No.3 “敬身小学校”はどこに存在したのか?(前編)
みなさまこんにちは。面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
本題へ入る前にひとつ。先日1月20日頃に配布された「広報久万高原1月号(No.234)」はもうお手に取られましたか?
「久万高原町に住んでないし読めるわけないやん!」というそこのあなた。下記のサイトからご覧いただけますので、ぜひ最後のページをチェックしてみてください。(CM)
今号の協力隊コーナーはくわなの担当回ということで、日ごろの活動について少しお話させていただきました。
今回からは、その中で取り上げた“所在の分からない小学校”について、しっかり掘り下げていきたいと思います。(広報の中で内容に触れてはいますが、本記事ではより詳しくお話させていただきます。)
前回の概要編から、いきなりマニアックな話題となってしまいますが、広報との連動企画ということでお付き合いくださいませ。
はじまりの5校
そもそも、面河に小学校が誕生したのはいつのことかというと明治8年、今から149年前のことになります。
当時の文部省の命により、”公私立小学校一覧表”を提出する必要があり、面河地区からは5校の名前が提出されました。
以下はその所在地と校名になります。なお、設立年は全て明治8年で、いずれも民家を校舎としていたようです。
・北番村杣野 敬身
・北番村笠方 同分校
・北番村渋草 同分校
・大味川村 味川
・大味川村 同分校
以上の5校となります。
なお、同誌の他ページや別の資料を読むと、前半3校の所在地は「杣野村」だったはずなのですが、なぜ古い地名である「北番村」表記だったのかは謎です。(このあたりは筆者の勉強不足ですので、もう少し研究してみたいと思います。)
この5校のうち、笠方・渋草にあった敬身小学校の分校は、笠方小学校、渋草小学校の前身校です。また、味川小学校は城山小学校(本組)の前身校です。
残るは2校ですが、大味川村にあったという「味川小分校」については、残念ながらこれ以上の情報が、現時点で全く見つかっておりません。
これぞ幻の小学校なのですが、追及のしようもありませんので、ぜひ皆様からの情報をお待ちしております。
というわけで、今回からは残りの「敬身小学校」について触れていきたいと思います。
なお、ここまでの情報は、全て「面河村誌」の430ページおよび431ページに記載されております。
ちなみに面河村誌は、下記のサイトで内容をデータ化してくださっております。大変ボリューミーですが、お時間のある方はぜひご覧ください。
「面河村誌」から紐解く
敬身小学校は、先ほどの一覧表によると杣野地区に存在したとあります。
この広い範囲の一体どこに敬身小学校が存在したのでしょうか?
旧杣野村は、「笠方(かさがた)」「渋草(しぶくさ)」「大成(おおなる)」「前組(まえぐみ)」「相の峰(あいのみね)」の5つの地域(大字)で構成されていました。今回は、“面河村誌”を頼りに、それぞれの地区に存在した可能性を探っていきましょう。
①笠方地区の場合
まずは笠方地区。こちらは、すでに取り上げた一覧表に「敬身小学校 笠方分校」が存在していますので、敬身小学校の本校があった可能性は極めて低いでしょう。
438ページで抜粋されている「笠方尋常小学校沿革史(明治33年)」にも、明治8年に笠方の土居集落の農家を学校とした旨が記載されており、「笠方分校」のみが存在していたと断定できるかと思います。
ところが、この沿革史の抜粋を読み進めていくと気になる文言が。
「其本校ハ元渋草校ノ分教場ナリシガ簡易科ガ尋常ト改マル際ニ笠方尋常小学校ト一校トナリシモノノ如シ。」
笠方尋常小学校(沿革史発行当時)は、「渋草校ノ分教場」だったものが、のちに簡易科へ。その後、尋常小学校へと変遷する際に「笠方尋常小学校」として独立したものである、と読み解けます。
つまり、この文中の「渋草校ノ分教場」が、一覧表中の「敬身小学校 笠方分校」ということになるでしょう。
ということは、本校である敬身小学校は”渋草”にあったのでしょうか?次は渋草地区のページを見ていきたいと思います。
②渋草地区の場合
渋草地区の小学校の変遷については、442ページから記載してあります。さっそく読んでいくと、
「面河小学校一覧表によると北番村渋草に敬身小学校の分校として民家を使用し児童数十七名(男子のみ)で設立されたのが当地区の学校の最初である。渋草地区の古老(明治二〇年生と明治三十五年生の方)の話では、数根尾堂元に「ナンジョウジ」(漢字は不明)と言われる学校があったと聞かされた」
と書かれてあります。
この項に従えば、渋草には「渋草分校=ナンジョウジ?」のみが存在していたことになります。
便宜上、敬身小学校が「渋草校」と呼ばれていた可能性は高いですが、一覧表では渋草と杣野が別表記だったことからも、渋草に存在した可能性は低いでしょう。
③前組・相の峰地区の場合
続いて前組地区・相の峰地区について見ていきたいと思います。この2地区については「石墨(いしずみ)地区」として、まとめて431ページから記載されています。
まず明治9年。先ほどの5校に続いて、前組地区に「石墨小学校」が誕生。明治35年には立地が変わった関係で、その相の峰分校も誕生。その後大正13年に、ふたたび統合していることが分かります。
石墨小学校の記録は、村誌の作成当時かなり残っていたようで、他校と比較してもかなり詳細な情報が書かれていました。当校は面河村誌発行の翌年(1981年)に閉校しているため、誕生から閉校までのほとんどが本書に記されているといえます。ですが、これにより前組・相の峰地区に敬身小学校が存在していた可能性は否定されることになりました。
小括
残るは「大成地区」ただ一つ。さっそく見ていきたいところですが、なんと面河村誌はこの後、大味川地区の話に飛んでおり、大成地区の学校状況については触れられていません。
そして、敬身小学校の本校には全く触れられないまま面河村誌は終わってしまいました。
万事休すか!?と思われましたが、大成地区には1990年代に大成の開発を進めた方々がおり、その際にまとめられた本があります。
次はこの本を読み解きながら、大成地区の学校事情を探っていきたいところですが、今回はここまで。
次回は大成地区の学校事情を調べながら、敬身小学校がどこに存在したのか探っていきたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。次回の後編でまたお会いしましょう。
【参考文献】
・面河村誌(1980年・面河村)
・渋草小学校開設50周年記念誌・面河中学校創立50周年記念誌 こころの芽(1997年・渋草小学校、面河中学校)