No.17 なぜ電話番号1ケタで通話できたのか?
皆さまこんにちは。ガラケーへの憧れが強すぎて、スマホ世代なのに最初の携帯がガラケーだった、面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回は、夏休み昆虫大特集ということで、カブトムシ・クワガタムシの面河地区での呼び名を調査していきました。
(前回記事はこちら↓)
さて今回は、こちらの写真からご覧いただけたらと思います。
こちらは、面河地区にお住まいの方なら見たことがあるであろう、渋草地区にある大西旅館跡。
この大西旅館の看板、子どもの頃から疑問だったことがあり、ぜひ皆様に見ていただきたかったのですが……
残念ながら夏の元気な草たちに覆われてしまっていました。
ですので、代わりに旅館の玄関側にある小さな看板をご覧ください。
この札の左下を拡大すると……
「電話九番」の文字が確認できます。
個々人に携帯電話が普及した現代からは考えられない数字ですが、なぜたったこれだけの番号で通話が可能だったのでしょうか?
今回は面河村誌を頼りにこの謎を探りつつ、面河地区で電話が普及するまでの歴史を見ていきたいと思います。
電信および電話事務の開始
時は昭和3年(1928年)。今から96年前の12月に、当時の面河村長・菅広綱氏より、次の議案が杣川村会(のちの面河村議会)に提出されました(※1)
それが「電信及び電話通話事務開始に関する寄附申込の件」という内容。
要は、「面河地区の中でも電報や電話連絡をできるようにしたいのだけれどどうでしょう?」というお話が、この時持ち上がりました。
またこの議案には、渋草郵便局がその業務を開始する場合、創設費8058円のうちの7割に当たる、5670円を杣川村から寄付するという内容も盛り込まれていました。(※2)
当時の電話は、現在のように直接相手の電話に繋がるのではなく、「電話交換所」を通じて、交換手によって手動で線が繋がれていました。
この頃、通信関係の中心を担っていたのは郵便局でしたので、面河地区では渋草郵便局がその役割を務めるということが、この時決まったというわけです。
かくして面河地区にも電話が導入されることとなり、5年後の昭和8年(1933年)3月6日より、通話が可能となりました。
全国では明治23年(1890年)12月に東京と横浜で、上浮穴郡では大正9年(1920年)7月から電話業務をスタートしていますが、やや遅れつつもそれらに続く形となりました。
電話の普及と1ケタ番号
導入後、最初の加入者は次の2台でした。
面河村役場 一番
面河郵便局 番外
これを見れば、交換所となっていた郵便局と、行政の中心であった面河村役場にいち早く導入されたことが分かります。
そして施設名の横にある番号。これこそが当時の電話番号なのです。
これにより電話番号が1ケタだったのは、「面河郵便局を拠点とした村内施設に、設置順に電話番号が割り振られたためだった」ということが分かりました。
当初はこの2台で運用されていましたが、少し時間を空け昭和17年(1942年)から昭和27年(1952年)の間に、少しずつ台数が増えていきます。
二 番 農業会(面河村)
三 番 営林署杣野担当区官舎
四 番 パルプ工場(中川ハツ)
五 番 森林組合(面河村)
六 番 福見屋(中川行次)
七 番 森尾猪十郎
八 番 大野善太郎
九 番 大西旅館
一〇番 上浮穴郡食糧事務所面河支所
役場以外の行政機関や工業・商業施設に少しずつ導入されていきながら、7番以降では一般家庭にも置かれ始めたことが分かります。
ちなみに面河村誌では、導入速度について「まさしくスローテンポ」と評されています。電話開通後19年で10台の導入というペースを考えると、確かにゆっくりとした速度で導入されていったという認識で間違いはないでしょう。
そして冒頭に登場した、大西旅館の文字がここで登場しています。
「電話九番」は、面河村で9番目に電話が設置され、割り振られた番号だったというわけですね。
後述する台数推移と照らし合わせると、大西旅館に電話が設置され、あの看板が現在の形になったのは、昭和20年以降27年以前であることが分かります。(※3)
電話自動化の時代へ
ここまでスローテンポだった導入速度ですが、これ以降は一気に早まっていきました。
交換台についても1台で運用していましたが、電話の加入台数が100台を超えた昭和42年(1967年)3月には、2台が新たに設置されました。(※4)
そのわずか6年後の昭和48年(1973年)10月、村内の電話が全て自動化され、交換台を介する時代は終わりを迎えました。
手動の電話交換台に代わってトレラー式自動電話機が渋草・土泥(とどろ)地区の古宮跡に設置され、面河村誌発行時(昭和55年・1980年)時点では現役で活用されていたようです。(※5)
なお、現在もトレラー式ではありませんが、土泥地区に電話交換所が設置されています。
まとめ
面河地区に電話が導入された昭和8年から、面河村誌発行直前の昭和52年(1977年)までの電話の普及台数の推移は、以下の通りとなっています。
昭和 8年(1933年)ーー1台(番外1台)
昭和19年(1944年)ーー5台
昭和27年(1952年)ーー10台
昭和36年(1961年)ーー81台
昭和40年(1965年)ーー101台
昭和48年(1973年)ーー510台
昭和52年(1977年)ーー583台
昭和27年頃までは緩やかに導入されていった電話が、昭和30年代以降急激に普及していったことが分かりますね。
昭和40年代には一気に400台以上が普及されており、交換台の増設や自動交換機の導入につながったという流れも浮かび上がってきます。
私たちの生活に欠かすことのできない電話。ほんの100年前まで面河地区には無かったわけですが、そこから半世紀で各家庭に普及していき、システムもそれに応じて変化していった様子をここまで見てきました。
今では当たり前の技術も、導入を提案した人、業務を担った人たち、利用を求めた大勢の人たちによって少しずつ進化していったこと。また地域に合わせたスタイルを模索しながら普及していったことなどがわかりました。
そんな普及の歴史に思いを馳せ、技術の進化に感謝しながら、今後も恩恵にあやかりたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
【注釈一覧】
(※1) 昭和3年当時はまだ杣川村だが、杣川村から面河村時代について歴代村長は地続きでカウントされている都合上、面河村誌原文でも「面河村長」と記載されている。
(詳細については以下記事にて記載)
No.12 面河村村長は何代まで続いたか?|くわな (note.com)
(※2)GPI基準で令和の貨幣価値に直すと、当時の8058円は現在の13,892,021円程度となる。7割の5670円でも9,775,101円の価値となるため、事業としては比較的大掛かりなものだったことがうかがえる。
(※3)以前にも少し触れた、渋草の大火災(S20)の際に大西旅館は一度焼失している。タイミング的には、焼失後再建する際に電話が導入され、看板も同時に作ったのではないかと考えられる。こちらはあくまで予測であることにご留意いただきたい。
(※4)原文では「交換台2台が面河郵便局に置かれた。」とある。このまま読み取れば新たに2台設置されたと考えられるが、合計2台であった可能性も考えられる。
(※5)一般的にはトレーラー式自動交換機と呼称するようである。電話局のような巨大な設備が必要でなく、面河地区のように規模が小さい場所でも設置できたため、海外に輸出されることもあった。
【参考文献】
・面河村誌(1980年・面河村)
・電話機・交換機の歴史 (hitachi.co.jp)
・日本円貨幣価値計算機 (yaruzou.net)