[映画]ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー

 今夜のU-NEXTは『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』。タイトルからわかるように、作家J.D.サリンジャーの伝記映画である。

 サリンジャーと言えばもちろん『ライ麦畑でつかまえて』を始め、『フラニーとズーイ』、『ナイン・ストーリーズ』などで知られるあのサリンジャー。

 この映画はサリンジャーが小説を書き始めたあたりから、隠遁生活を始めるまでの間、つまりは表立って作家活動をしていた期間のおよそ全範囲を描いた作品である。ミュージシャンを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』や『ロケットマン』などと似たような方向の作品だと思うけれど、扱っているのが作家だからか、はるかに静かな、ともすると地味な印象に仕上がっている。無論、それが悪いということではまったくない。

 この作品を見ると、思っていた以上に、サリンジャーという人はホールデンだったのだなと思わされる。これが映画の作り手によってかけられたバイアスによるものなのか、サリンジャーというのがこの通りの人だったのかはわからない。ただここに描かれているサリンジャーは、ホールデンそのままのナイーヴさを備えた人物に見える。ぎりぎりのところで踏みとどまっている感じだ。

 曲がりなりにも小説を書いている身として、特に序盤に交わされる会話などはとても共感する。特にサリンジャーが編集者から受けるアドバイスや依頼は興味深い。作品を産み出す動機を持ったサリンジャーと、それを売るという目的を持った編集者なり出版社。その行き違いの様は、なるほどそういうことはあるだろうと思わされるものだ。むしろ類型としてステロタイプ化してしまっているようにも見える。

 小説でなくとも、芸術を商用化しようとすればそこにはかならずこの手のジレンマが出てくるであろう。その時実作家としてどういう選択をすべきなのか。非常に難しい。好き勝手に作ったものが売れればそれが最も素晴らしかろうけれど、それでは商業作家は務まるまい。もちろん小説に限らず、絵画でも音楽でもなんでもそうだろう。ゴッホのように生前はほとんど評価されず、死後になってから歴史的な評価を得ることもある。それを良しとするかというのもまた、簡単には結論が出ない。

 サリンジャーという人は、特にライ麦畑~に色濃く出ているように、きわめて繊細な人だったのだろう。この映画にもそのように描かれている。世界はきっと、彼には生きづらいものだったのだろう。だからこそあのような歴史的名作が生まれたのであろうけれど、彼が書くだけ書いて世に出さなかった作品群のことを思うと、やはり惜しいと思わずにいられない。それはきっとわたしが凡人であり、俗物であるからだろう。

 サリンジャーは天性の作家だった。作品は売るために書いたわけではない。書かずにいられないから書いた。そして、後年はもういろいろなことに腹を立て、山奥へ引きこもって作品を書き続けた。世に出さない作品を。彼がもう少し強く、書いたものは売る、という姿勢でやってくれていれば、わたしはそれを読むことができたろう。しかし、彼がそういう人であったら、ライ麦畑~は生まれなかったろう。

 小説を書くとはどういうことなのか。この映画にはそのもっとも柔らかい部分が詰まっているような気がする。

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涼雨 零音
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