見出し画像

【個人的予選エントリーNo.1】寄付をしている事を言いづらい話

※一部項目内で感染症の正式名称を記載しているせいで冒頭に公式の注記が出ていますが、1ミリも関係無い話です。
※本記事は「キナリ杯」に参加する為の個人的予選の対象作品です。特に関連性も無くただのケツ叩きなので予選どうこうという事は無視して読んで頂いて大丈夫です。

寄付をしている事を言いづらい話

「寄付をしている事を言いづらい話」、読んで字のごとく、「寄付をしている事を」「言いづらい」という話である。

寄付、寄附、寄贈、援助、応援……名目は何でも良いが、「求めに応じて、もしくは既存の開かれた手段を用いて、金品あるいは物資を提供する行為」について、まとめて本記事では「寄付」と表記して進めたい。

「会った事ない人とか団体にお金とか贈ったって言いづらくない?」という話の「個人的な理由と見解」について、本記事ではつらつらと述べたいと思う。いや「この記事書いてるんなら言えてんじゃん?」という話なのだがそうでは無く、「広く言葉にして、(時には立場を含めて)表明する」という事がしにくい構造と、「それにまつわる悩み」について言語化したいと思う。


「お金を持っていない私たち」と金持ち叩き

恐らくこれを読んでいる人で「この記事を書いている人物は超が付くほどの富豪で、世のため人の為に寄付によって金を循環させる事は当たり前の事である」と思っている方は居ないと思うのだが、一般的なお財布事情が厳しい昨今、私も例に漏れず「所得が足りているとはお世辞にも言い難い身分」である。

かと言って生活が苦しい訳でもなく、様々な環境等の要因によって「余裕のある暮らし」が実現できているタイプの人間ではあるのだが、ホイホイ寄付をして痛まないレベルの収入を得ている訳でもなく、「コツコツ貯金をする事が可能であったこれまでの運」と「堅実かつ無欲な己の性格」が功を奏した結果、一時的な寄付が可能となっている状態である。

今様々な人がCOVID-19から巻き起こる一連の流れによって金銭的に過酷な状況にある中で大変心苦しいのだが、「収入が途絶えてもしばらくは不安なく生活できるレベルの金銭」が「運よく私にはある」ので、寄付をする事が出来るという事である。これは才能でも私の努力でも無く、ただただ運である。

「寄付の表明がしづらい」というのは今回の感染症が発生する以前から感じていたものだが、そもそも今の日本では金持ちへの当たりが強い。勿論だからといって金持ちでない層への当たりが穏やかな訳では決して無いのだが、万が一「金持ちと判断されれば、周囲からの当たりが強くなるのでは?」という懸念はゼロではない。
これは周囲の人間関係どうこうでは無く、例えば「Twitterで金持ちというレッテル(ではないはずなのだが)をイメージとして貼られた」場合、「そう思い込んだ人々が無意識下で私の言動に対してバイアスを持って見るようになる」という事である。そもそも金銭に関する格差やコンプレックスがこの世になければ起こりえないし、その思考が無い人への表明は全く問題無いのだが、とにかく「むやみやたらに胸を張って寄付の事実を表明する事が憚られる理由」の一つとして確実に作用している。

※本記事において「日本では」と表記しているのはあくまでも書き手である私が日本の事しか知らない為であり、「日本以外はこんなじゃないんだもーん!!」と激おこぷんぷんして言っている訳では御座いません。よって「海外でもありますけどぉ!?」という指摘が来た場合は全て極秘の手順により水洗トイレに綺麗に流しますのでご了承ください。ところで激おこぷんぷん(丸)はもう死語だったりしますか?だとしても積極的に使っていきたい。

「貯金が趣味な人間」と乙女座

そもそもの話なのであるが、私は「貯金が趣味」と言って差し支えないタイプの人間である。これは単純な話で、ファンが推しにお金を掛ける様に、私は銀行にお金を入れているのである。果てしなく語弊のある言い方をすれば、「推しが通帳」なのである。通帳の記載数字を高める事が推しへのアピールであり、己が生きる原動力になるという事だ。

※例えとして「推しが通帳」と表現したが、最近はろくに触らずに生きており通帳を何処にやったか首を傾げてしまう位なので、本当に切実に通帳を愛して止まないコレクターなどの方々にはこの場を借りてお詫びを申し上げたい。

つまり私は息を吸うように貯金をしており、貯金無くしては人生が立ち行かないのである。世の中には「いくら稼ごうとも宵越しの銭は持たない」という生き方をしている人々も居るが、私は「貯金が出来ない生活を脳内シュミレーションしただけで倒れそうになる」位には貯金を心の糧として生きている。もし運が悪く貯金が出来ない環境で生きていたら、水を奪われた魚のごとくみるみるうちに弱って死んでしまうに違いない人種の人間なのだ。

「貯金をする」という目的が先にあり、「何に使うか」は決めていないのである。「これ位は残しておきたいな」という希望はあるしドカンと減れば落ち込むが、「使途未定」のお金が常にあると言って差し支えない。

とはいえ「使途未定」のお金があったとして、「寄付をする事が強く根付いている訳でも流行っている訳でもない」国において「そのお金を寄付に優先的に使う」のは一般的とは言えないと思う。では何故私は寄付をするのか。何を隠そう私は乙女座なのである。

「ハァ~~何かと思ったらスピリチュアルかよ。読む価値ナシ。ハイハイ」と思った方にはここで脱落していただき、残った方々にこれからの文章をお楽しみ頂きたいのだが、乙女座には「ギブ(give)をしないと息が吸えなくなって死ぬ」という傾向がある。(※と、色んな媒体で読み、私も首がもげるほど頷いた)

※give=与える、贈るなどの意味を持つ英語の語句。「ギブアンドテイク」の「ギブ」の部分。


「give!give!give!ああ!!give出来る場所は無いの!?」と思ったその先に、寄付が浮上するという事である。giveさえ出来れば生きていけるので見返りは必要無く、そういった意味でもとても都合が良くwin-winなのである。これだけ書くと寄付の優越感を得る事で上位に立ちたいと取られかねないがそうでは無く、過酷な境遇で苛まれている人々に関係なくとも過剰に共鳴してしまい、自分が出来る事を血眼で探すという事である。(なのでgiveできないと過呼吸で死ぬ)
恐らくシンパシーではなくエンパシーと表現する方が適切だと思うが、私は「そう言った傾向」と「使途未定の一定の金銭」が奇跡的に重なり合い寄付を行っているのであり、べつに偉くも何ともないと考えている。しかしながら「寄付をする事は偉くて尊い」と一般的には考えられていると思うので、「寄付の事実をもって偉いと思われたくない私」は「偉いと思われがちな寄付をしていると言いたくない」のである。

「全日本自己責任大会」における「寄付が偉い」という価値観

そもそも寄付という行為が「偉い、尊い」とされる理由というのは、「普通はしないよね」という概念があるからだと私は考える。勿論、「全ての当たり前な行動を褒め称える生きやすい社会」であれば「普通の事も全て偉くて尊い」ので寄付をして褒め称えられてもこの限りでは無いと思うのだが、少なくとも現在の日本は「全日本 我慢・叱責・自己責任大会」を日々繰り広げているので、この場合における偉くて尊いという評価は今回の例外には当てはまらないと私は考えている。

これは全く関係のない事だが、私は過去に集まりに遅れた際に「(選挙の)投票に行ってた」と言ったら「偉い~!(行ってない)」と言われた事がある。
やや話がズレたが、とにかく私は「私が当たり前と思っている事柄で偉いと評価されたくない」と思っており、恐らくその線引きは各々あるとしても、大抵の人間はそういった考えを持っていたり、意図せぬ所で褒められて肩透かしを食らったりしてきた経験があるのでは無いかと思う。「私以外の人間への評価はどうでも良いが、私をそれで評価するな」という話である。

※「私が当たり前と思っている事柄で偉いと評価されたくない」というのは、「私が」「それによって」「他者から」「評価されたくない」という事であって、「寄付をしている人やそれを評価している人を見下すぞ!(ぷんすこ)」という事では無いので、ここに関するご意見を表明される場合はご留意ください。

「寄付が出来ない」事で卑下する人たち

私はたまたま「寄付が可能な使途未定金がある」人間だったが、仮に「寄付したいのにお金が無くて出来ない」という人が居て、更に運悪くその人に卑下する傾向があった場合、「寄付も出来ない私なんて」と卑下が発生し自己肯定感の損失に拍車を掛けかねない。

「そんな事まで想定したら何も言えねえよ!」と思う方も居るだろうが、これまでの様々な理由を含めてメリットが何1つ無いのである。卑下癖があるというのはとても辛く苦しく改善するのも中々茨の道のりなのだが、これは見方を変えれば「卑下の材料(養分)として利用される」という事で、「そんな事に利用すんじゃねえ!!(訳:自分を卑下して苦しまないで!><)」という気持ちになるのである。

勿論まだ私が表明した事は無いので、少なくとも私を起点としたその様な二次(?)被害は発生していないはずなのだが、「そういった人々が発生するであろう事は想像に難くない」ので言いづらいのである。(発生すらしていないので、予測によるエンパシーに振り回されているとも言える)

本当は「寄付の無い社会を目指したい」

ここまで敢えて言わなかったのだが、寄付の表明でメリットがあるとするならば「親しくしている人が寄付していると知って自分もしよう!と決意する」というバトンの効果を発揮したりとか、「辛く苦しい日々だけどこうして支えようとしてくれている人が居ると噛みしめ心の支えにする」という心理的な援助の面があると思うのだが、そもそも私は寄付というシステムが「この世に不必要になる方がこの世の為であり健全な社会」だと思うので、「寄付バンザイ!良かった!サイコー!」という方向に偏りすぎるのはそれはそれで良くないと思うのである。

勿論、実際問題として今は寄付が無いと回らない所が非常に多くあるし、むしろまだまだ足りないのが実情だと思うのだが、「そもそも何で個人の財布と意思に頼った援助が必要なんだっけ?」という根本の問題そのものも無視してはいけないと思うし、そのまやかしに「寄付バンザイ(素晴らしいパチパチパチパチ大拍手)」をしているのだとしたら罪深く赦されない行いだと思う。

※「寄付をしている人やそれを評価している人を見下すぞ!(ぷんすこ)」という事では無い(以下略)

私が今、寄付行為について大っぴらに語らないのは「皆お金ないよね」という仲間意識、「寄付は偉くて尊いよね」という特別視、「寄付で助かって良かった!(めでたしめでたし)」という問題を直視せず臭い物に蓋をする思考という3つの価値観が世間の風潮としてある(と勝手に思っている)ので表明したくない、というお気持ちがあるからという理由が言語化する事で明確になった。
今後これらの状況が変わるか、あるいは逆にもっと酷くなって寄付の意義を声高に主張しなければならない危機に陥った時には、もっと身近なところで寄付について表明したり発信したりするかもしれないが、今はまだ何も分からない。

4600文字を超す、この無駄に長い文章を読んだあなたに、「読んだ時間なりの何か」がある事を祈りながらこの記事を書き終えたいと思う。