No.23 なぜくわなは面河に帰ってきたのか?
皆さま、新年あけましておめでとうございます。愛媛県久万高原町・面河地区の地域おこし協力隊、くわなです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
前回は、2024年が面河村章制定からちょうど50周年だったということで、村章のなりたちや、デザインに込められた意味を見ていきました。
(前回記事はこちら↓)
さて、早いものでくわながnoteへの投稿を始めてから今月で1年となります。
当初は隔週木曜、現在は4週に1度の更新でお届けしておりますが、これまでにさまざまな反響をいただいており、大変励みになっております。
いつも読んでくださっている皆さまも、もちろんこの記事で初めて見つけてくださった方も、本当にありがとうございます!
今後も面河地区を様々なテーマで掘り下げていきながら、皆さまと共有できればと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
ここで、懐かし?の第1回記事を見てみましょう。
なんだか恥ずかしい感じもしますが、意外と方向性は固まっとったんやなぁ…などなど感想が湧いてきます笑
そして読み進めていくと、無視はできない文言が。
この宇宙人、しれっと未来に宿題を投げているではありませんか!
というわけで今回は、面河地区にふたたび関わるようになった経緯、そして現在の思いなども書かせていただければと思います。
内容的にはとてつもなく個人的なものになるかと思いますが、noteを始めて1年記念の備忘録にできればと思っていますので、どうぞお付き合いくださいませ。
幼少期~高校時代
以前にもお話しましたが、出身は旧面河村・本組地区です。(厳密には2歳ごろから面河で暮らしていました)
地元のおもご幼稚園→面河小学校へと順当に進んでいき、面河中学校と統合した翌年の美川中学校に入学。2年生の終わりごろに久万地区の方へ転居し、面河地区を後にすることとなりました。
ちなみに小学校の同級生は私以外にはひとりでした。(おかげで平和な小学生時代を過ごすことができました。)中学校に入ると同級生が17人になり、「クラスの人数が8.5倍になった」と驚いたのを覚えています。
この頃の暮らしぶりはというと、工作やお絵かきに勤しんだり、ウルトラマンや昆虫のおもちゃやベイブレードで遊んだりと、基本的には今と変わらずインドアな趣味を楽しんでいました。
ただ、下校中には野イチゴやイタンポ(イタドリの方言)を採って食べながら帰ったり、近所のおいちゃんらに柿やハチノコをもらったり、夜には熱い蒔風呂に入ったり、雪が降ったら授業そっちのけで遊んだり……思い返すと、田舎暮らしにどっぷりな幼少期でした。
また本組地区には、当時「しいのみ会」という子ども会があり、春にはお花見会、夏には公民館でそうめん流しや花火、秋は敬老会や秋祭り、冬にはクリスマス会や元旦マラソンなど、年間様々なイベントに参加していました。今となってはですが、これらの行事を通して地域の方と交流していたことが、後に地域の方と協働していくための基盤になっていたのではないかと思います。
そして、幼少期にはひとつ忘れられない出来事がありました。それが平成16年(2004年)8月1日、私が小学1年生の時の4町村の合併です。
先に紹介したような暮らしをしていた私にとって、面河村はとても大きな存在でした。それもあってか、この合併によって地図上から「面河」の名が消えてしまったことが、幼いながらにとてもショックでした。
この話をすると「そんな昔のことを?」と思われがちなのですが、夏休み中の茶の間で、まだブラウン管式の黒いテレビが横にあって、グレーの防災無線の上にかけていた8月のカレンダーが目に入ったときの「今日から村じゃないなったんや……」という実感が、本当にずっと忘れられずにいます。
それから少し月日が経って、上浮穴高校森林環境科に入学した後は、大学進学を目指して意外とまじめに勉強していました。(きっと今同じことをやれと言われてもできないでしょう。)
もともと愛媛大学農学部への進学を希望していたのですが、大学の体験活動に参加中農山漁村地域マネジメント特別コースを知りました。そして、そのコースが移転した当時の新学部「社会共創学部」へ進路を絞り、なんとかかんとか合格することができました。
大学時代の活動
そんなこんなで愛媛大学社会共創学部・地域資源マネジメント学科農山漁村マネジメントコースに進学した後は、キャンパスでの授業はもちろん県内各所の農山漁村地域に足を運びながら、地域活性化とはなんぞや?地域資源はどう見つけるのか?今の時代に合ったリーダーシップの取り方は?地域の人と協働するには?といったようなことを学ばせていただきました。
学部自体ができたばかりということもあり、手探り状態で進んでいく授業も少なくありませんでした。ですが、特に現場で地域の方と共に活動していくフィールドワークでの学びは、今の活動でも活かすことができていると私自身は思っています。
また、同じコースの仲間や先輩・先生方、地域づくりに携わっている方たちなど、今でも交流のある人たちの多くと出会うことができたのもこの頃でした。
そしてちょうどこの頃、愛媛大学と久万高原町が提携し、町内で「小さな拠点づくり」の事業がはじまりました。そのモデル地域となったのがなんの因果か面河地区だったのです。しかも自分が所属しているコースの講師(当時)の先生がアドバイザーとして携わっており、集まりや調査があるたびに、ひたすらコバンザメのようについて回っていました。
このような経緯で、現在も協力隊活動のメインで携わっている面河地区地域運営協議会・だんだんおもごの立ち上げから関わらせていただくことができました。
子どもの頃の縁も大きいですが、この時お世話になった方との縁が今の活動にも影響することとなりました。
(だんだんおもごの詳細&現在はこちら↓)
卒業 ~そして無職へ~
しかしながら、その時はすぐには訪れませんでした。
大学については、阿呆なりに何とか周囲の方々に助けを乞いながら4年で卒業することができました。
卒業後はまず、大学時代からアルバイトで携わっていた県内の某企業に勤めることに。少しですが面河とも関われるということで、しばらくの間会社員生活を送ることになりました。
ですが、想像していた以上に地域と関われる時間が少なく、コロナ禍が重なったこともあって身動きをとることもできず、やがてどんどん体力もなくなってしまい、たった1年半で退職することとなってしまいました。
次の仕事も決まらぬまま職を手放してしまった上、体力も完全に失っており、ここから半年ほどの無職期間を過ごすことに。
いわゆる毎日が日曜日状態ではあったのですが、体力も資金も何もなく、今後もどうなるか分からない状況で、かなり気が滅入っていたのは覚えています。(気が滅入っていた上に本当に何もしてなかったので、記憶がぼんやりしているというのが正直なところです。)
そんな中、友人たちが一人にならないよう連れ出してくれたことで、なんとか社会とのつながりを失わずにすむことができました。そのおかげで、半年後にはひとまずのアルバイト先も見つけることができました。
そんなフリーター時代の私に声をかけてくださったのが、学生時代にだんだんおもごの立ち上げでご一緒していた事務局の方でした。
いざ、協力隊!
久しぶりに事務局の方から連絡があり、ひとまずお話を伺うためにおそるおそるですが待ち合わせ場所だった久万高原の家(久万地区にあるモデルハウス)へ。
自分の卒業後の状況を話したり、昔話なんかをしたりしていると、事務局の方から本題が。
それが、面河地区担当の地域おこし協力隊に応募してはどうか?というお話でした。
以前の職場とは違い、より直接的に面河地区に関われるという意味で魅力的なお話でしたし、学生時代の縁で声をかけてくださったというのも本当にありがたいことでした。
ただ、その場ですぐにお返事することはできなかったと記憶しています。
学生時代にも面河と関わってはいたものの、かつて地域を離れた自分が戻ってもいいのか?たった1年半で前職を離れた自分にやり遂げることができるのか?3年後以降はどうするのか?ほとんど社会人経験の無い自分が協力隊として入るメリットが地域にあるのか?自分の不甲斐なさで地域を裏切ることにはならないか?
概ねそのような考えが頭の中をぐるぐるとまわっていました。
ですが同時に、高校から学生時代までやってきたことをダイレクトに活かせる仕事であること、その縁で光栄にも地域の方からお声がけいただけたこと、なにより幼少期から断続的に関わってきた面河の力になれるかもしれないことは、私にとってこの上ない魅力でした。また、もう少し先の未来だと思っていましたが、いつかは故郷で過ごしたいと思っていたのも事実です。
加えて、この少し前に面河の人口が500人を切ったばかりの時期でもありました。このような言い方は正しくないのかもしれませんが、この知らせによって、”いつか”戻るつもりの”いつか”に面河が残っている保証はないことに気づかされたのです。そしてそれは、かつて面河村の名が消えた日のことをも想起させました。
このまま何もしないまま、また故郷が消える日を待つのか?
私ひとりが戻ったところで大したことはできないし、いつものポンコツで迷惑をかけることもあるかもしれない。それでも、1ミクロンでも地域に何か還元できるなら、何もしないよりはずっといい。ウルトラマンが教えてくれた勇気を振り絞る時ってのはたぶん今なんだろう。
そんな思いが湧いてきたことで、答えを決めることができ、事務局の方にもお返事を返すことができました。
こうして、くわなは地域おこし協力隊として面河地区に帰ってくることになったのです。
まとめ ~面河とのこれから~
ここまで、1周年企画ということでくわなが面河地区の協力隊になるまでの経緯を振り返ってみましたがいかがだったでしょうか?
もう少しおもしろおかしくまとめたかったのですが、予定よりだいぶまじめなことを書いてしまった気がしており、少し反省しております笑
まだ協力隊活動の任期は途中で、卒業後についても相談中の段階。そんな中で面河の人口は405人弱まで減少しています。
協力隊になって2年経った今、地域にどれだけのものを返せたかは分かりませんが、先ほども書いたように1ミクロンでも、1ビットでも自分のしたことが地域のためになっていたら嬉しいなと思っています。
未来がどうなるかなんてことはさっぱりわかりませんが、少なくとも今はこのような気持ちで面河地区を盛り上げていきたいと思います。
今回はほとんど日記のような形でお送りしてきましたが、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
次回からは、また面河地区のことを語っていきたいと思いますのでどうぞよろしくおねがいします!
【参考文献】
・石鎚の聖流郷おもご 2003面河村村政要覧(2003年・面河村)
・行政区別世帯人口調べ(2024年・久万高原町)