもまた、自分で自分の手首を……」

琴未の言葉が胸に刺さり、過去に彼女が僕のアームカット痕に気づいた時のことを思い出した。

その時の彼女の目が、深い哀しみと優しさに満ちていた理由が、今になって少しずつ理解できた気がした。

弟を失った彼女が抱く心の隙間が、僕と共有できるものだったのかもしれない。

「身体的な痛みより、内なる痛みが勝ってしまったんだろうね。僕がアームカットをするのは、そんな精神状態のときだ。もちろん今はやってない」

しばらく沈黙が続いた。

夜の静けさが、彼女と僕をつないでいるかのようだった。

その後、彼女が呼吸を整え、ひとことひとことを選びながら、ゆっくりと語りかけてきた。

「こんなこというと気味悪がられるかもしれませんが、最近の先生には、生気がないんです。弟が亡くなる前と同じように。くれぐれもお身体を大切にしてください」

彼女の言葉が、静かに、しかし深く僕の胸に染み込んでいった。

生気がない――その言葉に、彼女の心が映し出されているようだった。

弟を失ったことで受けた彼女の痛みが、僕に向けられているその優しさに、僕は応えなければならないという思いが湧き上がった。

   68

アンチの存在は百も承知のうえで、川崎は琴未をローカル放送のライブ番組に出演させる決断を下した。

ライブは収録と同時に、観客を入れて行われる。

担当プロデューサーである青山さんは、炎上中のアーティストを出演させることに強い懸念を示していたが、川崎が真摯に頼み込み、ようやく承諾を得た。

川崎のなかには「琴未は何ひとつ悪いことをしていない」という揺るぎない信念があった。

その信念が彼を突き動かしていたのだ。

その日のスタジオは、通常の収録とは異なる張りつめた空気に包まれていた。

僕もスタッフとして現場に立ち会っていたが、妙に胸が高鳴っていた。

観客席に静かに並ぶ人々の姿が見えるたび、琴未の演奏がどのように彼らに届くのか、心配と期待が入り混じった。

リハーサルが始まる時間が来た。

控室から現れた琴未の姿に、僕は思わず息を呑んだ。

淡い青色のドレスが彼女の白い肌を一層引き立て、流れるような布が舞い踊るように彼女を包んでいた。

ヘアメイクの力も加わり、琴未は普段とはまるで違う、どこか幻想的で妖艶な姿になっていた。

黒髪が光を受けて艶めき、舞台の照明に映えるその姿は、まさに観客を一瞬で引き込むにふさわしいものだった。

リハーサルの最後の音がスタジオに響き渡った瞬間、僕のなかの不安は、彼女の音楽に対する揺るぎない信頼へと変わっていた。

リハーサルを終えた琴未の表情には、緊張と静かな覚悟が見え、彼女の背筋はまっすぐに伸びていた。

やがて、いよいよ本番の時間が近づくにつれて、客席の様子が変わり始めた。

ちらほらと空席が埋まっていた客席には、いつの間にか人々が詰めかけ、座る席もなく立ち見する人まであらわれた。

無言でスタジオに足を踏み入れる観客たちの顔には、好奇の眼差しもあれば、期待を込めた表情もあり、まさに彼女が舞台に立つのを待ち焦がれている様子がありありと伝わってきた。

その光景に、僕は目頭が熱くなるのを感じた。

琴未をここまで応援し、彼女の演奏に心打たれようとする人々がこんなにも集まってくれている。

来ない人間の誹謗中傷など、今となってはどうでもいいことのように思えた。

   69

青山プロデューサーが合図を出し、やがて演奏が始まると、会場には一気に静寂が訪れ、琴未の指先が鍵盤に触れるたび、音楽が波紋のように広がり、観客一人ひとりに届いていくのが見て取れた。

琴未の指は一つひとつの音に命を吹き込み、聴く人々の心の奥底へと語りかけていた。

観客たちはその音に耳を傾け、彼女の演奏に酔いしれていた。

彼女の演奏が終わると、客席から大きな拍手が沸き起こり、その拍手は次第にスタジオ全体を包むように響き渡った。

彼女を称えるその拍手のなかで、僕はただひたすら彼女を誇りに思い、観客席からの評価がどれだけの意味を持つかを痛感した。

琴未の音楽が届いている人々がここにいる、そう確信できた瞬間だった。

   70

僕がよくひとりで酒を飲む場所は、ひと駅先の少し寂れた一角にある。

そのあたりは狭い路地に古びた居酒屋やバーがひしめき合い、どの店の看板も年季の入ったネオンで照らされている。

いかにも人間模様の交錯する街で、すれ違う影には無言の物語が詰まっているように思えた。

路地裏にはホテルも並び、ひと夜の関係を求めて彷徨う人々の姿がちらりと見える。

僕にとっては縁遠い話で、ただ酒を飲みに来ているだけだったが、この街に流れる、何かを隠し、何かに期待する微かな空気には、奇妙な心地よさを覚えた。

今夜も、道行く人々の数が多いように感じた。

辺りのざわめきと、行き交う人々の顔が不思議に輝いている。

ふと、今日は金曜日だったことに気づいた。

人の気持ちが少しだけ弾む夜だ。

隣のテーブルから話し声が聞こえ、耳に留まったのは「琴未」という名前だった。

「城田琴未って知ってるか?」

声の主がその名前を発したとき、僕は思わずグラスを傾ける手を止めた。

「盲目指欠損の天才少女だろ。テレビでやってたよ」

「ハンデを抱えてあのレベルだからな。健常者だったらって考えると恐ろしいよ」

僕は聞き耳を立てる。

琴未に向けられた言葉は、尊敬とも感嘆ともつかないが、間違いなく彼女の努力と才能を認める響きを持っていた。

「可愛いしなぁ。オレ結構タイプだぜ」

言葉の端々に、彼らが彼女に感じる特別な興味が窺える。

僕はひそかな喜びに包まれ、思わずもう一軒はしご酒をすることにした。

最初の店で感じた歓びが、なぜか次第に寂しさを伴ってきた。

そこで僕は思い立って真央に電話をかけた。

「いつも飲むあたりにいたりしないか」

「いないけど、暇だからつき合うぜ」

気の合う友人が快く応じてくれ、僕はその場でほっと肩の力を抜いた。

   71

約一時間後、真央が現れた。

人の多い金曜の夜、彼はいつも通り無頓着な顔で僕のそばに立ち「よっ、どこ行くか」と一言だけ言った。

「あんまり人に話聞かれねーとこがいいな」

「オレも同じだ。大衆居酒屋みてーなうるせーとこ行くか」

活気あふれる店内に足を踏み入れると、頭上にはいくつもの提灯がひしめき合ってまぶしく光り、騒々しい笑い声が四方から降り注いできた。

僕らは席に着き、ビールで乾杯し、やや気まずさを覚えながらも互いに語り合った。

「セフレん家でさぁ、彼氏からもらった指環なくしちゃって。マジでへこんでるわ。どこ探しても見つかんねーんだよ」

真央はやれやれという顔で苦笑いし、少し生意気な顔でビールをぐいと飲み干した。

「その彼氏への想いがあって、セフレがいるっつーのがわかんねんだよな」

「嫁がいる男が風俗行くみてーなもんだろ。男が女に幻想抱きすぎなんだよ」

真央は冗談半分に吐き出し、僕は仕方ないというふうに笑った。

だが、ふと思い出したように口を開いた。

「ラムネも、セフレいたりすんのかな」

真央は驚いた表情で僕を見て、苦笑しながら首を振った。

「おまえのこと誘ってきたことあるんだろ。いるかもしんねーぞ」

「そうだったらやだなぁ」

「おまえもうラムネちゃんに惚れてんだろ」

「そんな気はする。あ」

僕は思わず苦笑し、話題を変えるつもりで、唐突に琴未の話を振った。

「真央ちゃん城田琴未って知ってるか?」

「ピアノかなんかで最近出てきた奴だろ」

「おお。真央ちゃんが知ってるとはすごいな。彼女の先生、オレなんだよ」

「マジで。おまえすげーじゃん」

「一緒にテレビにも出たんだぜ」

「やっと努力が報われてきたな」

真央の言葉はどこか温かく、久しぶりに素直に嬉しさを感じた。

僕らはその後も話し続け、駅のほうへ向かって歩き出した。

途中、近道をしようとホテル街を抜けることにした。

そのときだった。

人通りの少ない路地で、ふと見慣れた姿が視界に入った。

それは間違いなくラムネだった。

彼女が一人、無言でホテルの奥に消えていく後ろ姿が一瞬だけ目に焼き付いた。

「どうした。顔こえーぞ」

真央が不審そうに覗き込んでくる。

「今、あのホテルに入っていったんだ」

「誰が」

「ラムネが」

真央は一瞬驚いた顔をしたが、少し考え込んで軽く笑った。

「デリヘルでもやってんじゃねーの」

「そうなんだよ。オレもそう思って」

「藝大生だろ? 金もかかるだろうしな」

僕は胸の奥が冷たくしぼむような感覚に襲われた。

理屈ではどうしようもない寂しさが全身に広がり、酔いが一気にさめるのを感じた。

次に会ったとき、何とかしてラムネに聞いてみるべきだと思った。

できる限り冷静に、詮索するような雰囲気を出さないようにしなければならない。

夜の冷えた空気のなか、僕はすっかり酔いが醒めてしまっていた。

   72

家に帰ると、静まり返った部屋のなかで、改めて琴未のために書いた自分の編曲を見直してみる気になった。

わずかに感じる夜の冷気が、心の奥底に沈んでいた思いをひそやかに浮かび上がらせるようだった。

そっとピアノの前に腰を下ろし、ゆっくりと譜面を開いた。

僕は琴未のようにピアノが得意ではないので、テンポを落として指を鍵盤に置いてみた。

小さな音がぽつぽつと夜の静けさに溶けていく。

ベートーヴェンが譜面に込めた思いを完全に知ることはできない。

だが、音符のひとつひとつが語ろうとする意図を、ただ感じ取り、想像してみようとする。

クラシックの難しさは、作曲者の音源がないことにある。

楽譜通りにただ音を並べても、それは死んだ音楽になりかねないのだ。

僕は自分なりの解釈で琴未に演奏させていたが、その解釈が本当に正しいのかどうか、ふと疑問が胸をよぎった。

その時、不意にラムネの言葉が蘇った。

「売れるか売れないか、その二択だけで物事を決めてしまう。しかし、実際のところ、世の中にはその二択の間に無数の世界が広がっているんです」

その言葉が僕の心に刺さった。

売れるか売れないか──そうした基準に縛られ、僕はいつの間にか自分の音楽も、そして琴未への教えさえも狭めてしまっていたのかもしれない。

いっそ、すべての表現を琴未に委ねてみてもいいのではないか。

僕はただの編曲者に過ぎない。

それで良いのだ。本来の僕は、それを望んでいるのだろう。

ピアノ教師はあくまでも基礎であって、琴未の表現は琴未自身に委ねるべきなのだ。

   73

次のレッスンで、僕は彼女に言った。

「なにも考えずに、琴未ちゃんがいちばん気持ちいいと思う表現で弾いてほしい。僕のアドバイスは一旦すべて忘れてほしい」

彼女は目を閉じ、息を整えてから、そっと鍵盤に指を置いた。

音が流れ出すと、そこにあったのは一種の清涼感だった。

音符のひとつひとつに、彼女が記憶に残していたすべての光が乗せられているかのようだった。

春の木々が芽吹くような、花々が香るような、そして温かな太陽が差し込むような鮮やかさがそこにあった。

盲目の彼女が記憶の奥底にしまっていたであろう光が、音のなかに色鮮やかに蘇り、まるで彼女が見てきた世界が輝きを増して放たれているようだった。

音が途切れると、琴未は最後の音を置いたまま、静かに姿勢を直した。

彼女の奏でたその音は、僕が見てきたどんな光景よりも、はるかに美しく、鮮やかで、そして生命の力強さに満ちていた。

部屋には重厚な静寂が満ちていた。

琴未が弾き終わると、僕は静かに目を開き、部屋に染み入る余韻を感じながら、彼女の成長の跡を確かめた。

「すばらしいよ。今後は全曲、琴未ちゃんの自由に弾いていい。もう君の表現力は僕を超えた」

わずかな息遣いとともに響いたのは、僕が今まで心の奥底に秘めていた言葉だった。

その瞬間、彼女の顔には微妙な陰りが走った。

琴未は、光を失った瞳をほんの一瞬揺らし、目を伏せて静かにうつむいた。

彼女の小さな体が、その言葉の重みを吸い込むようにしずんでゆくのが分かった。

まるで風のない湖面に小石を投げたときに生まれる、ささやかな波紋のようだった。

「レッスンは終わりということですか?」

彼女の声は、かすかに不安を帯び、響きは部屋のなかで頼りなく揺れた。

僕は思わず彼女の方に手を伸ばしたが、寸前で止めて言葉に変えた。

「いや、そうじゃない。君に指針を示すことは継続する。また、新曲に取りかかるときは、いままでと同様に基本的な指導と編曲を担当する。ただ、最終的な色づけに関しては、僕は一切口を出さない。君の自由にやってほしい」

琴未は、再び沈黙に包まれた。

その顔には、彼女自身も気づいていない微かな変化があった。

まるで彼女が、自らの未来に向かう道を慎重に模索しているかのようだった。

その静かな佇まいからは、確固たる信念の一片が漂いながらも、その下に隠された大きな不安が、透けて見えた。

自分に寄せられる信頼が、何よりも彼女にとって重かったのだろう。

その信頼の重みが、彼女の肩を押し下げ、しかしその背中をそっと押しもしていた。

「わかりました。そのようにいたします。でも、おかしいと思ったことはちゃんと指摘してくださいね」

彼女の声は静かだったが、そこに込められた決意が微かに部屋の空気を震わせた。

琴未の頼りないながらも凛とした響きが、僕の心に静かに届く。

「それはもちろん」

そう答えた僕の声は、琴未の心にかかる影を少しでも和らげたかのようだった。

   74

川崎の判断で、エックスエンターテインメントの公式動画ページに琴未の演奏動画を配信することが決定された。

その知らせを受けてから数日、僕たちは重厚なグランドピアノが鎮座する、少し陰のある静かなスタジオにやってきた。

ここは広く、少し薄暗くもあり、どこかピアノに寄り添うための空間のようだった。

川崎が来られなかったので、見学兼アシスタントとしてラムネを呼んでいた。

彼女は普段のふんわりとした姿とは違い、少しきりっとした表情を浮かべて、興味津々とした様子でスタジオ内を見回していた。

僕はレンタルした機材のセッティングに取り掛かっていた。

ギターの弾き語りライブで自ら音響をこなしてきた経験が、今ここで役に立っていた。

ピアノの音を最も美しく収めるために、高音用と低音用のコンデンサーマイクを慎重に配置し、さらにその音を空間全体で包み込むように、残響用マイクもセットした。

シンプルでいて、繊細な音がすべての角度から響くように心がけてセッティングする。

静まりかえったスタジオに、僕の動きだけがあわただしく響き、しばらくすると準備は整った。

琴未は緊張していたようで、ピアノの前で小さな手を擦り合わせていた。

その表情はやや強ばっていて、普段のリハーサルやコンサートとは異なる環境に少し怯えている様子だった。

しかし、いざ鍵盤に指を置いて、手慣らしを始めると、すっと深呼吸をするように緊張が溶けていくのが分かった。

彼女の顔にはいつもの自信が戻り、その背筋が少し伸びた。

「じゃあ、いきます。テイクワン」

カウントを取り、彼女の耳に届けた。

その瞬間、彼女の指が滑らかに鍵盤の上を駆け抜けた。

ピアノから流れ出る音色は、深い湖の底から沸き上がる波のようで、柔らかく、どこか人々の心を揺さぶる力があった。

琴未は一曲、一曲と弾き進めていき、僕らは息をするのも忘れてその姿を見守った。

テイクは全て、完璧だった。

まるでどの音も、誰もが心のなかで待っていたその瞬間に、あらわれては消えていくかのような、繊細で鮮やかな演奏だった。

最後に、モニタースピーカーで収録した音を流してみた。

広がっていく音の輪が、まるで部屋の空気に色をつけるように、あたりに散らばった。

そこには生き生きとした音のひとつひとつが顔を出し、深く、温かく僕らに語りかけていた。

   75

収録が終わり、スタジオに響いていた余韻も静かに落ち着いた頃、僕は琴未にラムネを紹介することにした。

いざ紹介の瞬間となると、なぜか気恥ずかしさが込み上げてくるのを感じた。

琴未の前にそっとラムネを立たせて、僕は少し照れくさそうに口を開いた。

「こちらが友達のラムネだ。彼女は芸術家だ。造形美術をやっている。おなじ芸術家として、演奏家の仕事を見てみたいということで来たんだ。今日のアシスタントもやってくれた」

ラムネは少し控えめに微笑んでうなずき、軽く頭を下げた。

すると琴未も、まるで舞台の上で挨拶するように両手を揃えた。

彼女が軽く頭を下げたとき、柔らかな光がラムネの横顔をかすめ、その表情を少し和ませた。

「ラムネこと一条佐知子です」

この名前を口にした瞬間、僕は意表を突かれたように、しばし立ち尽くした。

彼女の本名を聞いたのはこれが初めてで、あまりにも親しげに「ラムネ」と呼んできた自分が、急に妙に場違いに思えた。

僕が驚いている様子に気付いたのか、琴未が丁寧に自己紹介を返した。

「わたくしは城田琴未と申します。今日はありがとうございました。先生には大変お世話になっております」

その口調がまたあまりにも礼儀正しく、先生と呼ばれたことに思わずラムネがぷっと噴き出した。

思いがけない笑い声が、ふたりの緊張をすっとほどいた。

「先生ちゃんとやれてます? いつもはただの酔っ払いですよ」

言葉に隠せない茶目っ気に、琴未は少し笑いながらも、真剣な目で僕に目を向けていた。

ラムネの冗談をどこまで受け取っているのかはわからなかったが、彼女の目は何かを伝えたくて熱っぽく光っていた。

「先生のおかげでここまでこれたと大変感謝しています。大げさには言っていません。本当に先生のおかげなんです」

琴未の透明な言葉が、ラムネにも、そして僕自身にも何かを突き刺すようだった。

彼女はその美しい瞳をこちらに向けるようにして、真っ直ぐな気持ちを表しているのだが、光を失っているがゆえに、かえってその純粋さが際立つように思えた。

けれど、ラムネはまだ微笑を浮かべ、どこかからかうように続ける。

「先生はやさしいですか」

「ええ、とっても。先生のピアノ教室がもうからないのが不思議なくらいです」

彼女の素直な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。

頭をかきながら、少し照れくさそうに顔を赤らめて言い返した。

「実は依頼が殺到して対応しきれないくらいなんだ。琴未ちゃんのおかげで。でも生徒さんを取捨選択できるような身分じゃないから困ってしまって」

「ね。この通りおやさしいんですよ」

琴未はにこりと微笑んだ。光を映さない澄んだ瞳が僕をまっすぐ見つめている。

その素直な笑顔が、まるで自分のなかの迷いや悩みをも癒すように柔らかく、暖かい光を放っていた。

ラムネは僕と琴未のやりとりを見つめ「貝渕さんらしいなぁ」という目で、少し感慨深げに僕を見た。

その目には、僕が自分では気づいていないような一面を理解したかのような、温かい視線があった。

   76

動画はエックスエンターテインメントのスタッフの手で丁寧に編集され、洗練された映像となって公開された。

それはプロダクションの第一弾アーティストとしての記念すべきデビュー作であり、公開までには神経をすり減らすような緊張感があった。

念のためコメント欄は封鎖された。

琴未の才能が注目を集めることは確信していたが、世間には炎上という予期せぬ災厄も潜んでいるからだ。

動画がアップロードされると、その反響は予想を超えるものだった。

再生数は見る見るうちに増え続け、日本国内はもちろん、海外からも琴未の音楽が好意的に受け止められている様子が伝わってきた。

SNSをやっていない琴未の代わりに、川崎と不犬斗が反応を逐一チェックしていたが、コメント欄が閉じられていることで誹謗中傷が直接琴未に届く心配はなかった。

動画の成功は新たな波紋を広げていった。

なんと、イギリスの音楽番組から出演のオファーが舞い込んだのだ。

その知らせに、彼女が日本のみならず、世界でも評価され始めていることが実感となって押し寄せてきた。

琴未と母の茂子は、久々に心からの笑みを見せ、新たにパスポートを取得して、旅と演奏を兼ねた数日間を楽しんだ。

帰国したときの彼女の顔には、少しばかりの自信と新たな経験による輝きがあった。

その後、琴未の海外での出演が密着取材として日本の公共放送で特集されることとなり、彼女の人気はさらに高まっていった。

映像には、楽屋で髪やメイクを整えながら楽譜を眺める様子、右手の欠損した指を念入りにマッサージされている姿が、丁寧に映し出されていた。

普段の私服でピアノに向かい、片手ずつ指を滑らかに動かし、左手と右手が交差するように運ぶ練習をする様子。

難しいタイミングでペダルを踏むその足元がクローズアップされ、彼女の卓越した技術と、細かな気遣いが視聴者にリアルに伝わってきた。

不意に映し出されたのは、僕がインタビューを受ける場面だった。

少々緊張して語った自分が、画面のなかでどこか誇らしげに音楽について話している。

いま改めて映像を見返すと、偉そうに映っていないかと居心地が悪くなり、自己嫌悪に駆られた。

もしかすると、海外からの反響の良さに気を良くして、知らず知らずのうちに自信過剰になっていたのかもしれない。

これからはさらに謙虚な態度で振る舞わなければと、心に言い聞かせた。

こうして少しずつ琴未への批判的な声も薄れていった。

世界で評価されるようになったことで、世間の印象もずいぶんと変わったのだろう。

彼女を擁護する声も増え、日本だけでなく海外にも「推し」として琴未を支持する人々が現れ、応援が一つの流れとなって広がっていったのだ。

琴未が表現する音楽が、彼女の真摯な姿勢が、少しずつ人々の心に浸透していき、彼女の周囲には温かな支持の輪が広がっていった。

不犬斗は「琴未ちゃんはすごいよ。気力と努力で評判をひっくりかえしてしまった。残念ながら僕は仕事で海外には行けなかったけれど、機会があれば琴未ちゃんと写真を撮らせてくれよ。もう僕にとっては完全な推しなんだから」と楽しそうに言った。

彼の声の端々には、心から琴未を応援する温かさが滲んでいた。

その騒動が一段落し、穏やかな日々が戻ったある日、母が僕に不安げな顔で話を切り出した。

   77

小さなキッチンの隅に腰を下ろし、ため息交じりに言葉を探しながら、いつもの優しいが少し疲れた表情を僕に向けてきた。

「あんた、人間ドックを受けてみないかい」

母は、僕の腎臓に異常が見つかって以来、健康について何かと心配している。

それが積もり積もって、こうして強い口調に出ることもあれば、静かに懇願のような形になることもあった。

フリーランスの僕には職場の健康診断はない。

母の様子を見て、僕は人間ドックを受けることに決めた。

どうせならと、10万近い費用のかかるフルコースを選び、高校のときから付き合いのある先輩の病院で受けることにした。

病院の待合室には不安と期待が入り混じる患者たちが座っていた。僕もそのなかで淡々と順番を待ち、そして診断を受けた。

酒のせいで肝臓の数値が多少悪い程度だろうと高をくくっていたが、その楽観的な予想はあっけなく覆された。僕の診断結果は、まさに「死の宣告」だったのだ。

「貝渕くん。もう長いつき合いだからハッキリいうよ。もうだめだ。あと1年、いや、1年生きられるかどうかもわからない」

診察室の窓から差し込む冬の日差しが白々と病室の壁に反射し、冷たい光が漂っていた。

医師の告げた言葉は重く冷たく、しかし僕の心を真っ暗にはしなかった。

死が訪れるのを感じたところで、なぜか平然としていた。

腎不全のときに半分死を経験したせいか、いまさら死の恐怖もない。

ただ、その「1年」という期限が、僕にとってはどれほどの意味を持つのか、判断がつかなかった。

少し肩をすくめながら「さんざんやめろっていわれてた酒をやめなかったんですから仕方ないでしょう。僕は今日も飲みますよ。明日も」と軽く言ってみせた。

「もう好きにしたらいいよ。ここまできたら我慢するほうが毒だ」

その言葉に、医師は少し苦笑を浮かべたが、どこか諦めのような、長年の付き合いが見せる理解も感じられた。

僕は医師の言葉を背中に感じながら病院を後にした。

曇り空の下、冷たい風が吹きつけてきたが、なぜか僕は異常に気分がよかった。

自分の人生に締め切りができたことで、心がどこか軽くなったのかもしれない。

もう締め切りのあとに、また別の締め切りがやって来ることはないのだ。

これからどうやって生きていくべきか。

限られた時間のなかで、何を大切にし、誰を想って生きていくべきか。

それを考えると、胸が踊るようだった。

僕はこの事実を母には伝えないと決めた。

彼女に告知すれば、どれほど彼女が参ってしまうか、想像に難くなかったからだ。

家族には伝えず、本人だけに告知する。

古いしきたりに囚われるのではなく、自分が選び取ったやり方で生きる。

それが僕の考えだった。

自分の残された人生をどう生きるか。

答えはすぐに浮かんだ。

ひとつは琴未を真のピアニストとして育て上げること。そしてもうひとつは、ラムネとともに残りの時間を過ごすことだ。

先日の琴未との一瞬のキスで、僕ははっきりと気づかされた。

最期のとき、そばにいてほしいのはラムネだ。

その気持ちをどう伝えるべきか数日悩んだが、僕はついに意を決してラムネに打ち明けることにした。

   78

「おーいラムネ」

僕は、またしても不意にアトリエを訪ねた。

夜の闇が降りかけている時間で、周囲は薄紫の静寂に包まれていた。

アトリエの扉を開けると、ペンキのにおいがふわりと漂ってきた。

部屋の中央に立つ書き割りのような板に筆を走らせるラムネの姿が、ペンキの匂いとともに浮かび上がった。

彼女の少しだけ肩にかかる髪が、うっすらと湿気を含んで揺れていた。

「貝渕さーん。またどうして」

ラムネが驚きの表情を浮かべ、軽くひと深呼をするようにして僕のほうを振り返った。

部屋の薄暗い光のなかで、彼女の顔には疲れと集中が同時に浮かんでいた。

色塗りに没頭していた様子が、まだその表情に残っている。

「今夜一緒に飯食わねぇか」

僕は少し笑って誘った。

しかし、彼女の顔にわずかな戸惑いが浮かんでいた。

「あいにく今夜は予定が」

そう言って再び刷毛を持つと、ラムネは薄いペンキの層を慎重に塗り広げた。

彼女は手慣れた様子で、淡々と灰色の板の上を滑っていく。

細かな刷毛使いが、彼女の集中力の深さを表していた。

「そっか。一刻を争う非常に大事な用事があったんだけどな」

僕は肩をすくめ、わざと冗談めかした口調で言ったが、彼女はペンキを塗る手を一瞬止めて顔を上げた。

「そういわれると断りづらいけど……ある美術館から、個展を開かないかって話があって、その打ち合わせに」

彼女の目が、いつも以上に輝いているように見えた。

わずかに赤みを帯びた頬が、興奮を抑えられない様子を物語っていた。

アトリエの薄明かりがその顔を優しく照らし、彼女の表情はどこか輝いていた。

「おーそりゃすごい。それならオレの予定なんか断るべきだ。うまくやってきなよ」

心からの祝福を込めて言うと、彼女は少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに微笑んだ。

その顔に浮かぶ誇らしげな笑顔が、なんとも愛らしく思えた。

「ありがとうございます」

彼女の声が、温かく柔らかな空気となって、僕の胸に染み込むようだった。

ふと思い出して、少し尋ねるように言葉を続けた。

「そうだ。先日オレがよく飲みに行くあたりのホテルに入らなかった?」

僕の問いかけに、彼女は目を瞬かせて驚いたようだった。

「なんでしってるんですか」

その表情に戸惑いが浮かび、少し頬が赤らんだのが見えた。

「たまたま通りかかったんだよ」

僕は口のなかでくすくすと笑い、少し照れ隠しのように答えた。

「友達5人で女子会やってたんですよ。ラブホ女子会って流行ってるんですよ。フードは充実しているし、リラックスできるし、めっちゃ楽しいですよ」

少しおどけるように言いながら、彼女は身振り手振りを加えた。

その無邪気な説明に、僕の心は不思議と安心に包まれた。

「そうかそうか。じゃあ最後にクイズだけやってくか」

どこか安堵した気持ちで、つい軽い冗談を口にした。

「クイズ?」

「いま何を作ってるでしょうかってアレよ」

僕は彼女の作業台の上にある灰色の板を指さした。

「あ、ああ。このいま塗ってる灰色の板」

「そう」

「な、何を作っているでしょーか」

彼女は楽しげに顔を輝かせ、少し身を乗り出した。

「民家」

僕の即答に、彼女は一瞬驚いたようにしてから微笑んだ。

「なんでわかったんですか」

目を丸くして驚く彼女に、僕は横にあった材木を指して見せた。

「それ、屋根に使う垂木だろ。じゃあな。また改めて来るよ」

そう言って軽く手を振り、僕はアトリエをあとにした。

背後からは、彼女が「また来てくださいね」という柔らかな声が聞こえた。

その声が、アトリエのペンキの香りとともに心に残り、僕の帰り道に静かに響いていた。

   79

冷たい夕暮れの風が肌に触れると、少しだけ背筋が寒気に包まれた。

すっかり暗くなった街の明かりを背にして、僕は自分の足音を聞きながら、城田家へと向かった。

夜の静寂が家全体を包むなか、僕は城田家の玄関先で茂子に深く頭を下げた。

窓の外にはかすかに月の光が差し込んでおり、琴未の部屋からもわずかに寝息が聞こえる。

こんな夜分にお邪魔してしまうことを申し訳なく思いながら、僕は心を決めて話を切り出した。

「夜分にすみません。これからいうこと、琴未さんには、伝えないでほしいんです」

低く響く声が、自分でも驚くほどしっかりしていた。

しかしその裏で、伝えなければならない重みがずしりと胸にのしかかっていた。

茂子は少し驚いた表情を浮かべながらも、頷いてくれた。

「はい。承知いたしました」

彼女の目には、先ほどまで琴未の寝顔を見守っていた母の柔らかさが残っている。

僕は心を決して、言葉をつなげた。

「先日、病院で検査の結果、わたしは肝臓ガンに侵されていることがわかりました。余命は1年未満です」

茂子の顔が一瞬にしてこわばった。

彼女は深く息を吸い込み、その言葉の重さを受け止めているようだった。

僕は静かにその様子を見守った。

「親御さんにはお伝えしたのですか」

彼女の声は震えていたが、慎み深くも気遣いのこもった問いかけだった。

僕は苦笑し、月明かりの下で顔を少し上げた。

「母には伝えていません。今後も伝えないつもりです。ああ見えて、弱い人間ですから。刻々と迫る死期を受け入れられるとは思いません」

言葉にするたびに、胸の奥でその事実が冷たく広がるように感じた。

茂子はしばし僕の言葉を飲み込み、さらに静かに口を開いた。

「立ち入った話になるようで失礼ですが、お父さまには」

その瞬間、僕は少し目を伏せ、顔をそむけた。

「ああ、父ですか。父は昨年他界しました」

茂子の顔に驚きと同情の色が浮かんだ。

彼女の細い手がぎゅっと交差し、胸の前で静かに重ねられた。

「そうでしたか、存じ上げなかったとはいえ失礼いたしました」

その言葉の響きが、夜の静けさのなかでいっそう悲しげに感じられた。

僕は無理に笑顔を作りながら、続けた。

「いや、構いません。難病のパーキンソン病にかかって、身体の自由がきかなくなりましてね。施設に入ったのですが、その施設内で食べ物を喉に詰まらせて、あっけなく死んでしまいました。事故扱いになって警察が入って、面倒でしたね」

言葉が出るたびに、当時の慌ただしい感情が胸をよぎる。

茂子の目は潤んでいたが、彼女は僕の話にただ耳を傾けてくれていた。

「お父さまのことも貝渕さまのことも、あまりにも酷な事実で、まだ受け入れられないのですが。貝渕さんには、返そうと思っても返しきれないご恩があります」

彼女の言葉には、深い敬意と感謝の念がにじんでいた。その言葉に、僕はかすかな微笑みを浮かべた。茂子の母が見せる尊敬の念に、僕の心は温かさと切なさに包まれた。

「それはもう月謝でいただいていますよ。その言葉をいただけただけで十分です」

僕の声は穏やかに響いたが、その言葉の裏にはどこか満たされたような、そして達観した感覚があった。

茂子はしばらく静かに僕を見つめ、その瞳には、僕の覚悟をしっかりと受け止めてくれたような温かさが宿っていた。

1日が終わると、体にどっと重みがのしかかるような疲れが襲ってきた。

頭のなかで、やり残したことや取り留めのない雑念が渦巻き、心が妙に騒がしかった。

それでも、これ以上考えても仕方がない、と諦めたように布団に潜り込んだ。

仰向けに横になり、天井をじっと見つめる。

夜の静寂が耳に重く響き、どこか遠くで風の音がわずかに漏れ聞こえる。

そんな音に包まれながら、僕は眠気が訪れるのをただ待つことしかできなかった。

それでも目を閉じてみたものの、眠気はどこかで道草を食っているらしく、やってくる気配はなかった。

ぼんやりと頭のなかでいろいろな思考が交錯し、いつしか夢の世界と現実の間を行ったり来たりするような感覚に陥った。

遠くに誰かの呼ぶ声が聞こえるようでもあり、けれど近づけば消えてしまうような、その不確かな音に惑わされる。

妙に懐かしいような場所や見知らぬ街の風景が頭のなかにあらわれては消え、僕はそのイメージを追いかけていたが、つかめない蜃気楼のようだった。

そんなとき、不意に、自分の死体が目の前に横たわっているのを見つけた。

ひんやりとした白い肌、無機質な表情で横たわる自分自身。

現実離れしたその光景に僕はただ立ち尽くし、声を出すこともできなかった。

何とも奇妙な感覚だったが、その瞬間、僕の意識は遠ざかり、闇のなかに吸い込まれていくようだった。

気づけば、ようやく深い眠りに引き込まれたらしい。

夢も現実も区別がつかないような、底のない暗闇のなかで、ただ心が漂っていた。

   80

数日後、約束通り、僕はラムネのアトリエを訪れた。

晩秋の冷たい風が頬に吹きつけ、アトリエの入口に立つと、少し湿気を帯びた空気が迎えてくれる。

いつも彼女がいるはずの作業場は静まり返り、彼女の気配がないだけでこんなにも空虚になるのかと胸に寂しさが広がった。

アトリエのなかを見渡すと、塗りかけのキャンバスや彫刻のかけらが無造作に散らばっており、それらの一つひとつが彼女の存在の痕跡のように見えた。

元々事務所だった1階の部屋に入ると、ラムネがコーヒーを淹れていた。

香ばしい香りが薄暗い空間に満ちていて、僕の心に一瞬の安らぎをもたらす。

「あ、貝渕さん、おはようございます」

彼女の声が僕を包み込む。

僕は「おはよう」と返し、彼女が差し出してくれた淹れたてのコーヒーを口に含んだ。

温かさが喉を伝い、冷えた体に染みわたるようだった。

「きょうはすごく大事なことを伝えに来たんだ。おっと、その前に。個展は大盛況だったね。実はオレも行ったんだよ」

「そうなんですか。言ってくれれば招待枠で入れたのに」

彼女の声に、少しの驚きと柔らかい喜びが混じる。

「自分の財布を痛めて行くからいいんだよ。払ってよかった、という気分になるからね」

「そういうもんですかね。ちなみに、今度雑誌にも取り上げていただけるそうで、本当にやってよかったと思ってます」

彼女の顔には、初めて評価を受けた人間の純粋な喜びが浮かんでいる。

それは見ているこちらまで胸が温かくなるような表情だった。

「素晴らしいね。オレは生きているうちには何も残せそうにないよ」

僕は、少しだけ冗談交じりにそう言ったが、その言葉の奥にある真意を、彼女には感じ取られていたかもしれない。

彼女の表情が少し曇った。

「まだまだ24歳じゃないですか。十分に時間はあります」

「それがね、ラムネ。実は先日、人間ドックを受けてね。そうしたら肝臓にガンが見つかったんだよ。医師の診断では余命1年。場合によっては1年持たない可能性もあるそうだよ」

一瞬、静寂がアトリエ全体を支配した。

彼女の顔から血の気が引き、コーヒーカップを持つ手が震えたのが見えた。

   81

「嘘ですよね。だっていまもピンピンしてるじゃないですか。琴未ちゃんとのことに決着をつけて、あたしを迎えに来てくれるんじゃないんですか? 勝手な思い込みだけど、あたしは信じていたんですよ」

彼女の言葉が胸に突き刺さる。

僕の口から、彼女に向かって思いの丈が自然にこぼれ出た。

「その話なんだが、琴未ちゃんへの思いは、音楽の情熱を恋と勘違いしていただけだと判明した。オレが好いているのは、ラムネだ」

彼女はしばらく言葉を失っていた。

そして、信じられないような顔で僕を見つめた後、うっすらと微笑んだ。

「じゃあ良い知らせと悪い知らせを同時に持ってきたんですね」

彼女の微笑みがかすかに揺れ、涙が浮かんでいるのが見えた。

僕は彼女に伝えたことの重さを感じつつも、心が静かに満たされているのを感じていた。

「申し訳ないけど、そういうことになる。エコーも腫瘍マーカーもやった。もちろんCT、МRI検査もやった。どこからどう見ても肝臓ガンだったよ」

僕の言葉が静かに部屋に染み込むように広がり、やがて彼女もその言葉を受け入れたのか、深くうなずいた。

その瞬間、彼女と僕の間に、言葉では表現しきれない、確かな絆が生まれたように感じられた。

ラムネは膝をがっくりと崩し、床にぺたんと座り込むと、そのまま大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。

最初はすすり泣くように肩を震わせていたが、やがて嗚咽が込み上げてきて、泣き声が部屋中に響き渡った。

彼女は自分の腕を抱きしめ、まるで全身で痛みを押し込むようにしゃくりあげていた。

涙とともに激しい悲鳴のような音が込み上げ、ひとつふたつと嘔吐するような音が交じり、ラムネは泣き止んだかのように、子供が母親を求めて泣き叫ぶかのようなか細い声をあげた。

ラムネの体は激しく揺れ、その口元にはうめくような音があふれ、むせるように声を押し殺しながらも、止まることのない涙を流し続けていた。

まるで心の奥深くから出てくる絶望の叫びのようで、僕の胸に鋭い痛みが走った。

こんな痛々しい姿を見せてしまうくらいなら、いっそ事実を告げないほうがよかったのではないかと、瞬間的に後悔がこみ上げてきた。

「オレがともに余生を送りたいのは、ラムネだ。オレが死に際に会いたいのは、ラムネだ」

僕がそう言うと、ラムネはさらに大きな声をあげて泣き出した。

彼女の嗚咽が部屋の隅々まで染み込むようで、僕の心は深い海の底に沈むように重くなっていった。

僕は自分の言葉で少し楽になったような気がしたが、彼女がどれほどの衝撃を受けているかを感じるたびに、その安堵すら後ろめたく思えた。

ラムネはしばらくの間、泣き続けていた。

時間が止まったかのように、ただ彼女の悲しみの音だけが部屋を満たしていた。

そして、ようやく泣き疲れたように静かになった彼女の瞳は、まるでビー玉のように澄んで、潤んだままのまばゆい輝きを湛えていた。

涙で濡れたその頬が、かすかに頬の光を反射して、小さな光の筋が僕の胸に差し込むようだった。

僕はそっと彼女を立たせ、膝についた砂や埃を丁寧に払った。

何も言わずに、ラムネの顔に残る涙を静かに指で拭い取ると、もう何も言わずに、彼女をそっと抱きしめた。

   82

家の薄暗い部屋で、僕は黙々とプログラムを書いていた。

外は冷たく重い雨が降りしきっていて、窓を叩く音が時折激しく響いてきた。

天気予報は夕方からみぞれか雨が降るかもしれないと言っていたが、どうやら予報は的中し、今や一層冷たさを帯びた土砂降りの雨が暗い空から容赦なく降り注いでいた。

部屋のなかも雨の湿気に包まれ、どことなく重苦しい空気が漂っていた。

僕はカタカタとキーを叩き、集中しようとするのだが、雨の音が意識を引き戻していた。

そんな時、不意に電話が鳴り、僕は手を止めた。

画面には「不犬斗」と表示されていた。

彼からの電話はいつも突然だが、それがまた彼らしい。

やれやれと息をつきながら、僕はゆっくりと受話器を取った。

「琴未ちゃんのことについてだが、表向き、ほとんどは好意的な意見だ。ただ、クラシックの掲示板でだけは、こき下ろされてる。まずは編曲家が悪い。あの貝渕という男を見るだけで腹が立つ、琴未ちゃんに手を出してるんじゃないか。あんな奴早く追放して、海外の著名な編曲家でもつけてやれば琴未ももっと成長するのにな、なんて。ひどいよ本当に」

彼の言葉は静かな怒りに満ちていた。

それをただ聞いているだけの僕は、雨音がさらに耳に響くのを感じた。

電話の受話器の向こうで、彼が言葉に苦々しさを滲ませていることが、肌に伝わってくるようだった。

「そうか。勝手なもんだな」

僕はそう言ったが、胸の内は冷たい手で掴まれたように痛んでいた。

イギリスの番組であれほどの成功を収め、琴未が世界から称賛を受けたあの夜が、今は遠い夢のように思えた。

日本では、どれほど努力を尽くしても、無理解や嫉妬が押し寄せるだけの虚しい戦いが待っているのかと考えると、胸のなかに暗い影が広がっていった。

「オレにはもう正直、自信はないよ。オレは琴未の足を引っ張るばかりの存在なんだ」

言葉を発するたびに、その冷たい雨が僕の心のなかまで降り注いでくるような気がした。

雨は一層強く、窓の外を曇らせ、街をさらに暗く、孤独に染めていく。

琴未のために全身全霊を捧げたつもりだったのに、その思いが足りないと嘲笑されているような、そんな痛みに僕は胸を締めつけられていた。

僕は、家を飛び出るようにして外へ出た。

   83

傘を持たぬまま、土砂降りの雨のなかを、ただ無心に歩き始めた。

頭上に降り注ぐ雨粒が顔に触れる感覚も、靴底に溜まる水の冷たさも、いまの僕にはなんの感慨ももたらさなかった。

思えば、あの時だった。

スズメにエサをやっていたとき、琴未親子を見かけたのがすべての始まりだった。

琴未の瞳は、まるで焦点を失ったような、虚ろな目つきをしていた。

その後、彼女たちは僕の教室の門戸を叩き、盲目であり、指が欠損していることを告げられた。

その告白に接したとき、僕は内心の動揺を覚えたものの、困難な仕事であることを承知の上で、レッスンを引き受けたのだ。

琴未がその不自由な身体でベートーヴェンを演奏するためには、僕はひどく慎重にアレンジを施さねばならなかった。

決して音楽に対する冒涜とならぬように。

しかし、それは思いのほか楽しい作業だった。

困難であるがゆえに、挑戦する価値があり、彼女の成長を目の当たりにするたびに、僕は確かな充足感を覚えた。

そして今、琴未は数多くの人たちに認められ、ピアニストとして成功の途上にある。果たして僕は、何か間違っていただろうか。

川崎も真央も、不犬斗までもが僕を励まし、僕は最善を尽くしたのだ。

誰一人として、僕を責めることなどできないはずだ。

しかし、それでも時折、心の片隅に漂う疑念が、僕を苛む。

いっそ琴未親子と出会う前に戻って、ただ作曲に打ち込みながら、細々とした副業で食いつなぎ、貧窮のなかで生きていたほうがよかったのではないかと。

だが、もしその道を歩んだとしても、果たして本当に幸福だっただろうか。

あてのない創作の苦しみにのたうちまわり、出口の見えぬ葛藤に身を投じるだけで、いずれ心身ともに疲れ果てていたに違いない。

そう思うと、やはり僕には現実を受け入れ、このまま進むしかないのだと、結論づけるより他に道はなかった。

雨は衣服にどんどん染み込み、次第にそれが重たくなってきた。

しかし、その重さが、むしろ妙に心地よくさえ感じられた。

雨のなかを歩いているという、この現実が、なぜか滑稽で愉快に思えてくる。

やがて雨はみぞれに変わり、冷たさが骨にまで響くころには、僕は全身を震わせながらも、大通りの方へと足を向けて歩き続けていた。

倒れ込んだその瞬間、僕の体は冷たい石畳に吸い込まれるように沈んでいった。

大通りのざわめきが遠くに聞こえ、何もかもがぼんやりとした膜に覆われていくようだった。

目を開く気力も残っておらず、微かな声がどこか遠くで響くのを感じた。

「貝渕さんじゃないですか!」

その声は確かに僕を呼んでいた。

大声で、必死に。

身体の奥底で何かが引っ張られるような感覚があったが、僕にはもうどうすることもできなかった。

「今日が雨なら、打たれ濡れてもいい。明日が雪なら、やさしい白さに目を閉じればいいって歌詞があるんだよ……」

その声が揺れ、遠ざかり、ついに僕の記憶は暗闇のなかに途切れていった。

   84

気がついたとき、僕は見覚えのある小さな部屋にいた。

ラムネのアトリエだと分かったのは、薄暗い部屋の片隅で、古びた木枠に囲まれた絵が並んでいるのが視界の端にぼんやりと映ったからだった。

毛布が僕をしっかりと包み、近くには赤く灯るストーブが、かすかに揺れる影を壁に映していた。

薬缶がストーブの上で静かな蒸気を立て、部屋にはかすかな温もりが満ちていた。

「ラムネ。いるのか」

かすれた声でそう呼ぶと、部屋の奥から小さな足音が近づいてきた。

ラムネは赤い目をして僕のそばに立ち、唇を震わせながらゆっくりと顔を上げた。

「死んじゃうんじゃないかと思いましたよ」

その声には怒りと、そして涙が交じっていた。

彼女は言葉のひとつひとつを絞り出すようにして、苦しげに僕を見つめた。

「僕をここまで運んできてくれたのか。ありがとう」

僕の口から出たその言葉は、わずかな声で部屋の空気に溶けていった。

彼女はそれを聞きながらも、何も返さなかった。

代わりに、大粒の涙が頬を伝い、肩が小刻みに震え始めた。

「こんなことしたら、身体が弱って、ますます死が近くに……」

ラムネは言葉を噛みしめるように言った後、突如としてその感情を抑えきれずに泣き出した。

彼女のすすり泣きが静かな部屋に響き、僕は自分の胸が締めつけられるように痛むのを感じた。

彼女の悲しみが痛いほど伝わってきて、僕は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

「ごめん、こんな無茶はもうしない」

そう言うと、ラムネは僕に背を向けるように顔を逸らした。

彼女の肩はまだ小刻みに震えていた。

その肩がゆっくりと動くと、ラムネは僕の方に向き直り、次の瞬間、僕の頬に平手打ちをした。

ぱしん、と鋭い音が部屋に響き、僕はその痛みを、まっすぐに彼女の怒りと悲しみを受け止めるように感じた。

僕は何も言わず、ただうつむいた。

「……雨に濡れながら、これまでの人生を振り返ってみたら、まだやってないことがあることに気がついたんだ。琴未に、自分のオリジナルを弾いてもらうことだ。僕はずっと彼女をクラシックのピアニストとして育てることを第一に考えてきた。でも、オリジナルのレパートリーがあっても良いのではないか。そう思うようになった。そう思うようになったのは、ラムネの影響だ。君はいつだってオリジナルで勝負している。僕もオリジナルで勝負したくなったんだ」

   85

僕は静かな部屋に一人、ピアノの前に座り、オリジナル曲を作るために集中していた。

夜も更け、周囲の音がすっかり消え去り、まるで世界に自分しかいないかのように感じられる孤独な空間が広がっていた。

そんな時、不意にピアノの鍵盤が冷たい感触をもって指先に伝わり、ふと、どこかに閉じ込められたような圧迫感が胸に満ちてくる。

曲作りは途方もなく困難な作業で、どの音を紡いでも、どこか満たされぬものがあった。

頭のなかで想像する音と、実際に鳴らす音の間に、どうしても越えられない溝があるように感じられた。

思うように進まぬ苛立ちを抑えつつ、音符をひとつひとつ拾い上げるように探る。

譜面に書かれる音符はすぐに線を埋め尽くし、その横にまた次の旋律が流れ始めるが、どれもどこか欠けている。

やがて、夜が明けるころ、窓の外にぼんやりと朝の光がさし込んできた。

僕は夜を徹して作業したにもかかわらず、満足いく形に辿り着けぬ焦燥感が増すばかりだった。

寝付けない夜が重なると、目の前にあるピアノがますます遠く見え、音の重みが増していくかのようだった。

それでも、僕のなかにどうしても手放せない音が鳴り続けていた。

苦しみながらも、その音を探し出し、形にするまでは眠れない――そう思いながら、再び冷たい鍵盤に手を伸ばした。

   86

琴未のレッスンの日、僕はやや緊張しながら、オリジナル曲について彼女に話し始めた。

さりげない言葉に隠したつもりだったが、内心は期待と不安でざわついていた。

「先生のオリジナル曲を演奏できるなんて素敵です。ぜひ弾かせてください」

琴未の声は弾むように軽やかで、言葉の端々に喜びが宿っていた。

彼女は視線を僕に向けているのだが、わずかにずれた方向にその瞳が輝いていた。

光を宿さないその目は、けれども見えないはずの光景にまで手を伸ばすように強く、きらきらと輝いていた。

「そういってくれて良かったよ。実はかなり不安だったんだ」

僕は心底ほっとしていた。

彼女の反応に背中を押されるようにして、ふと安堵の笑みが浮かんだ。

琴未の希望に応えるように、僕はピアノの前に腰を下ろし、何気なく指を鍵盤に置いた。

白と黒の鍵の上に手が馴染むと、自然に音が紡がれはじめ、指先が曲の最初の旋律を静かに奏で出した。

まだ未完成の曲だったが、空気のなかで一つひとつの音が柔らかく連なり、空間に響き渡る。

数分の演奏が終わり、僕が振り返ると琴未が感嘆の息を漏らしていた。

「先生すごい! ちょっとわたしにも弾かせてください」

そう言うと、彼女はその場で軽く微笑んで椅子を立ち、僕と場所を交換した。

再びピアノの前に座った彼女は、手を鍵盤に乗せ、耳だけを頼りに僕の演奏をほぼ完璧に再現し始めた。

その音が、見事に楽譜の意図を掴み取っていて、僕は彼女の聴覚の鋭さと表現力に息をのんだ。

「指欠損のことを完璧に考えて作られていますね。自然で弾きやすい……」

琴未は柔らかく微笑みながら、心底驚いたように僕を見た。

その微笑みのなかに彼女の温かい感謝と驚きが滲んでいるのが感じられた。

「そういってもらえて嬉しいよ。制限のある自由、そのなかで作るのは大変だったけど、最終的に琴未ちゃんが弾くことを考えたら、楽しくなってきた」

彼女は少し顔を上げ、目の前の見えない空間に向けるようにしながら答えた。

「つぎのコンサートがあれば、ぜひ弾かせてください」

その響きに、彼女の意思の力強さが込められているのを感じた。

次のコンサートで巨匠たちの楽曲に混じり、このオリジナルの一曲が流れる。

それを想像するだけで胸が高鳴った。

その晩、僕は自室で一人、眠れぬまま朝を迎えることになった。

   87

川崎が突然「バーベキューをやろう」と言い出した。

「え。もう12月だぞ」

「まあ、親睦会のようなもんだ」

冬の冷たい風が、枯れた木の枝をかすかに揺らしていた。

「名づけて狂気のバーベキューだ。貝渕と蟹江さん、琴未さんと茂子さん、ラムネちゃん、不犬斗でどうだ?」

「完璧なメンツだな。ぜひやろう」

僕は川崎の提案に快く応じた。

夏とは違う、冬の澄んだ空気のなかでみんなと集まるのも、案外悪くないと思えたのだ。

数日後、鳳凰館と呼ばれる川崎の事務所の砂利敷きの庭で、僕と川崎は寒空の下でバーベキューの準備を始めた。

雪こそ降らなかったが、重い雲が空一面を覆い、冬の重々しい静けさが周りを包んでいた。

二人で一斗缶を持ち出し、電動工具で穴を開けたり、ブロックを積み上げて焚き火用の炉を作った。

焼き網や炭を調達し、火をつけるためにガスバーナーまで用意した。

冬のバーベキューでは、ひとたび火がつかなければ、たちまち凍える思いをすることだろう。

僕たちはホームセンターで買い出しを終え、庭の隅に古びたキャンプチェアを引っ張り出し、まるで小さなキャンプ場のような光景を整えた。

   88

庭には、砂利を踏む足音だけが響き、冷たい風が時折髪を揺らした。

最初に到着したのは不犬斗だった。

彼は早くから写真撮影のセッティングをしたいらしく、大きなカメラを構えてあらわれた。

しきりに光の加減や位置を確かめている様子に、僕と川崎は顔を見合わせて少し笑った。

やがてラムネが現れ、寒さに肩をすくめながらも楽しそうな顔で庭のなかに入ってきた。

彼女は滅多に身につけないウールのストールをぐるりと巻きつけ、頬が寒さで少し赤く染まっていた。

ラムネが駆けつけて、うっすらと息が白く吐かれた。

その後、遠くから軽快な足音が聞こえ、琴未と茂子も到着した。

琴未は少し厚めのコートに包まれ、茂子に手を引かれて慎重に歩いてくる姿が微笑ましかった。

一堂が揃ったときには、あたりがほの暗くなりかけていた。

   89

僕と川崎は火起こしに取り掛かり、ようやく勢いよく立ち上る炎が、冷たい空気のなかで揺らめき始めた。

「では揃ったところで、まずは乾杯しましょうか。各々用意したドリンクをお持ちいただきまして……いいですか? それでは、乾杯」

「かんぱーい」

周りからプラスチックカップが打ち合う軽い音が響き、わずかに冷たい空気に乾いた音が混じり合った。

冬の空気が澄んで、遠くの住宅地の光が静かにこちらに届いてくるようだった。

僕は慣れた手つきで炭に火を入れ始めた。

じりじりと燃え始める炭が白い灰に変わり、赤い炭火が輝くのを待った。

鳳凰館でのバーベキューは、これまで何度もやってきた行事だったが、今夜はどこか特別な気配が漂っていた。

長い年月を経て磨かれてきたようなこの場所が、今日もまた温かく僕たちを迎えてくれる。

焼き網の上には牛肉や鶏肉のいろいろな部位が並べられ、香ばしい匂いが漂ってきた。

肉の焼ける音が心地よく耳をくすぐる。

時どき風に乗って煙が上がり、そのたびにみんなが顔をそむけては笑い合った。

そして、ついにメインの海鮮焼きに取り掛かることになった。

市場で直接仕入れてきた新鮮なハマグリや車エビ、ホタテが網の上でじりじりと音を立てて焼けていく。

海水の塩分をまとったそのままの味わいが格別で、焼き立てのエビの殻がはじける音が、冬の冷気に包まれた夜の空気を彩った。

「おいしー」

ラムネが目を丸くして言った。茂子も口を覆いながら感嘆の声を漏らす。

「自然のままの味がこんなにおいしいとは思いませんでした」

不犬斗がカリカリになったエビの頭まで食べていた。

「ですよね。正直、僕は肉を焼くよりこっちのほうが好きですね」

僕は口いっぱいに海鮮をほおばり、もぐもぐしながら答えた。

   90

僕はふとした静寂の間を縫って「僕は、友人知人に、本当に恵まれていると思います。これから死ぬまでの間に、たくさんの素晴らしい経験ができると思います。今日、この回を発案したのは、川崎です。きっと、思い出のひとつとして、残せるイベントをやろうとしてくれたのだと思います。ほんとうにありがとう」と言った。

その言葉に琴未が無邪気に笑って「先生、もうすぐ死んじゃうみたい」と言った。

川崎が「そろそろやるか」と言うや否や、事務所の横からガラガラと大きな音を立てて廃材を引きずり出してきた。

適当に短く切られた木材が束になっており、その乱雑さがかえって火への期待を煽る。

僕たちは、その廃材を焚き火用の小さな炉に次々と放り込んだ。

すでに赤く輝く炭が入っていたため、木材に火がつくのは一瞬だった。

まるで生き物が息を吹き返すかのように、火の手は勢いよく広がり、やがて光が一気に天を貫くように立ち上った。

その光景は、日常から切り離されたように幻想的で、肌にじりじりと感じる熱が、冬の冷たい空気のなかで妙に現実的に感じられた。

川崎は、満足そうに笑みを浮かべながら、さらに廃材をくべ続けた。

炎はそれに応えるかのようにさらに勢いを増し、2メートル近くの火柱が立ち上った。

夜空を照らし出す大きな火は、遠くからでもわかるほど明るく、炉の周囲に集まった僕たちは、その光に包まれるようにして、肌に届く熱を感じていた。

その熱は、じりじりと肌を焼くようで、冷えた手や頬がほんのり赤くなるのがわかった。

火が近すぎて、時折視界がぼやけるような感覚さえあった。

焚き火を囲む僕たちは、いっそう火に引き込まれるような高揚感に包まれていた。

「琴未ちゃんに炎は見えないけど、この熱さを感じるとなんとなく失明前の感覚を思い出すんじゃないかな」

僕は焚火のなか心を見つめながらそう言った。

光のなかにあるときだけ、人は心の奥にある記憶や想像を再び掘り起こせるような気がした。

琴未は目を閉じ、少しほほ笑んで答えた。

「ええ。オレンジの光が見える気がするくらい臨場感にあふれています」

彼女の言葉が、僕の胸の奥に静かに響いた。

彼女の目にはもう映ることのないオレンジの炎が、彼女の心にだけ映っているのかもしれない。

それを思うと、火が彼女に語りかけているような気がした。

僕たちは、それぞれに思いを馳せながら、いつまでも燃え盛る火を見つめた。

火はその後も絶えることなく、ぼんやりとした赤色から青白い炎へと移り変わり、夜空に向かって煙を細く立ち上らせていた。

   91

そこで川崎が静かに立ち上がり、周囲に向けて「最後に…」と語りかけた。

その声は、まるでこの穏やかな夜に新たな風を呼び込むかのように響き渡った。

バーベキューの炭火の残り香が漂うなか、みんなが一瞬、彼の動きを見守る。

切り取られた夜空の下で、その一言がどんな発表をもたらすのか、誰もが息を呑んでいた。

川崎がゆっくりと視線を巡らせながら、続けた。

「この場で発表したいと思います」

静寂が訪れ、全員が次の言葉を待つ緊張のなか、木々がさやさやと風に揺れる音だけが耳に残る。

そして、川崎の言葉が落ちた。

「城田琴未ソロコンサートを開催したいと思います! しかもなんと、A響のオーケストラとの協演です! 琴未さん、ご出演いただけますか?」

その響きは、まるで湖面に小石を投げ入れたときのように、静かな波紋を全員の心に広げた。

琴未は不意打ちを食らったように唖然としていた。

思わず目を見開き、声を頼りに川崎のほうを向いた。

まるで自分の耳が信じられないかのように、少しずつ言葉を飲み込み、やがて微かに震える声で「や、やります!」と答えた。

彼女のその言葉が発せられた瞬間、全員が歓喜と祝福の眼差しを向け、興奮が爆発するように辺りを包んだ。

誰もが笑顔を浮かべ、口々に祝いの言葉を交わし合い、空気には心地よい活気が満ち溢れた。

琴未に向けられた温かな視線が、まるで一つの光の帯のように彼女を包み込み、彼女自身もそれに応えるように微笑んでいた。

そうして、ゆっくりと寒さが深まり、空気がしんと静寂に包まれた頃、みんなが名残惜しげにその場を後にして、バーベキューは静かに幕を閉じた。

   92

僕と琴未は、コンサート当日の曲目選びに向き合っていた。

夜の静けさのなか、目の前には楽譜の山が広がり、そこから一つずつ丁寧に曲を選び出しては配置を考える。

琴未の手が触れるたび、楽譜が紙音を立て、わずかな振動が伝わってきた。その小さな動作がまるで未来のステージに灯をともすような感覚を与えた。

すでに決まっているベートーヴェンと有名なピアノコンチェルト。

それをオーケストラと協演するという大舞台で、どう彩るべきか。

僕らは曲順を入念に吟味していた。

そして、僕が作った曲を組み込むかどうかという問題が残っていた。

それをアンコールに持っていくのか、それとも最初から組み込むべきか。

決めかねていたが、心は揺れるばかりだった。

このコンサートのために書いたオリジナルのコンチェルトは、苦悩の塊だった。

以前、琴未に書いたオリジナル曲を編曲したものだ。

取り組んでみると、想像以上に精神を削り取られるような作業だった。

管弦楽法を習い、オーケストラの編成にはある程度の自信があった。

しかし、ピアノコンチェルトを書くというのは、それとはまったく異なる挑戦で、あらゆる限界が露わになる瞬間の連続だった。

ピアノの声部とオーケストラの声部が衝突し、まるで二つの巨大な波がぶつかり合うように、音が混じり合わない。

それを回避しようとすると、響きはどこか生気を失い、無機質なものに変わってしまう。

一瞬、手を止めて琴未を見た。

彼女は、僕の悩みが見えるように鋭い感覚でこちらを見返してきた。

だが、彼女はただ僕の言葉を待っているようでもあった。

結局、どれほど書き進めても、僕は心の底でこの曲がメインの曲目にふさわしいか確信が持てなかった。

オーケストラとピアノ、二つの巨大な魂が絡み合うその響き。

曲はまだ手を入れる余地があった。アンコールに持っていくべきかもしれない。

僕は心のなかで静かにそうつぶやき、メモを閉じた。

   93

自主練習に励んでいた琴未が、突然取り乱し「いや!」と叫び声を上げたという。

まるで電気の音に恐怖をかき立てられるかのように、怯える様子だった。

僕は茂子からその報告を受け、心のなかに冷たい不安が走るのを感じながら、急いで城田家へと向かった。

夜風が肌を刺すような冷たさで、しんと静まり返った住宅街のなか、玄関の灯が唯一、暖かい光を投げかけていた。

茂子が不安そうに出迎え、顔には疲れの色が濃くにじんでいた。

「では、お母さまは、琴未さんが悲鳴を上げたとき、モーターを使う器具などはなにひとつ使っていなかったんですね」

「そうです。間違いありません。台所にも誰もいませんでしたし、音がするはずもなかったんです。琴未のピアノの音だけが鳴っておりました」

母の言葉は、かえって不安をかき立てた。僕の胸のなかに、答えの見えない闇がじわじわと広がっていくのを感じた。

「体調が悪いところ申し訳ない。ちょっといくつか実験に協力してくれないか。君のその身体に起きていることの原因がわかるかもしれない」

琴未はかすかに眉をひそめたが、僕の視線を見失わないよう、空に向かう瞳で一瞬探るようにうなずいた。

「はい。わかりました」

琴未の返事は小さかったが、心の奥底に隠した、わずかばかりの勇気が感じられた。

貝渕は低音から順に、88鍵すべてをゆっくりと鳴らしていった。

その途中、琴未が「嫌な音です」とポツリと言った。

僕は驚いて、手を止めた。

その「嫌な音」というのは、特定の3つの音だった。

そして、3つを同時に鳴らしてみると、琴未は「いや!」と叫んで、耳を覆って取り乱した。

明らかに、その音に強い拒否反応を示しているのがわかった。

琴未の耳が発達してきたことによって、幼少の頃に聞いた草刈り機のモーター音が、記憶のなかで音階として鮮明に蘇るようになってしまったのだ。

その3つの音は、今や彼女の耳にはっきりと刻み込まれていた。

そして、その音が同時に鳴る曲は、ピアノのレパートリーにいくらでもある。

これは、琴未のピアニスト活動において致命的だった。

僕は考えた。どうすればこの問題を克服できるのか。

精神科や心療内科に通い、音に対する過剰反応を治療する方法、特定の音階を含まない曲だけを選ぶ方法、あるいは耳栓を使って、彼女自身が演奏中にその音を感じないようにする方法。

悩んだ末、僕と茂子は琴未を連れて精神科の扉を叩いた。

   94

医師の診察の結果、琴未はPTSDと診断された。

治療は、薬物療法と認知行動療法(眼球運動脱感作療法)を併用して行われることになった。

少しずつ根気よくすすめる治療に希望を感じながらも、僕は同時に、琴未のレパートリーのなかからその「嫌な音」が含まれない曲を調べた。

幸いなことに、次回のコンサートの曲目には使用できる曲がいくつか残っていることがわかった。

これで、なんとか次のコンサートは無事にできるかもしれない。

そう思ったとき、僕は少しだけ胸をなでおろした。

しかし、大切なことを忘れていた。

それは最後に残った問題だった。

琴未がいつもラストに演奏する人気曲は、まさにその「嫌な音」を含んでいたのだ。

その事実を伝えるとき、琴未の反応をどう受け止めればいいのか、僕は深く考え込んだ。

でも、彼女にはすべてを正直に伝えなければならない。

そう決心し、僕は琴未に話すことにした。

琴未の声はかすかに震え、頬を伝う涙が静かに流れ落ちた。

その涙は儚くも力強く、彼女の決意を映し出していた。

「嫌です、先生。あの曲はわたしから切っても切れない曲なんです。はじめて先生に指導してもらった、思い出の曲でもあるんです。わたしは耳栓をしてでもあの曲は演奏します。演奏できる自信があります。でももちろん練習もします。何百回でも何千回でも練習します」

琴未の声は、抑えられた痛みと強い意志の入り混じった響きで、僕の胸に深く突き刺さった。

彼女の細い肩が小刻みに震え、涙を拭おうともしない。

気丈に振る舞おうとしても、その瞳に溢れる涙が決意の固さを物語っていた。

僕は琴未の言葉に気圧され、言葉を失ってしまった。

自分の知識や理屈を超えたところに彼女の決意があることを、ただ感じた。

彼女にとってあの曲は、単なる一つのメロディーではなかった。

初めての指導、始まりの音、成長の証。

そのすべてが、彼女の心に根付いているのだと理解した。

「わかった。耳栓をつけてやろう。でも、もしかしたらその頃にはPTSDの治療が終わって、例の3音を克服してるかもしれない。まだコンサートまで時間はある。焦らずにいこう」

言葉が出た瞬間、琴未は肩の力を少し抜き、深く息をついた。

彼女は顔を拭うと、かすかにうなずいた。

   95

それから二週間が経ち、ついにコンチェルトが完成した。

夕刻の静寂が部屋に降り、薄いカーテン越しにさす夕日の光が、ピアノの鍵盤の上で柔らかく揺れていた。

僕は、レッスンに来る琴未の到着を待ちながら、心が高ぶるのを抑えられなかった。

このコンチェルトが彼女の手にかかれば、どんな音楽が生まれるのだろう。

期待と不安が入り混じるなかで、彼女の声が玄関から聞こえた。

「僕のコンチェルトが完成したんだ。ちょっと聴いてくれるかい?」

琴未はいつものように静かにうなずき、その光のない瞳が僕の方へまっすぐ向けられた。

けれどその瞳には、見えないはずの僕を透かし見るような力が宿っているようで、僕はどきりとした。

「もちろんです。すごく楽しみ」

僕はPCをピアノの上のスピーカーに接続し、オーケストラの打ち込みを流し始めた。

緊張に耐えながら、ピアノの鍵盤に指を置いた。

つたない自分の演奏とわかってはいたが、心の底から思いを込めた曲を、彼女の耳でどう受け取ってもらえるかだけが気がかりだった。

演奏が進むにつれ、部屋全体に音が満ちていく。

打ち込みのオーケストラが奏でる偽物の和音に、本物のピアノの旋律が重なっていく。

僕のつたないピアノも、こうしてオーケストラと調和すると、ひとつの物語を紡ぎ出しているように響いた。

音が増幅し、最後の盛り上がりに差し掛かる。

部屋の空気は緊張と熱気で充ち満ち、僕は琴未がどんな反応を示すかと期待を込めて一音一音を大切に奏でた。

演奏が終わり、沈黙が訪れた。

ふと琴未が、右手と欠損した左手で小さく拍手をした。

「素晴らしいです。とにかくすごく良い曲です。シンプルだけど、深みがあります。終盤の盛り上がりには鳥肌が立ちました。うまく表現できなくてごめんなさい」

その言葉を耳にして、僕の胸には暖かい感謝の気持ちが溢れ出した。

琴未が曲のすべてを受け取ってくれた。

僕は深く息をついた。

「これでよかったら、コンサートで演奏してくれないだろうか」

琴未は、まるで幼子のように純粋な笑顔でうなずいた。

「もちろんです。弾かせてください。これが生のオーケストラと一緒になったら、会場全体が感動で震えると思います」

僕たちはその瞬間、音楽のすべてがひとつの輝きになっていくような未来を見た気がした。

   96

僕は気づくと、酒に頼らず作編曲ができる身体になっていた。

これまで、グラスを手にしなければ目の前の楽譜はひどく苦々しく映り、音符がのたうつように見えた。

頭に酒を流し込むことで、かろうじて自分の感情を麻痺させていたのだ。

それが今や、酒に頼らなくても、ひどい焦燥感や冷や汗に見舞われることがなくなっていた。

かつて、音楽そのものが自分を痛めつける敵のように思えた。

楽譜に向き合うことが辛く、少しの仕事のたびに疲れ切って、泥のように眠る日々だった。

しかし、いつの間にかその痛みが和らいでいた。

琴未のレッスンを重ねるうち、気づけば僕の心は安らぎに満ち、彼女のために奏でる音に光が宿るようになった。

まるで彼女が僕の心の奥底に眠っていた情熱を呼び覚まし、そこにある不安をひとつひとつ取り除いてくれているかのようだった。

今の僕は、彼女がピアノに向かう姿を見ていると、その情熱が自分の内にも灯ってくるのがわかる。

琴未の音に寄り添うことができる喜び。

それが、かつて味わったことのない満足感だった。

まだ道半ばではあるが、今は音楽家としての成功がすぐ手の届くところにあるように思える。

かつては不安と焦燥が支配していたが、今は音楽そのものを恐れず、憎しまず、ただ純粋に聴くことができる自分がいる。

リスナーが求める楽曲の創造に自信を持ち、それを成し遂げられると思えるようになった。

音楽をやっているから価値がある、と自分を保とうとしていたあの頃の僕とは違う。

今は、誰かのためになる曲をただ紡ぎたい、それだけで満ち足りていた。

作曲や編曲のなかに、人としての使命を見つけることができたのだ。

家で飲むあの苦い酒、気分を晴らすために飲む辛い酒も、もう飲まなくなっていた。

今は、仕事を終えたあとに「お疲れさま」と静かにグラスを傾けることができる。

自己憐憫に沈むためではなく、ひと仕事を終えた満足感を噛みしめるために。

優れた音楽家たちの作品を妬み、嫉むことも、誰かの成功を心の底で死ねと思うこともなくなった。

今はただ、琴未のために、誰かのために、音楽を紡ぎ出すことに自分の存在意義を見いだせている。

もし自分の音楽が誰かの役に立つなら、たとえそれが一瞬の感動であっても、それで十分だと心から思える。

琴未のピアノ教師が僕でよかった。

そう思える瞬間に、僕の存在が肯定されているのだ。

あとは作曲家として、コンチェルトが成功すれば、僕にはもう何も望むものはない。

僕は安心して死を迎えられるだろう。

今は、すべての力を音楽に捧げることができることが、ただただ嬉しかった。

   97

コンサート前日、僕はホールに足を踏み入れ、緊張と期待が入り交じるなか、リハーサルに立ち会った。

まずは楽屋に向かい、交響楽団の指揮者に挨拶をしなければならない。

そこには、端正な顔立ちで髪をきちんと撫でつけた46歳の指揮者、追端氏が待っていた。

彼は礼儀正しく、落ち着いた声で僕に話しかけてきた。

「はじめまして、貝渕と申します」

「追端と申します。お会いできて光栄です。早速ですが、楽曲について教えていただきたい点がございます」

彼が指でそっと楽譜を広げると、僕は少しだけ緊張を覚えた。

何か不手際でもあったのだろうか、と心配になったが、彼が口にしたのは細部の確認と、僕の心を安堵で満たす言葉だった。

「あなたの編曲は本当に素晴らしい。もしベートーヴェンがこの世にいて、琴未さんに合わせた編曲をしたとしたら、きっと同じような編曲を施すでしょう。それはあなたが、ベートーヴェンを深く理解し、琴未さんのハンデを深く理解しているという証拠です」

彼の声が、空気を震わせるように響いた。

胸の奥から突き上げるものがあり、気づけば僕の目には涙がにじんでいた。

「すみません……ありがとうございます。指揮者があなたでよかった」

その言葉が自然に口をついて出た。

追端氏は微笑み、僕の肩に手を置くと「貝渕さんを楽団員に紹介しましょう」と言って、僕をステージに連れて行った。

ステージには、私服姿の楽団員たちがすでに座り、それぞれが楽器を磨き、音を確かめ、静かな緊張感に包まれながらも、どこか柔らかな温かさも漂っていた。

僕が立つと、指揮者の号令とともに、楽団員たちが一斉に視線を向けてくる。

「こちらが、城田琴未さんのピアノ教師であり、作編曲を手がけた貝渕先生です」

一瞬の静寂の後、楽団員たちはその紹介を聞き、真剣な眼差しで僕を見つめた。

指揮者が「先生」と呼んだことが、どうしようもなく照れくさかった。

心臓が高鳴り、喉の奥に熱が上がってくるのを感じた。

「貝渕さん、どうぞ一言お願いします」

「ご紹介にあずかりました貝渕です」急な言葉に焦りながらも、必死に声を整えて話した。

「つたない編曲と楽曲ですが、心を込めて仕上げました。皆さまと琴未さんの演奏が、うまく化学反応を起こして、素晴らしいステージになることを願っています。明日はよろしくお願いいたします」

僕は深く頭を下げた。

耳元に響く、温かい拍手がホールに満ちた。

小さく何度もお辞儀をしながら、足元がおぼつかないままステージを後にした。

   98

僕はホールの中央に立ち尽くし、ゆっくりと天井を仰いだ。

穏やかな照明に包まれる高い天井が、どこまでも続くように感じられた。

左右に目を移すと、広い空間のすべてが自分を包み込むように思えた。

自分一人では到底立てなかったこの場所に、こうして今、立っている。

それは川崎やラムネたち、そして琴未がいてくれたからこそだ。

胸の奥がじんわりと温かくなった。

そのとき、ステージの方から響く軽快な声が耳に届いた。

「先生!」

振り返ると、そこには琴未が走ってきていた。

「例のメインの曲、耳栓なしでやろうと思います」

琴未の強い意志がこもった声に、僕は一瞬戸惑った。

「もう大丈夫なのかい」

彼女は少し微笑んでうなずき、けれどその瞳には覚悟が宿っていた。

「まだ少し胸に響きますが、大丈夫です。演奏に心から夢中になってしまえば、まったく気にならないかもしれません」

その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。

目の前にいるのは、確かにただの生徒ではなく、真の音楽家だった。

僕は深くうなずき、琴未に全幅の信頼を置くことを自分に誓った。

「わかった。それでやってみよう。ピアニスト城田琴未に賭けるよ」

彼女は、どこかしっかりとした声で答えた。

「ありがとうございます」

   99

それからゲネプロが始まった。

舞台上で琴未がピアノに向かう姿は、ほかの誰よりも凛としていて、彼女の音楽にかける情熱が音符に宿るのを僕は見ていた。

音がホールなかにあふれ、あたかもその場にベートーヴェンが甦ったかのように、琴未の演奏は力強く、繊細で、壮麗だった。

全身全霊をかけた彼女の指先が鍵盤を駆け巡るたびに、まるでホールが呼吸しているかのように感じた。

心が震えた。

この演奏会は間違いなく成功する。

僕の胸には、そんな確信が湧き上がった。

ゲネプロが終わると、ホールの空気は少しずつ静まり、現実に引き戻されるような感覚にとらわれた。

深い充実感に包まれながら、僕は舞台を後にした。

ホールの外に出て、冷たい夜の空気が頬をかすめると、ようやく自分が息をしていたことに気づく。

自宅に帰り、疲れがどっと押し寄せたが、その疲れは苦しみではなく、心地よい達成感に満ちていた。

琴未のあの堂々とした姿を思い浮かべながら、僕は明日の成功を確信し、静かに目を閉じた。

母はキッチンで夕食の支度をしていた。

鼻先に、煮物の甘くしみ込んだ香りが漂い、僕はふと、懐かしい気持ちに包まれた。

「あら、おかえり。どうだった?」と母はフライパンを揺らしながら僕に目を向けた。

「最高だったよ。すべてうまくいく。そんな感じ。明日の朝もいつも通り、味噌汁をすすりながら、ご飯に納豆をかけて食べる。変な願掛けはしない。なるようになる。それがすべてだ」

母はふっと笑い、手元で野菜を刻む音をリズミカルに響かせた。

「早く有名になって稼いでおくれよ。そろそろ洗濯機がダメになりそうなんだよ」

「明日のコンサートは観に来れるんだろ?」

「もちろん行くよ。琴未ちゃんの姿をしっかり写真に収めなきゃ」

「撮影禁止なんだよ」

「でもカメラマンが撮った写真をあとでもらえるよね」と母は満足そうに微笑んだ。

僕は心が温かくなるのを感じた。

いつも同じように気負いなく、それでいて芯のある母らしさに、気持ちが落ち着いていった。

明日の舞台は何も特別なことをする必要はない。

自分が積み重ねてきたものをそのまま出せばいいのだ。

母が目を向けずに、静かに言葉を投げかけた。

「あんたの願いだった、作曲家になること。自分の曲と売れ線の曲のギャップを気にしないこと。自分を貫き通すことに、あした決着がつくんだね」

「ああ、そうだ。琴未ちゃんをはじめ、出会った人すべてに感謝だ」

僕はその言葉を噛み締めるように、深くうなずいた。

   100

僕は川崎に電話をかけた。

電話の向こうで彼の声が聞こえると、胸が少し熱くなった。

これまでの感謝をどう伝えたものか、言葉を探しながらゆっくりと語りかけた。

「お前には本当に世話になったな」

川崎の声はいつもと変わらず、淡々としていたが、僕にはその言葉が深く心に響いた。

川崎が今、琴未のテレビCMの話を進めているということ、さらにラジオ番組への出演依頼が各局から押し寄せていることを、どこか事務的に説明してくれた。

そのすべてが、琴未親子のために細やかに計画されているのだと伝わってきた。

川崎は忙しそうに、必要な書類や資料を準備していると言ったが、その裏には彼の熱意と、琴未への真摯な思いが見え隠れしていた。

「彼女のコンサートが成功すれば、さらに依頼は増えるはずだ」

川崎の確信めいた言葉に僕は安堵を覚えた。

琴未と茂子は、アイドルやタレントのように扱われることに抵抗がないようで、むしろ新しい展開に心を弾ませているらしい。

琴未がピアニストとしてだけでなく、幅広い人々に愛される存在になることが、川崎にもはっきりと見えているようだった。

彼が真剣な声で語るたびに、その信頼が伝わってきた。

そこで話が終わると思っていた僕だったが、川崎が一瞬声を落としてこう言った。

「お前に映画のテーマ曲の作曲の依頼が来てるんだ。どうだ、やってみる気はあるか?」

僕は思わず笑ってしまった。

棚から牡丹餅とはこのことかと思いながらも、驚きと喜びで胸がいっぱいになった。

まさか僕にまで声がかかるとは。

作曲家として、その世界に浸ることができる機会を、この手で掴めるかもしれない。

   101

その夜、蒲団にもぐり込んだものの、僕はまったく眠気におそわれなかった。

心療内科からもらった睡眠導入剤を飲んでみても、どうにも効き目が感じられない。

そのうち、自分の不安が膨れ上がっていくのがわかり、ますます眠れなくなった。

なんとかして明日のコンサートには万全で臨みたい。そんな焦燥感が、まぶたを固く張り詰めさせてしまう。

仕方なく、ひそかに冷蔵庫を開け、母がたしなんでいるビールを一本拝借したが、ビールの苦味が喉を通っても、胸のざわめきは収まらなかった。

いっそのこと朝までこのまま目を開けて過ごすしかないのかと諦めかけたとき、ふと、僕の視線は机の上に置いてある譜面に吸い寄せられた。

「ああ、これだ」

琴未が明日演奏するオリジナルのコンチェルトの譜面。

僕は譜面を手に取り、ピアノの前に座って、音符のひとつひとつをなぞるように目で追った。

細かいリズム、複雑なハーモニー、そして終盤の緊張感。

読み直してみても、どこにも不備はない。

むしろ、この作品を全力で生きた証のように、そこに僕の一切が詰まっているのだと感じられた。

琴未が耳で捉え、間違いなく受け止めてくれる旋律たちだ。

この確認ができただけで、胸の重荷がふと軽くなった。

ようやく眠気が訪れ、布団に潜り込んで目を閉じる。

朝まで一度も目を覚まさず、しっかりと眠りにつけたのは幸いだった。けれど、目覚めは最悪だった。

   102

夢のなかで、僕はコンサート会場にいた。

オリジナルのコンチェルトが始まると同時に、琴未の顔がゆがみ、突然、会場に響き渡るほどの悲鳴がもれる。

次の瞬間、演奏は止まり、会場全体が冷え切るように静まり返っていた。

その光景が鮮明すぎて、目覚めたときも動悸が激しく、寝汗で全身が湿っていた。

襟足に触れると、まるで高熱でも出したかのように汗が滴り落ちていた。

何をどうやっても、その日はやってくる。

何をどう感じても、その日は無情にも訪れる。

待ちに待った日であっても、迫りくるのはまるで試練のようで、期待が不安に変わり、ほんの少しの緩みが緊張の螺旋を恐怖へと塗り替えてゆく。

   103

コンサート当日、僕とラムネは会場の前に立っていた。

冬の冷たい空気があたりを包むなか、華やかで色とりどりの花々が通りに飾られていた。

そのひとつひとつが鮮やかな声援のように、今日の舞台に祝福を送っているようだった。

僕は、花がもたらす温かい光景に、琴未がやっとここまで辿り着いたことを改めて感じ、胸が締めつけられるような思いがした。

ふと、ラムネが「これ……」と言って、ひとつの花束を指さした。

その白や黄、ピンクで彩られたスタンド花には「浅草ホッピー同好会」と記されていた。

たったそれだけの言葉だったが、僕は瞬間的に胸が熱くなり、込み上げる感情が視界を滲ませた。

罪の意識にさいなまれながらも、ずっと応援していた人の存在が、ささやかであっても、僕にとっては何にも代えがたいものだった。

ラムネも僕の想いを理解してくれたのだろう。

小さく微笑んで「よかったね」と言ったその声には、彼女自身の優しさが込められていて、どこか誇らしげだった。

僕は、彼女に向かってうなずき、これからのステージで何が待っているかを思いながら、目の前に広がる舞台への道に心を定めた。

   104

観客が次々と会場を埋め尽くし、空気が徐々に熱を帯び始めていた。

その雑然としたざわめきが、まるで見えない波のようにホール全体を満たしている。

そして――ついに、コンサート開始のブザーが鳴った。

その音は、聴衆の心のなかにわだかまっていた様々な思いを、一瞬にしてひとつの期待感に収束させるようだった。

静寂が訪れ、誰もが息をのむ。

この瞬間に至るまで、きっと一人ひとりが様々な想いを抱えていただろう。

憧れ、感動、あるいは懐かしさ。

だが、そのすべてが今、始まりの合図とともにひとつの高鳴りとなり、会場全体に満ちていく。

舞台の幕が上がり、初めの一音が鳴り響く瞬間を待つ――それは観客にとっても、ある種の儀式のようなものだ。

大きな拍手が会場全体を包み、まるで波のように押し寄せた。

その拍手に迎えられて、琴未が静かにステージへと姿をあらわした。

彼女は一瞬、観客の方へ視線を向けた後、深く息を吸い、鍵盤の前に座る。

柔らかなライトが彼女のシルエットを浮かび上がらせ、まるで彼女自身が光を纏っているかのようだった。

いよいよコンサートの幕が切られたのだ。

琴未の指が鍵盤に触れるたび、音の響きが幾重にも重なり合い、旋律はまるで海を泳ぐ潮のように、ゆっくりと波を描いて会場全体に広がっていった。

その音の流れのなかで、僕は自分が過去に背負ってきた苦悩や悔恨、数えきれないほどの葛藤が、どこか遠い場所に流されていくのを感じた。

琴未が奏でる一音一音は、僕が何年もかけて追い求めてきた「音楽」の理想だった。

彼女の演奏と楽曲の完璧な調和が、僕の心に静かな充足感をもたらし、その充足感が胸の奥深くまでしみわたるようだった。

気がつけば、僕の頬には涙が溢れていた。

自分では気づかぬうちに、感情が高まり、こらえようのない涙が流れ続けていた。

――メインの曲は無事に終わり、会場には歓声と拍手が鳴り響いていた。

僕のなかにも、ほっとする安堵と、まだ見ぬ先への緊張が同時に渦巻いていた。

しかし、すべてはこれからだった。

アンコールが始まる――それは僕が彼女のために心血を注いで書いたオリジナルのコンチェルトだ。

僕が書いた旋律を、彼女は自分のものとして紡ぎ出していくのだ。

この曲には、僕と琴未が歩んできた数々の瞬間が詰まっている。

僕は不安と期待の狭間に立っていた。

その気持ちはあたかも、薄暗い霧のなかに迷い込んだかのように重く、そして逃げられぬものだった。

遠くで聞こえる波音のように、かすかに響く期待の気配。

だが、同時にその波は押し寄せる不安の影も含んでいた。

人はどうしてこんなにも脆く、心はこんなにも揺れるのだろうか。

琴未が再びステージに上がると、会場全体がざわつきから一転して拍手が起った。

琴未と追端が互いに握手を交わすと、拍手はより大きくなった。

その音はまるで波のように広がり、一瞬の温かな歓声となってふたりを包んだ。

拍手がゆるやかに収まり、ついには完全な静寂が会場を覆った。

数百の人々がいっせいに息を詰めているかのように、すべての音が消え失せた。

聴衆はみな一様に目を凝らし、鼓動まで抑えながら彼女の指先が動き出すのを待っている。

その沈黙は、期待に満ちていたが、同時にこの瞬間がいつまでも続いてほしいと願うような緊張もあった。

追端が指揮棒を上げ、一瞬のためらいもなく空中を切り裂くように振り下ろした。

弦楽器の響きが深い川底から立ち上がる霧のように、柔らかく湧き出してきた。

ピアノの前に座る琴未の指が、ゆっくりと鍵盤に落ちていく。

そして、その最初の音の前に訪れる8分休符が、僕の耳にはひとつの音として響いた気がした。

見えないリズムが、息を詰めた会場を打ち鳴らし、空気の揺らぎがやがて次の音へと繋がっていくかのようだった。

ヴァイオリンとヴィオラによるユニゾンで第一主題がフォルテで奏でられ、激しく上下する弓が目を奪う。ピアノは第一主題を反復し、上行してきらびやかな音に達してすぐ下降のラインを描く。移行部はフルートとクラリネットの上行が印象的で大地に咲く花々を思わせる。ピアノがその花々に香りを加えるように、センシティブなタッチでアルペジオを弾く。ホルンの和音とトロンボーンの三声が真のピアニッシモで対照的な第二主題を奏でる。それはまるでホールの床を這うようにして聴衆の身体を包む。ピアノの左手は段々と下降してゆき、展開部への窓を開く。提示部のなかのモチーフを巧みに活用、変化させながら構成される。木管が複雑に絡み合って鳥のさえずりを思わせるようなパッセージを響かせ、転調を繰り返しながら、音楽を前進させる。ピアノは跳ねたリズムで再びさえずり、なめらかな右手と左手で交互にオクターブを奏でてゆく。弦楽五部はメゾフォルテのピチカートで聴衆の心を弾ませる。トランペットが二本ユニゾンで明瞭なスタッカートを作り、それに続きホルンの丸みを帯びた響きが彩度を強くする。ピアノは急に激しいフレーズとなり、琴未は髪を振り乱すような勢いで身体を揺らす。さらにオーボエが被さり、辛辣な味と縁取りを加える。主調のままにとどまるために移行部は多少変化され、聴衆の期待を効果的に裏切る。明暗を緩急のなかに取り込み、琴未は完璧な演奏で再現部を閉じる。ついに楽曲はコーダへ突入し、ファゴットの持続音の上でフルートとクラリネットが下降のラインを描く。持続音はコントラバスに引き継がれ、オーボエとヴィオラがユニゾンで遥か高い空に昇ってゆくような美しいラインを聴かせる。ピアノはチェレスタを思わせるきらきらとした天上の音を奏で、高音の和音をペダルで伸ばしながら下降してゆく。ヴァイオリン、ヴィオラのトレモロで興奮は最大となり、チェロはうごめく指が印象的なフレーズを中音で奏でる。トロンボーンはフォルテシモで劇的な破壊的な音を打ち込み、ヴィオラの下に潜り込んでゆく。シャルモー音域でクラリネットのトリルが始まる。琴未のピアノもユニゾンで合わさり、最後に向けて和声の隙間を埋める。ティンパニが決まったリズムを打ち出し、終結に向けての道筋を作る。指揮棒が飛ぶように走り、琴未の左手と右手が交差して激しいパッセージを奏でる。聴衆は今や魔法にかけられたように圧倒されている。曲中であらわれたフレーズやモチーフを贅沢に織り込みながら、印象深く、楽曲の余韻を残すようにして、全合奏で曲は終結した。

瞬間、爆発するような拍手が客席から巻き起こった。

琴未が立ちあがると、熱狂的にひときわ大きくなった。

心の底から沸いてきたような拍手だった。

指揮者が琴未と握手すると、さらに嵐が通り過ぎたようになった。

高鳴る拍手を浴びた琴未は涙を流していた。

拍手は場内を揺るがし、しばらく鳴りやまなかった。

ゲスト席から見下ろす舞台は、まるで夜空に浮かぶ天体のようで、音のひとつひとつが星々の輝きのように美しかった。

僕も、そして隣に座るラムネ、川崎、不犬斗、茂子、蟹江も、全員が息を詰め、言葉も交わさず、その空間を支配する音楽に心を奪われていた。

隣の席で見守っていたラムネがそっとハンカチを差し出してくれた。

僕はその布で静かに涙を拭った。

ハンカチはすぐにしっとりと湿り、僕の心のなかでこれまで沈んでいた何かが、まるで解き放たれたように浮き上がってきた。

コンサートが終わり、会場に鳴り響いた盛大な拍手のなかで僕たちは席を立った。

拍手の余韻が背後に続くなか、僕たちは楽屋へと向かった。

気持ちをひとつにした仲間とともに歩くその道は、今までの苦しみが光に変わり、満ち足りたものへと変わった瞬間を祝福するような静かな喜びに満ちていた。

楽屋に入ると、まだドレスのままの琴未が立っていて、肩で大きく息をしながらも、その顔は晴れやかな笑みを浮かべていた。

彼女の目は視線を定めることなく宙をさまよっていたが、その口元は柔らかく微笑み、どこかやり切った人間だけにある澄み切った表情をしていた。

琴未の周囲には演奏がもたらした高揚感がまだ漂っているようで、僕はそれに触れて、一瞬胸が熱くなった。

「やったね。本当に素晴らしいステージだった。手首が動かなくなった時はどうなるかと思ったけど、無事に終わってよかったよ。帰りにはみんなで、おいしいものを食べに行こう。オレの奢りだ」と僕は言った。

「そんなお金あるんですかぁ」

僕の横にいたラムネが、肘で軽く僕の腹をつつき、からかうように微笑んだ。

冗談めかした言葉にも、どこか満足げな表情が浮かんでいるのが見えた。

楽屋には拍手の余韻が今も残っているようで、心地よい疲労感が僕たちを包んでいた。

そのとき、追端さんが着替えを終えて出てきたのが見えたので、僕は足を一歩踏み出して彼に声をかけた。

「追端さん、今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました。貝渕さん、ぜひまた一緒にやりましょう。本当に素晴らしい演奏会でした。これからも琴未さんについて、新しい楽曲を作ってください。楽しみにしています。そして、どんな批判があっても負けないでください。自信をもって、励んでください。先生」

その言葉を受けた瞬間、胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。

僕の音楽が、これほどの人に認められ、受け入れられたのだと思うと、感謝の念と安堵が入り交じり、言葉に詰まりそうになった。

かろうじて笑顔を作り、追端さんに深く頭を下げた。

その後、楽団のメンバーにも挨拶をして、僕はようやく胸を撫で下ろした。

緊張から解放された安堵感が体中を包み込み、肩が軽くなった気がした。

そのとき、関係者で記念写真を撮ろうという話が持ち上がり、カメラマンが準備を整え、僕たちはそれぞれ思い思いのポーズをとってフラッシュを浴びた。

シャッター音とともに、照明のフラッシュが一瞬楽屋を明るく照らした。

そこで、隣にいた琴未がわずかに眩しそうな顔をしたのが見えた。

僕は息をのんだ。琴未の目には光は見えないはずなのに、彼女の顔にはほんの一瞬、明かりに驚いたような表情が浮かんでいたのだ。

その後、写真撮影が終わると、僕は茂子に向かって「できれば眼科で診察を受けてみてください」と静かに頼んだ。

すると、不犬斗が突然「あっ!」と短く声を上げた。

「掲示板にはさっそく今日の感想が書かれているよ。『圧巻のコンチェルト。特に貝渕のオリジナルは素晴らしかった! 琴未の障害を知り尽くした人間にしか書けない名曲』など、貝渕の評価が一気に上がってるよ」

「よし」

僕は思わずこぶしを握り締めた。これまで積み重ねてきた努力が、ようやく形となり、評価されたという実感がじわじわと広がった。

   105

帰り際、僕たちは改めて会場に並べられたスタンド花を見て回った。

友人や知人、会社関係者からの華やかな花々が並ぶなかで、一際異彩を放っている花があった。

赤や白の花が並ぶなかに、ぽつんとあった「浅草ホッピー同好会」の花が、目立つように鎮座していた。

「おかあさん知ってる?」と僕が聞くと、茂子は「知らないわ」と答えたが、その表情には心当たりがあるようにも見えた。

僕とラムネは気づかないふりをして、ラムネが「酒飲みの貝渕さんの仲間じゃないですかね。たぶんブラックアウトして花を出す話を覚えてないんですよ、きっと」と悪戯っぽく笑った。

僕もその言葉に苦笑しながら、温かな感情に包まれていた。

こんなふうに、支えてくれる人たちに囲まれて、自分がここにいることを、僕はただただ感謝せずにはいられなかった。

   106

夜の繁華街にあるジンギスカン屋は、店先からもう立ち込める香ばしい匂いに包まれていた。

通りにまで漂うこの匂いに、ふと誘われるように足を進めた僕たちが集うと、店内は賑やかに笑い声が響き、熱気で活気に溢れていた。

暖かな黄色い照明が、テーブルに並ぶ料理を照らし出し、そこにはまるでお祝いの宴のような、独特の高揚感が漂っていた。

一緒には座り切れなかったので、僕と琴未、茂子、ラムネはひとつのテーブルに、母、不犬斗、そして川崎は別のテーブルに座った。

互いに顔を見合わせ、これまでの出来事を思い出すたびに、笑顔が自然と溢れ出てくる。

「コンサート前、本当にガチガチに緊張していたんですよ。まるで自分がピアノを弾くかのような感じで」

ラムネが僕に向かってそう言うと、周りの顔が一瞬で思い出したようにほころんだ。

「小心者なんだよ」

蟹江がそう指摘した。

琴未は肩を小刻みに揺らし、茂子はそっと手を口元に当て、控えめに笑う。

ラムネは、いつものひょうひょうとした様子で、肩をすくめながらおかしそうに目を細めた。

「ラムネはいつもひょうひょうとして平常心に見えるよな」

僕が言うと、ラムネはふと真面目な表情を見せて箸を置いた。

「内心はビクビクですよ。ごまかすのがうまいだけです。気弱な芸術家って頼りないじゃないですか」

彼女がそう言うと、川崎が焼けた肉をひっくり返しながら、僕の方を見やった。

「気持ちはわかるよ。貝渕は気弱なほうだな」

川崎の言葉に僕は照れくさそうに笑い、返答に困ったように鉄板の上で焼けていくジンギスカンに視線を落とした。

じわじわと肉が焼ける音が心地よく耳に響く。

そんなやりとりが、あたたかな火の前でのひとときに重なり、どこかほっとするような気持ちが湧いてきた。

「このなかでいちばん肝が据わってるのは、間違いなく琴未ちゃんですね」

ラムネが声をあげると、琴未ははっと驚いて小さな口を開けたまま固まった。

まさか自分がそんなふうに言われるとは思わなかったのだろう。

彼女はその言葉を消化するように、きょとんとした表情で僕たちを見渡した。

「わたしですか」

その顔に、周りがさらに笑い声を上げた。

琴未は、頭を少し傾け、びっくりしたようにまばたきしている。

「あの聴衆のなかで、完璧に弾きこなせるのはすごいですよ。お母さんの育て方がよかったんでしょう」

僕が続けると、茂子は頬を赤らめ、控えめに笑いながら手を口元に持っていった。

「あら、まあ」

茂子がそう口にすると、琴未もようやくほっとしたように微笑み、ラムネもまた「本当に立派なお嬢さんですね」と目を細めていた。

一次会の賑やかさがまだ耳に残るなか、僕が会計して他の皆と別れた。

冬の冷たい夜風が顔に触れ、少し酔いが冷めていくようだった。

ラムネと並んで歩きながら、僕はふとした思いつきで二次会を提案した。

「二次会さあ、アトリエの屋上にしない?」

僕の言葉にラムネがくすりと笑った。

「見栄張ってお金なくなっちゃったんでしょう」

彼女の言葉に思わず苦笑いを浮かべた。

確かに、コンサートの打ち上げで張り切って散財してしまったのだ。

「よくわかったな」

「もう長いつき合いですからね」

彼女がそう言ってからかうように微笑む顔を見て、僕も少し照れ臭くなった。

「コンビニで安焼酎買うくらいはあるからそれ買って水道水で割ろう」

「とてつもなく貧乏くさいですね。つき合いますよ」

冬の寒さに少し肩を寄せながら、僕たちはコンビニに寄り、安い焼酎を手に取った。

空いたペットボトルに水道水を入れ、屋上に続く垂直のハシゴに手をかけた。

つまみはアトリエの冷蔵庫にあった余り物だった。

冷たい鉄の感触が指先に伝わり、冬の夜をさらに実感させた。

ラムネは慣れた手つきで先に登り、屋上で僕を待っていた。

やっとの思いでたどり着くと、街の夜景が広がり、家々の光が遠くでまたたいているのが見えた。

「やっぱりいい眺めだなぁ。ラムネがうらやましいよ」

「もう慣れちゃいましたけど、慣れちゃったからこそ、誰と来るかが重要ですね」

「オレはどうなんだ」

ラムネは八重歯を見せて、いたずらっぽく微笑んだ。

「もちろん最高ですよ」

その笑顔があまりに自然で、僕もつられて笑ってしまう。

冷たい空気が頬を染めるようで、冬の夜の静けさが一層増していた。

開け放たれた空の下、ペットボトルに入れた水道水で割った焼酎をカップに注ぎ、僕たちは二人で乾杯した。

「それにしてもさむくなったなぁ」

僕がそう言うと、ラムネは夜空を見上げて、少し感慨深げに呟いた。

「最初は11月でしたからね。もう2月ですよ」

冷たい夜風が二人の肩を揺らし、ひんやりとした空気が肌に染みた。

しばらくすると、空からひらりと小さな白い雪が舞い降りてきた。

まるで、この静かな時間を飾るかのように、二人の間に淡い雪が降り注いでいた。

   107

翌朝、茂子と僕は琴未を眼科に連れて行くことになった。

冬の冷たい空気が、街全体を引き締めるような朝だった。

病院の待合室で座っている琴未と茂子の周りには、静けさが漂っていた。

その静けさのなかにある小さな期待が、僕には感じられた。

しばらくして診察室へと案内され、白衣を着た医師が眼科用の特殊な装置の前で琴未を診察した。

その表情が少しずつ変わり、やがて驚きと興奮に満ちたものへと移り変わっていく。

医師が手元の記録を何度も確認し、顔を上げて言葉を紡ぎ出した。

「これは奇跡です。医学的には考えられません。現在、強い光にだけですが、琴未さんの目が反応しています。これは通常の回復とは違う、非常に稀なケースです。この調子ならば、完全にではないかもしれませんが、視力が回復する可能性があります」

その瞬間、茂子は息を詰めたまま目を見開いた。琴未も、驚きと喜びのなかでただ黙っていた。

二人が何も言えずに医師を見つめていると、医師は興奮気味に続けた。

「原因が不明ですので、慎重に経過を観察していきましょう。投薬などの治療は行わず、現状のまま様子を見ます。来週も、また診察に来てください」

診察室から出た後の茂子と琴未は、信じられないといった様子で互いを寄せた。

茂子は思わず琴未の手を握りしめ「よかった」と小さく囁いた。

僕は原因不明で腎不全になり、原因不明で復活した。

医学で説明できないことは、いくらでもあるのだろう。

   108

僕とラムネは冬の空気が澄みきった公園を歩いていた。

僕はしっかりとしたウールのマフラーに厚手のグレンチェックのコート、ウールの手袋までつけて、完全に防寒を施していた。

一方で、ラムネはロンTに革のコートを羽織っただけの、まるで季節を気にしていないような軽装だった。

あまりにも薄着だったので「寒くないか」と何度か尋ねたが、ラムネは涼しげな顔で「寒くない」と笑って答えた。

その細い体のどこにそんな保温機能があるのかと、不思議に思った。

昨夜の雪は溶けきらず、公園の木の根や歩道の縁にうっすらと残り、冬の深まりを感じさせた。

僕のコートには、樟脳のかすかなにおいが染みついていた。

枝の隙間からは、どこまでも透き通った青空が見え、何か遠くの世界が続いているかのような錯覚を覚えた。

ふと、僕は口を開いた。

「あとどれくらい生きれるかなぁ」

僕はどこか冗談めかして言ったつもりだったが、ラムネは真剣な表情で僕の顔を見た。

「こんなピンピンしている人が死ぬなんて。そんなはずないのに。わかるんですあたし。そういうカンみたいなものがあるんです」

その瞬間、僕の携帯が鳴り響いた。

ポケットから出して画面を見ると、病院からの電話だった。

電話を取ると、医者の真剣な声が耳に飛び込んできた。

「貝渕さん、肝臓ガンのことでお伝えしたいことがあります。とにかくすぐに来てください」

僕は電話を切り、ラムネに顔を向けた。

「肝臓ガンのことで伝えたいことがあるって」

穏やかな表情でこちらを見つめている彼女に向かって、何も言えずにうなずいた。

ラムネを家まで送る道すがら、彼女は僕の手を握りしめ「きっと大丈夫ですよ」と小さな声で言ったが、その声には一抹の不安が滲んでいた。

僕はひとり病院に向かった。

車窓に映る冬の景色は、凍てついた静寂をたたえていた。

冷たい風が雪を薄く残した歩道を吹き抜けるように、何か冷え冷えとしたものが僕の胸に迫ってきた。

医者が深々と頭を下げながら、顔を曇らせて告げた。

「貝渕くん、本当に申し訳ない。君が肝臓ガンだというのは、間違いだった」

僕はしばらく言葉を失ったまま医者の顔を見つめていた。

「どういうことですか?」

「うちの病院のデータベースが、ハッキングされて書き換えられていたんだ。君の検査結果は、実際にはもう亡くなっている他人のものだった。うちの病院のデータはめちゃくちゃだ。君には大きな心労をかけてしまった……本当に申し訳ない。紹介状を書くから、念のため他の病院で再検査をしてくれ」

僕は怒る気にもならず、ただ言葉をかみしめるようにしばらく呆然と座っていた。

まるで墓のなかから這い上がってくるゾンビのイメージが頭に浮かんだ。

僕は一度死んだものとして、生き返ってきたような気分だった。

紹介された病院で再検査をした結果、肝臓ガンではないものの、肝機能はかなり落ちており、現在は脂肪肝の状態であると告げられた。

「このままのペースで酒を飲んでいると、いずれ肝硬変になる」と医者は冷静な声で言い「とにかく三か月は断酒しなさい」と念を押した。

以前の僕なら、断酒など到底できなかっただろう。

けれど今は、守らなければならない人がいる。

僕のそばにいてほしいと強く願う人ができた。

いまなら断酒ができるだろう。

病院の廊下を出ると、冷たい風が吹き抜け、冬の冷たさが鋭く肌に突き刺さるようだった。

僕はふっと息をついて、少し心を落ち着けてからラムネに連絡を取った。

電話口で「肝臓ガンは間違いだったってさ」と伝えると、彼女は深いため息をつき、思わず泣き笑いのような声で「本当に?」と繰り返した。

「もう、あたしの心臓がどうにかなっちゃいそうです」と声を震わせる彼女の言葉に、僕も胸が熱くなった。

「大丈夫だよ。三か月、断酒だって。嫌だなぁ。今日ぐらいは快気祝いで飲みたい気分だ」

電話の向こうから、かすかにラムネが泣き笑いの声を漏らすのが聞こえた。

その優しい声は僕の心に深く沁み渡り、生きている実感を再び与えてくれるようだった。

「快気祝い、今日やりますか……鍋、火鍋なんかどうかな。アトリエで」

「激辛好きにはたまらんね! じゃ、いつもみたいにアトリエ集合で買い出しに行くかぁ」

近所のスーパーで、食材と、普段は飲まない、ちょっと高いビールを買った。

無事だと知った安心、無事を報告できた安心からか、ふたりともとてもお腹が空いていて、鍋をむさぼるように食べた。

ふと窓の外に目をやると、雪が降り始めていた。

飲みすぎない適度にお酒を飲んで、シメとして鍋のスープにご飯を入れておじやにした。

ラムネの素晴らしいスタイルが崩れないといいなと願った。

その夜はラムネと寝た。

しかし何もしなかった。

ふたりとも、もう少し、友人でいたかったのだ。

友人として安心を分かち合いたい。

安心がふたりを揺らし終わったとき、僕らは新しい環境へと進むだろう。

夜中、ふと目が覚めて窓の外を見ると、雪がしんしんと降り続けていた。

静まり返った空気が家のなかまで届いてくる。

気づくと、ラムネの肩が蒲団からはみ出ていて、僕はそっと蒲団をかけ直した。

彼女の体からやわらかな温かさが伝わってきて、その心地よさが僕の胸にしみ込んだ。

眠るラムネのまつげは、儚くて寂しくて、それでいて細く美しく、僕は静かな時間に包まれながらもう一度目を閉じた。

   109

朝起きると、空はすっかり晴れ、スズメが鳴いていた。

物欲しそうに、鳴いていた。

ラムネはまだ寝ていたので、起こさないように静かに、僕はおじやに使った米の余りを少しだけ軽量カップに入れ、外に出てスズメ達のいたところに撒いた。

僕がいなくなったのを見計らって再びやってきたスズメは米をついばんだ。

僕はラムネが作ったオブジェ「民家」の窓から、朗らかな顔でじっと見ていた。

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