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待宵の雨月

「残念でしたわね」

 北海道の冷たく静かな雨に濡れ、たちこめた霧の中を覗き込んでいると、和装の婦人が声をかけてきた。

「昔、霧の摩周湖っていう歌になったほどです。こんなにも見えないのは珍しいんですけど」

 婦人と僕が並んで見下ろしているこの霧の中に、摩周湖があるはずだ。

「菜の花の頃に降るこんな長雨を菜種梅雨と言いますけれど、催花雨という呼び方もあるんですよ」

「さいかう?」

「花を咲かせる雨という意味です。催花雨に濡れたから、あなたの前途にもきっと花が咲きますね」

 その言葉が僕の内側を撫でて、胸の底の方に留まった。

 旭川家具の工房で木工の修行を始めて三年になる。仕事はそれなりに順調だけれど、未来の展望は見えなくなっていた。

 僕が見ると婦人は微笑んだ。

 未来に花を咲かせる。忘れそうになっていた大切なものを思い出したような気がした。

 僕も婦人も、見えない摩周湖も、おなじ雨に包まれていた。

《了》

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