No.6 ”重見氏”が黒森峠を越えた理由は何か?
皆さまこんにちは。ワンちゃんよりも猫さま派、面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回、面河の地名の変遷についてお話させていただきましたが、その中で「面河村」への改称を提案した人物を覚えていますでしょうか?
(前回記事はこちらから↓)
そう、「重見丈太郎(しげみじょうたろう)」氏です。(前回も補足したように、厳密には「丈」の右上に「`」が付きます)
丈太郎氏は、面河地区にさまざまな革命をもたらした人物です。
実は彼、もともと面河産まれの方ではなく、お父様の「重見盛蔵(もりぞう)」氏とともに、黒森峠を越えて面河へ入山された、今でいう移住者でした。
今回は、重見親子が面河地区で実現したことの数々に触れながら、なぜ面河にやってきたのか?そしてなぜ面河地区の発展に尽力されたのか?可能な限り考察していきたいと思います。ぜひ、お二人の伝記としてお楽しみください。
なお、本記事は丈太郎氏のお孫さんにあたるお2人、Tさん(S23年生まれ)・Jさん(S32年生まれ)監修のもと作成しております。
杣川村への入山
重見親子の生まれ故郷は温泉郡南吉井村牛渕。現在の東温市牛渕にあたります。安政元年(1854年)生まれの盛蔵氏は、もともとこの地で商人として過ごしていたようです。
丈太郎氏が生まれたのもこの牛渕で、明治17年(1884年)のことでした。(本当に偶然ですが、2024年は盛蔵氏の生誕170周年、丈太郎氏の生誕140周年の年にあたります)
盛蔵氏は明治25年(1892年)(※1)、当時8歳の丈太郎氏を連れて、黒森峠を越えた先のとある村へ入山しました。それが杣川村、現在の面河地区です。(なおTさん曰く、丈太郎氏のお子さんのうち、少なくとも2人は南吉井の小学校に通われていたとの事。ですので、入山後も2拠点で生活されていたと考えられます。)
この時に杣川村・渋草へ腰を据えた彼は、その商才を活かし様々な事業にとりくみました。
杣川の産業革命
盛蔵氏は手始めに、酒の販売業に着手。温泉郡川之内から清酒を仕入れて、その小売りを始めました。(もともと酒の販売業に従事されており、18歳の頃から杣野村や大味川村を訪れることはあったようです。)
のちに酒造業に転換し、渋草地区・竹ノ谷の水を利用した自家醸造「おもご正宗」を販売。丈太郎氏も盛蔵氏の跡を継ぎ、この酒造業に取り組みました。
この時、仕入れや販売のための幹線道路として機能していたのは、彼らが杣川村へ入山してきたのと同じ「黒森峠」となります。
彼らの事業によってこの道路は頻繁に利用されるようになり、松山方面との交易が盛んになりました。馬の背に物資を乗せて運搬し、輸送路として活用され、“シルクロード”のように発展していったのです。
次に彼らが着手した事業は発電・製材業。盛蔵氏がその基礎を成し、大正12年(1923年)に丈太郎氏と、同時期に入山していた八木胤愛氏が、共に「面河電気物産株式会社」を立ち上げたことから始まりました。
詳細はわかりませんが、割石川の水力を利用しながら発電を行い、それを製材に利用。そこでできた木材の販売を行っていたと思われます。(余った電力は、役場・巡査駐在所の点燈、芝居・活動写真(映画)などの興行にも利用されたのだとか。)
特筆すべきは、面河の一般家庭に電気が引かれたのは昭和12年(1937年)であるということ。つまりは、一般家庭に電気が灯る14年も前に電力を活用していたわけですから、いかに革新的な事業であったかが分かります。(Jさんのお話では、丈太郎さんは新しいもの好きだったようです。また、あまりにも早すぎたせいか電気事業法違反となってしまい、昭和9年に広島逓信局から電力供給の停止、および仕末書の提出を求められたというエピソードが残っています。)
重見親子の始めたこれらの事業は、都会である松山近辺との交流を生み、物資のやりとりを生み、貨幣の獲得へとつながり、ついには新たなエネルギーの導入にまで発展していきました。
まさしく彼らの存在が、杣川村に産業革命をもたらしたのです。
行政・政界での活躍
二人には商人としての顔の他に、政治家および行政のトップとしての顔もありました。
盛蔵氏は明治38年(1905年)に助役を務めました。また、同年に杣川村村議会議員となったのち、明治44年(1911年)には上浮穴郡郡会議員に、杣川村から選出されています。
丈太郎氏は、大正7年から昭和17年までに村議会議員を計6期務めました。昭和6年(1931年)からは第17代村長に就任、その後も昭和17年、30年、35年に当選し、計4回村長を務めあげました。
他にも大正9年には助役1期、昭和27年には教育委員長も1期担当するなど、数々の重役を担いました。
議員時代、丈太郎氏が熱心に取り組んだのは、やはり黒森峠の開発です。現在こそ松山から砥部町・久万地区・美川地区を通過し、本組地区から面河へ入るルートが主流ですが、かつては東温市側から黒森峠を通って、笠方地区から面河へ入るルートがメインロードでした。
大正9年11月3日、道後平野における善通寺第十一師団の演習 に参加していた陸軍工兵隊が来村。およそ100間(約181m)にも及ぶ掘削作業や、ダイナマイトを使った突貫工事によって、黒森峠の山村道を整備したそうです。(村の人たちは初めて見るダイナマイトに驚いたのだとか。)
なぜ軍隊が仰々しくやってきて、このような大掛かりな工事が実現したのかというと、丈太郎氏がその手引きをしていたからです。
明治34年(1901年)頃に、愛媛県立西條中学校を卒業した丈太郎氏は松山歩兵第二十二連隊へ入営。のちに陸軍予備役歩兵中尉となった彼のツテによって、この工事が実現しました。
議員としての立場を得た彼が、自身の人脈と行動力をフルに生かし、面河地区開発に取り組んでいたことがわかる面白いエピソードですね。
彼は村長時代にも様々なことを実現していますが、その中でも大きなものを2つ紹介します。
一つ目は面河ダム関係の要望書の作成・提出。国や愛媛県と数年にわたって協議を重ね、水没する笠方地区の住民の方への十分な補償を要求し続けました。
最終的に、個人補償額3億2800万円(令和元年基準で19億円以上の価値!(※2))を確約させるという偉業を成し遂げたことは、晩年における最も大きな仕事だったと言えます。
もう一つは前回お話した通り、杣川村を面河村へと改称したこと。これにより観光地と地域を一つにまとめ、「面河」のブランドイメージを作り上げました。
そのことが、面河地区はもちろん、当時の上浮穴郡の発展にとっても大きな推進力となりました。(改称についての詳細は、前回記事をご覧ください。)
観光資源の開発
先のできごとからもわかるように、丈太郎氏は面河地区の観光業を大変重要視していたようです。
昭和3年(1928年・当時は村会議員だった)には、面河渓に現在も遺る「渓泉亭(けいせんてい)」の建設を開始。2年後の昭和5年(1930年)に完成しました。
郡内でも、自動車用の道路はまだ限られた数しかない当時に、モダンな2階建ての洋館を創ろうという発想が出てきたことに驚きですし、それを完成させた行動力と人脈もはかり知れません。
大正期以降、面河渓には多くの文人墨客(詩人や書画などの風流に親しむ人たち)が訪れたと言いますが、この渓泉亭にも有名人が宿泊したというお話があります。終戦直後までは一般の方が大勢訪れる場所ではありませんでしたが、裕福な方や進駐軍が来訪して宿泊していたようです。
その後、昭和30年代から道路の整備が始まり、マイカーで多くの観光客が訪れるように。その時代を経て、平成14年に当施設を運営していた伊予鉄道によって面河村に寄贈されるまで、多くの観光客の拠点として活躍していました。
令和現在、宿泊施設としては利用されていませんが、キャニオニングなどのイベント拠点として活用されています。また、東屋として昭和20年頃に併設された面河茶屋は、現在も営業されています。
90年以上未来の面河でも、観光資源として活用される渓泉亭を生み出したことは、面河の観光史上での重要なできごとだったと言えるでしょう。
丈太郎氏による観光開発を語る上でもう一つ外せないのは、大面河観光協会会長を務められたこと。
昭和30年(1955年)に設置されたこの協会は、面河渓はもちろん、石鎚山やその他上浮穴郡内にある名所のPRにも力を入れていました。
丈太郎氏没後の昭和43年(1968年)には上浮穴観光協会と改めていますが、現在の久万高原町全体における観光事業の基礎を成したといっても、過言ではないでしょう。
当協会は、「面河渓・石鎚山 探勝の栞」をはじめ、書物の発行や、地図の作成・配布などを行っていたようです。
こちらの本が発行された、昭和33年当時の会長は新谷善三郎氏となっていました。そこから考えると、設立した昭和30年~昭和32年頃の約2年間、もしくはそれより後から亡くなるまでの最大4年間ほど務めていたと考えられます。(文面からすると、後者の最大4年間だったのではないかと思います。)
どちらが正しいかはわかりませんが、いずれにしても晩年まで面河の観光開発に尽力されていたことは証明できます。
また余談ですが、新谷氏は丈太郎氏の葬儀に"友人代表"として参加されていました。このことからも、友人たちと協力しながら、最期まで面河渓の発信に尽くされていたことが分かります。
まとめ ~重見氏が黒森峠を越えた理由は何か~
こちらは面河村誌P121において、八木胤愛氏と重見盛蔵氏の入山について触れている項の冒頭です。
これを読むとわかるように、盛蔵氏が牛渕より遠路はるばる杣川村まで入山してきたのは、未開の地である杣川村に商機を見出したからでしょう。
実際に盛蔵氏、そして丈太郎氏は様々な事業を成功させ、杣川村や上浮穴郡において重要な存在となっていきました。
初めはただ商機を求めて、何もない農村だった杣川村へ入山してきたのかもしれません。ただ、その何もないことこそが彼らにとってのメリットだったのではないか?と私は考えています。
新しいもの好きだったという丈太郎氏や盛蔵氏にとって、道路を開いたり、水力発電を導入したりできる未開の地、杣川村というフィールドは、この上ない魅力的な場所だったのではないでしょうか?
自身のアイデアや、それを実行する行動力、それまでに築いてきた人脈をフル活用して、どんどん発展させられる楽しさや喜びのようなものを、この村で感じられたのでしょう。
そして晩年まで面河に残り、観光開発を進めた理由。それは、他でもない面河渓や村の美しさだったのではないかと思います。
丈太郎氏のご子息である庄三郎氏も、お父さんと同じく新しいもの好きだったそうですが、当時の面河では珍しかった「カメラ」を購入されていた、というエピソードがあります。
そんな庄三郎氏が撮影された写真は、当時の面河の様子を知る貴重な手がかりとなっていますが、やはり面河渓の写真は多く残っています。
その写真には、丈太郎氏が映っているものも多くあり、きれいな洋装に身を包んだ丈太郎氏の姿を見ることができます。
面河渓は、その服装にふさわしい場所であると考えていたのかもしれません。
初めはただ商機を求めて、ただお父さんに連れられて、はるばるやって来たのであろう面河。
ところがそこは、自分たちの「やりたいこと」をひたすら追求できる場所だった。
そして、それを生涯続けたいと思える美しい景色が常に周りにあった。
重見親子が黒森峠を越え、面河の発展に生涯を賭けた理由は、このようなものだったのではないでしょうか。
丈太郎氏が亡くなった翌年の昭和39年(1964)年。旧面河中学校の寄宿舎・若葉寮前に、重見丈太郎氏の胸像が建立されました。その後、2回ほど設置場所は移動したものの、菅広綱氏の胸像と共に、現在も面河住民センター前に並んでいます。
その胸像の前に立つと、彼らが面河に持っていた情熱が改めて思い返されます。そして、それに追随する勢いでこれからの面河と向き合っていきたいな……と思わされるのです。
そんな思いを吐露させていただいたところで、本記事を終えたいと思います。
最後に、本記事で触れたできごとをまとめ、丈太郎氏の生涯年表を作成させていただきました。ぜひご覧いただけますと幸いです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
【注釈一覧】
(※1)面河村誌のP121では「明治23年頃」となっていたが、P206では「明治25年」と断定されていた。また、Tさん宅で見せていただいた資料(丈太郎氏没後に新聞で掲載された略歴)でも、”8歳で入村”の文言が確認できる。よって本記事では、「明治25年に入村」と統一した。
(※2)参考文献中のサイト「日本消費者物価計算機」にて算出。CPI(消費者物価指数)を基準としている。
【参考文献】
・面河渓・石鎚山 探勝の栞(1958年・大面河観光協会)
・美川二十年誌(1975年・美川村)
・面河村誌(1980年・面河村)
・閉村記念誌 刻を超えて(2004年・面河村)
・えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ―久万高原町―(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)(2013年・愛媛県教育委員会)
・日本円貨幣価値計算機 (yaruzou.net)
・その他、Tさん所蔵のアルバムや資料など