逃がした魚とインテグラーレ
「涼雨さんには苦労してほしいんだよね」
もう二十年近く前、ある車を買おうとしていたわたしに、知人が言った。
ランチア・デルタ・インテグラーレ。ラリーで有名なイタリアのメーカー、ランチアの名車だ。名車というのはラリーで素晴らしい実績を持つ車であり、ランチアが脈々とつないできたラリー・カーの歴史を受け継ぐ集大成みたいな車だ、というような意味だ。わたしは今から十五年以上前、この車を買おうとしていた。
世田谷かどこかのインテグラーレ専門店へ足を運んだ。最終モデルであるEVO2が当時、300万円前後で出ていた。お店の人は、この車はもう生産されておらず、最終型は人気もあるので、買った値段より下がるってことはないですよ、と言っていた。
イタリア車と言えばフェラーリを筆頭に、ランボルギーニ、マセラティ、ランチア、アルファロメオ、フィアットなど、とにかく美しい。現在はこのうちランボルギーニ以外は実に全部フィアットグループである。(ランボルギーニはアウディの傘下)
さて、このランチア・デルタ・インテグラーレ。買うにあたってわたしはとにかく資料を集めた。解説書を買い、持っている人の話を聞き、販売店へ足を運んだ。買いたい気持ちは強く、あと一歩というところまで行っていた。
買ったのはこんな本。奥付を見ると2001年とあった。
この車を買おうとして最後まで引っかかったのは、故障が多いということだった。特に一番のネックはタイミングベルトだった。
タイミングベルトというのはエンジンの中に入っているベルトのことで、詳しい役割を説明するとややこしい話になるので省略するけれど、エンジンが動くためにものすごく重要な部品、と思ってほしい。タイミングベルトが切れるとエンジンは停まってしまい、切れているともはやかからない。
タイミングベルトはすべての車種にあるわけではなく、チェーン式のものもあるけれど、大部分はゴムでできている。そしてこのベルトはエンジンの内部にあるため、大変な高温にさらされる。ゴムが高温にさらされるので、劣化は避けられない。一般的な日本車のガソリンエンジンの場合、だいたい走行距離10万キロぐらいで交換する必要がある、とされている。
これが、インテグラーレの場合、2万キロごとと言われているのだ。理由が悲惨で、インテグラーレは強力なエンジンをコンパクトなサイズに無理やり押し込んであるため、設計にかなり無理があるのだ。特に、冷却に大いに問題があるため、タイミングベルトは一般的な日本車よりもより劣悪な環境にさらされる、らしい。そのせいで2万キロぐらいで交換したほうがいいですよ、というわけだ。
前述のように走行中にこれが切れてしまうとその場でエンジンが停止し、二度と動かなくなるため、レッカー移動&即修理工場行き、ということになる。しかもベルトはエンジンの中にあるので、エンジンブロックをあけないと交換できない。多くの車種でエンジンをまるごと降ろす必要がある。もちろん、この大掛かりな作業には莫大な工賃がかかる。
2万キロごとに莫大な工賃…
前述の本にはなんとタイミングベルトの交換方法まで載っている。でもエンジンを降ろさないと作業できないため、個人でやるのはあまり現実的ではない。
さらに、冷却効率の悪いエンジンというのはそれはもう問題を起こしやすい。
わたしに「苦労してほしい」と言った知人は、こういうよく故障するイタリア車みたいなのに乗って、その苦労話を聞かせてほしいんだと、言っていた。彼の知人でわたしは直接は知らない人がこのインテグラーレの古いモデルを持っていて、その人の「坂道上らなくて止まっちゃったから途中で置いてあとは歩いて行った」とかいうものすごいエピソードを聞かされ、わたしは二の足を踏み続けることになる。
仕事でも車使うしなあ…。
結局、わたしは悩みに悩んで、インテグラーレのある生活は諦めて、300万円弱で買える国産車を買った。知人には「ひよりやがった」と失望された。
その後、ロータス・エリーゼに乗っていたその知人は、フェラーリF355を買った。彼はいわゆる金持ちではなく、普通のサラリーマンであった。曰く、「人生のあれこれを全部捨てればフェラーリは買える」とのこと。「そのかわりおれは結婚もしないし家庭も持たないからね」と。
若かったわたしは、そういう生き方もいいなと少し思った。でも彼のフェラーリは燃費が1リットルあたり2km、自動車保険は年間80万円とかいう話を聞いて、やっぱりわたしの生きる世界じゃないと思った。
それから十五年ほどが過ぎ、「買った値段より下がることはない」と言われていたインテグラーレには1000万円近い値がついている。あの時買っておけば、と、少し思わないでもない。