だからアートは面白い
ものぐさな僕はヘッダー画像を設定するのがめんどくさいため、最近はみんフォトに入る→「猫野ソラ」で検索→良さげなの借りる、という流れ。
そんな具合に仲良しnoter さんの一人、猫野ソラさんのイラストを借りがちですが、今回のはちょっと申し訳ない感じになっちゃったので弁解を。この絵、本当はもっと縦に長く、この人の顔がちゃんと描かれてるんです。ステキなの。でも借りたかったのはこのシャツ。顔見せなくてスンマセン。
さて、本日のお題目はこちら。こちらも仲良しnoter さんの一人、たなかともこさん がこのようなnote をお書きになったのです。今回初めて、note の投稿の下の方にある「引用して記事を書く」ボタンを使った。こういうの途中に貼ってあっても読まないという人もいるかもしれないけれど、まぁまずは読んできてくださいな。僕? 僕は待ってるんで、気にせずいってらっしゃいませ。
おかえりなさいませ、ご主人様。あれ、ちょっと趣向が変わってしまったかな。どうでした? 面白いでしょう。なにが面白いって、ともこさんが出会ったアートもだいぶ面白いけれど、そのわからなさっぷりに振り回されてるともこさんが面白い。てろりと斜め読みしてきた人はぜひ、もう一度ゆっくり読んでみてほしい。このともこさんの文章、ちょっとないぐらいよくできているんです。なにが、といえば、「見れば見るほどわからなくなっていく」様が、これ以上ないぐらいの臨場感で書かれている。この作品、展示を見ていない人にも、ともこさんが翻弄されている様がよくわかる。
「まず説明が理解できない」のあたりからもう面白さが爆発している。
説明文を読んでみると、日本語に翻訳されているけれど、文章としてどこにも間違っているところはないし、特に珍しい単語が使われているわけでもない。それでいてわけがわからない。最高ですね。
そこから順を読んでいくと、次第に?の数が増えていく。
うんうん、と頷いてしまう。僕には作品の意図、展示会の意図も、これがどういうアートなのかもわかるのだけれど、ともこさんの「わからない」という意見はとてもよくわかる。
ここで重要なのは、僕は「僕にはわかるけどね」というマウントを取りたいわけではないということと、そもそもアートはわかるのがえらい、わからないのはえらくない、とかそういうもんではない、ということ。
今回は、これまでにも何度か書いている僕にとっての「アートとはなにか」という話から、こういうわけのわからないアートはどうやって楽しめばいいのか、という話をしようと思う。
ともこさんのnote には名言がどっさりあるのでそれを引用しながら書いてみようと思う。
どのような順序で書いていこうか本当に悩んだのだけれど、いきなり結論から書こうと思う。ともこさんのnote の結びはこうなっている。少々長めにまるっと引用してしまう。
ともこさんは「わからない」を抱えてぐらぐらしている。自分が思っていた「アート」に対する「固定観念」が揺らいでしまったのだ。
うんうん。わかるわかる。そしてざわざわする何かを抱えてしまった。脳のリソースの一部がこのことに支配されてしまった。
楽しくない?
これこそが、アートの面白さだと思うわけです。アートを楽しむというのはアートの文脈に沿ってその作品を論じたり解説したりすることではない。作品を見て何かを感じることそれ自体が「楽しみ」。いくつかの作品を見ただけでこんなにいろんな自分の認識が覆るような事態ってありますか?
そうそうあるもんじゃない。これがアートのパワーなのです。つまりこのアーティストが表現しようとしたもの、それはまさに今、作品を見たあなたの内側に去来したもの。なのです。
アートとはなにか
僕は分野を変えながらクリエイティブの世界で二十年以上仕事をしてきて、デザイナーやそれに類するクリエイターを育成する学校で教鞭をとったこともあるため、よく「アートとはなにか」という言語化を求められた。
おそらく多くのアーティストや芸術評論家、その他いろいろな権威がいろいろな持論を展開されていることだろう。僕の中で最もしっくりくるのは、「アートとは問題提起である」というもの。
これは僕がアートとデザインの違いを説明するときによく使っている表現で、「デザインが問題解決だとすると、アートは問題提起である」というイメージ。
これを念頭においてさっきのともこさんを翻弄したスタンレー・ブラウン氏の作品を見てみてほしい。
説明まで読むと何を言いたいのかよくわかる。説明自体は意味不明で、特に
などというのは僕の大好きなタワゴトの類である。が、にもかかわらずこの意味不明な文章と作品の写真をみることで、ここに表現されているものがわかる。
人は物の大きさをはかるとき、もともと自分の体と比較していたであろう。あの木まで何歩、この薪は肘から先と同じぐらい。しかしこういう方法はあまりにアバウトで、例えば「正午に木のところから太陽を背にして十歩進んだところ」といった具合に、インディ・ジョーンズの謎解きみたいな説明をされても、十歩って誰の十歩だよ、という話になる。これでは共通の尺度として使えないので、「単位」というものが持ち込まれたわけである。
ブラウン氏は特にメートル法を目の敵にしているようだが、おそらくは尺度そのものへの疑義であろう。人は脳が発達しすぎて他の生物から遠ざかり、脳の生き物になった。でも自分の体から遠く離れたわけのわからない単位を持ち込まれても、まったく実感できないのである。そんなものより俺の足だ。フットのほうが俺にはわかりやすいんだ。とまぁブラウン氏はそういうことを言っている。
ちなみにメートルの定義は本当にぶっ飛んだところからもちこまれているのでWikipedia から引用しよう。
だれがこんなことを思いつくのか。そもそも、1791年の測量技術で、北極点から赤道までの子午線弧長などというものがどのような精度で算出できたのか。さらに、1000万分の1の根拠は。
あまりにも身体性から遠いところで生まれたメートルなんてもの、僕は信じることができないんだよメーテル。ねぇ聞いてるの? メーテル!
取り乱した。
ちなみに上で紹介したメートルの定義はメートル法が制定された当初のもの。現在のはもっと意味が分からないのでこちらも紹介しておく。
…。この説明を読んで「そうか!それは納得!」と思う人いるのだろうか。その1秒のわけわかんない分の1の分母は、いったいなんなの?
ほらね。ブラウン氏の作ったわけのわからない表現がともこさんを迷宮へ誘い、迷っているともこさんを横から見ていた僕が勝手に巻き込まれてもっとわけのわからない世界を持ち出し、ここに大変な結論が見えてきた。
アートよりも現実の方が意味不明。
もう十二分にアートのなにが面白いのか、ブラウン氏の作品はどのように楽しむべきものなのか(というかそんなこと知るまでもなくわからなくて悩んでる時点で楽しんでいるわけだが)がわかってきたと思うけれど、もう一つともこさんが悩んでいた作品についても触れておこう。
表現とはなにか
ともこさんが翻弄された次なる作品について、先のnote にはこう書いてある。
ともこさんはこれを見て、
アーティストというのは得てしてこういう領域に行きがちというか、自らの手で何かを表現する、というのをある程度やってしまうと、自分の作品がどこまで行っても自分の可能性を超えないことに不満を持ち始める。それで他人とコラボしたりとかいう方向に行く人もいるわけだが、このように、「自分の意図」をとにかく排除して偶然性に身を任せる、という手法を採る人も多い。
少々解説めいた話になるのが不本意ではあるのだが、これがれっきとした作品である、という点を説明しようと思う。
「触れていない」「意図ものせていない」ただの汚れた紙。その辺に置いといて誰かに踏まれたりしたようなもの。偶然性が記録されたそれらは、まぁ言ってしまえばゴミである。
が、このゴミはブラウン氏の意図によってゴミにされたわけである。偶然性を「紙」に記録しようと考えたのは氏であるし、それを集めて展示しようと考えたも氏である。意図を乗せず、触れもせずに放置して「作られた」その紙を集めて展示することで、ただのゴミみたいなものが作品へと昇華されたのである。ここにブラウン氏の表現があるし、アートがある。
なんでこれがアートなの? と思う観客もいるだろう。同時に、「こういうアートもあるのか」と思う人もいるだろう。これを見たことで、アートっていったいなんだろう、と考える人もいるだろう。
現に、この得体のしれない表現はともこさんのこれまでブレることなどないと思っていたような何かを根底から揺らがせ、けっこうな長時間、考えさせ続けている。ものすごいパワーを持ったアート作品であることは疑いない。
アートの良し悪しとはなにか
アートとはかように楽しむものであるから、その楽しみ方は千差万別である。万人にとって素晴らしいアートというものは存在しない。しかし万人にとって悪いアートというのはある。それは、誰にも何も促さない作品である。見た人が誰一人なにも感じず、なにも考えさせられず、どんな感情の動きも生まれなかったとしたら、その作品には価値が無いと言って差し支えないだろう。
だが、アート作品として誰かが作っている以上、それに一人も、何の影響も受けないなどということはあり得ないだろうと僕は思う。つまり、本当に価値のないアートなどというものは、おそらくない。
ともこさんはここで紹介したnote であまりのわからなさに本当に悩んでしまい、大量の?に押しつぶされて悲鳴を上げていたわけだが、僕から見ると「めっちゃこの作品を楽しんでますやん!」という感じなのです。
きっと、アートがわからなくて悩んだり、自分には芸術を見る目がない、と投げ出したりしている人は少なくないと思う。そういう人たちにぜひ伝えたい。
アートなんてわかる必要なんかない。ただ、感じればいい。なにも感じなければ自分に合っていないだけなので放置しておけばよく。なにか感じるものに出会ったら、とことん感じればいいのです。わかろうとしなくていいし、作者の意図なども汲まなくて良い。誤解だろうとなんだろうと別によく、とにかく自分がなにを感じるのか、それだけが大切。
ざわざわする、どうももやっとする、みたいな感情も、それは「感動」なんです。もっと言えば、「イライラする」「吐き気がする」といったものも「感動」。
「なんだこれ?」って戸惑うような作品に出会ったら、「これか!これがアートか!!」と思ってほしい。そして、言語化して説明するのではなく、その「わからないっぷり」を楽しんでほしい。
だからアートは、やめられない。
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