No.14 “石丸富太郎”はなぜ面河を広めたのか?
皆さまこんにちは。飼っていたスジクワガタが臨終し、傷心中の面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回は、少し趣向を変えて本組地区の橋をいくつか紹介させていただきました。
(前回記事はこちら↓)
今回は、以前面河村の成り立ちについてご紹介した際に登場した、「石丸富太郎」氏について掘り下げていきたいと思います。
小学校の一教師でありながら、面河渓観光の第一人者であった彼の人生は、どのようなものだったのでしょうか?
生誕から師範学校まで
石丸富太郎氏(以下、本記事では富太郎先生とします)が生まれたのは、愛媛県温泉郡重信(しげのぶ)町拝志(はいし)村の上村(うえむら)。明治19年(1886年)1月4日のことでした。現在、重信町は隣の川内町と合併し、東温市となっています。(以前紹介した重見丈太郎氏も重信町の出身。重信町と面河とは切っても切れない縁があるのかもしれません。)
そんな彼が進んだのは教育者としての道。14歳の彼は愛媛県立師範学校(現在の愛媛大学教育学部の前身)に入学しました。
設立当初は、高等小学校卒業の場合4年制だった師範学校ですが、富太郎先生は18歳で教師となっており、ストレートで卒業されたことが伺えます。(※1)
教師として面河へ
そんな彼の初めての赴任先は杣川(そまかわ)村、現在の面河地区でした。
明治36年(1903年)、18歳で愛媛師範学校を卒業し、初めて赴任したのは笠方尋常小学校とのこと。規模は大きくなかったのかもしれませんが、訓導兼校長として赴任されており、ここから彼の優秀さが垣間見えますね。
彼は、大成尋常小学校、渋草尋常小学校などでも校長を務めており、長年杣川村・面河村で教鞭(きょうべん)を執っていたようです(諸説あり・※2に詳細)
海南新聞への投稿
明治時代に入り、地元新聞紙上に、面河渓の紹介記事が掲載されるようになりました。その時期に、最も力を入れて投稿活動を行っていた人物こそ富太郎先生でした。
富太郎先生が投稿を行っていたのは海南新聞。現在の愛媛新聞の前身となります。彼は面河の景色を素晴らしいと考えていたそうで、その際には「小波(さざなみ)」というペンネームを用いていました。
また、投稿だけでは影響力が少ないと考えていたのか、海南新聞の編集長であった田中蛙堂(たなかあどう・一部資料ではけいどう)の元を何度も訪れ、面河渓のすばらしさを説明しました。そうして、面河渓の熱心な調査を促し続けたのです。
面河探勝団の実現
そんな富太郎先生の熱心な説得に心を動かされた蛙堂さん。彼は松山を中心に、詩人・画家・登山家・写真家など、あらゆる方面で活動されている著名人を誘い、蛙堂さんを含む9人で実際に面河渓を訪れることになりました。
この9名こそが面河探勝団。当時は徒歩の道しかありませんから、松山から黒森峠を通り、渋草・若山でそれぞれ宿泊してから面河渓に入るという、途方もない道なりだったようです。明治42年(1909年)10月20日のことでした。(探勝団の詳細はまたいつか。)
旅を終えた後は、「面河探勝の記」(5回連載)、版画(6回掲載)、漢詩(5回掲載)、「面河探勝句録」(4回掲載)と、次々と面河渓に関する連載がなされました。
このことがきっかけで、面河渓は全国の文人墨客に知られるようになりました。彼の熱心さが、面河渓の名を人々に知らしめたのです。
富太郎先生の招いた著名人
富太郎先生の働きかけにより面河探勝団の来訪が実現し、世間に知られるようになった面河渓。その後は何人もの著名人たちが面河渓を訪れるようになりました。富太郎先生はその際、宣伝を行っただけでなく、実際に彼らを連れて面河渓を案内していたことがわかっています。
その中から明確に富太郎先生が案内していたことが判明している方を、少しだけご紹介します。
巌谷小波(いわやさざなみ)
生没年・明治3年(1870年)~昭和8年(1933年)
来遊年月・大正15年5月
中川梅吉の旅館(当時は若山)に宿泊。大看板に「中川紅緑館(こうりょくかん)」の文字を書く。(一説ではこの名をつけたとされる)のちに、小波の書いた看板があるということで多くの著名人が宿泊するように。昭和5年8月の海南新聞には、富太郎先生と映る写真が掲載されている。
「獅子岩や 波さながらの 白牡丹」
「ちょんからと 橋にかかるや 夏の月」
国分青厓(こくぶせいがい)
生没年・安政5年(1858年)~1944年(昭和19年)
来遊年月・昭和2年11月8日
仙台産まれの漢詩人。11月18日に9名で面河渓に来遊。富太郎先生の案内で来遊し、若山の中川紅緑館で宿泊する。
「王母峡(その一)
霊区久悶海南陲 千壑萬峰驚眼奇
蚊窟欲移寒水痩 蜂巣倒掛断崖危
月明王女驂丹鳳 世乱仙人釆紫芝
四海栖々吾己矣 高歌行与白雲期」
江見水蔭(えみすいいん)
生没年・明治2年(1869年)~昭和9年(1934年)
来遊年月・昭和9年10月
個人雑誌「小桜縅」などを発行した作家。墨一色の俳画を得意としていた。講演と俳画頒布を兼ねて愛媛県下を巡っていた最中、巌谷小波から話を聞いていた面河渓に来遊した。
「一面の 紅葉千年の 奇峯かな」
「世界無二 二千古不滅の 紅葉岩」
昭和9年10月24日。江見氏は柳谷村での講演の途次、面河渓を探勝していた。ところがその夜、公会堂で卒倒。松山市の城戸屋旅館で療養するも病状が急変し、10日後の11月3日午前11時30分に同旅館で客死した。
彼を慕っていた歌人で、面河渓への来遊経験もある吉井勇は次の句を残している。
「われもまた いづれは旅に 死ぬる身の 涙わりなく 流れぬるかな」
「若き日の 師ともたのみし 大人(うし)の死に 旅に会はむと おもひかけきや」
その後の富太郎先生
富太郎先生は、面河探勝団が来渓した際も含め、面河渓内の奇岩や滝、渕、渓流のひとつひとつに、皆が親しみやすくなるような名前を付けていきました。そのほとんどが今も残っており、令和の現在でもガイドやパンフレットによって紹介されています。
富太郎先生はのちに教職を去り、これまで寄稿を続けてきた海南新聞の記者となりました。その場所でも面河渓の宣伝に努力を惜しまなかったといいます。
また、晩年には松山市議会議員としても活躍し、面河だけでなく、県都である松山市の発展のためにも貢献されたそうです。
昭和24年(1949年)9月24日、68歳でその生涯を終えるまで、富太郎先生は面河・松山の発展に尽力されました。
昭和49年(1974年)5月、彼の功績をたたえた顕彰碑が面河渓・関門に建てられたそうですが、昭和55年(1980年)時点で、流水のため行方不明となっているのだとか。
まとめ
今回は”面河”の名を世に知らしめた石丸富太郎先生の軌跡を追っていきましたが、いかがだったでしょうか?
特に昭和の世では一大観光地として知られていた面河渓ですが、調べれば調べるほど、一教師の生涯をかけた努力によって、それが現実となっていたことがよくわかりました。
18歳の若さで山奥の小学校の校長となった富太郎先生。今の日本ではまだ大学1年生の歳ですから、心細いこともきっとあったことでしょう。
そんな時期に出会った面河渓の景色だったからこそ彼の心を打ったのかもしれませんし、その若さとクレバーさ、そして行動力が重なったことで、面河渓の宣伝を成功させることができたのだろうと思います。
もし、面河渓を訪れることがありましたら、そんな彼の尽力があって今の面河渓観光があるのだと、思いをはせていただけますと幸いです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
【注釈一覧】
(※1) こちらは「石鎚山と面河渓の歴史 その手引」に書かれてあった「明治三十六年~小学校教師としてこの地に赴任した」「僅か十八才の若さで」の文言と、当時の師範学校の形態、巻末の「杣川村大成尋常小学校歴代校長」から割り出している。
なお、「面河村誌」では14歳で大成小学校教師として勤めた後に、愛媛師範学校に入学。明治38年(1905年)3月に優秀な成績で卒業とある。
両者を統合しようとすると、3年ほど赴任時の年数に誤差が生じる他、大成で教師・学校長を務めながら学校へ通っていたこととなり、卒業時の年齢も一致しない。
よって本記事では、誕生日などの詳細な情報以外は前者を採っている。
(※2)「石鎚と面河の文学 ―山と渓に魅せられた人々―」では「笠方尋常小学校の訓導兼校長として着任」とあるが、「石鎚山と面河渓の歴史 その手引」の巻末「杣川村大成尋常小学校歴代校長」は同じく明治36年からスタートしており、初代校長として彼の名が記載されている。
また「面河村誌」では渋草尋常小学校とある。
現時点で断定することができないが、本記事では明確に「着任」と書かれており、比較的新しい資料にあった笠方尋常小学校を採っている。
【参考文献】
・石鎚山と面河渓の歴史 その手引(1970年・中川愛美)
・面河村誌(1980年・面河村)
・石鎚と面河の文学 ―山と渓に魅せられた人々―(1991年・中川鬼子太郎、和田魚風)
・石鎚の聖流郷おもご 2003面河村村政要覧(2003年・面河村)
・師範学校 - Wikipedia