No.4 “敬身小学校”はどこに存在したのか?(後編)
みなさんこんにちは。最近、花粉の気配を感じ始めた面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
前回、No.3の記事では、”面河村誌”を参考にしながら、幻の「敬身小学校」がどこに存在していたのかを考察していきました。
その結果、杣野地区の5地域のうち「笠方」「渋草」「前組」「相の峰」に存在した可能性は低いのではないか?という結論に。残る大成地区に存在した可能性を探っていくことになりました。
今回は、その続きからお話を始めたいと思います。
なお、前回の記事はこちらから読めますので、お時間のある方はぜひ本記事よりも先にご覧ください
「大成の自然と人文」から紐解く
こちらの本は、かつて大成地区の開発・発信に大きく貢献した天真会(南高井病院内)の長岡悟氏により、平成4年に発行されています。
本書の終盤には、石鎚山や面河渓のことも絡めつつ、大成地区の様々な歴史を記した年表が掲載されています。
この年表から、小学校に関する記述を抜き出してみましょう。
・1816年(文化13年) 中川家の私塾大成学舎(のちの大成小学校)開設。
・1872年(明治5年) 中川家の大成学舎大成簡易小学校となる。
・1914年(大正3年) 渋草小学校 大成分教場新築
・1988年(昭和63年) 11月中川家の家塾(のちの大成小学校) 大成学舎
記念碑建立
大成地区では、江戸時代後期に中川氏宅を利用した私塾「大成学舎」が誕生し、明治時代に大成簡易小学校へと変遷。さらに大正時代には渋草小学校の大成分教場になっていたことが分かります。
ところがどっこい。こちらの文献は、大成を推し出したいあまりなのか、随所に主観の混じっている箇所が見受けられます。年表についても、全体的に他の資料とズレのある項目が多々あり、信ぴょう性に欠ける部分も。
小学校に関するこれらの項目についても、不可解な点がいくつかあります。
まずは、明治“5年”に学校が誕生していること。前回読んだ面河村誌に則れば、面河に小学校が誕生したのは明治8年ですので、それよりも3年余り早いことになってしまいます。
次に名称が“簡易小学校”であること。簡易小学校および尋常小学校が誕生したのは、明治19年に文部省の”小学校令”を受けてのことです。
簡易小学校は、へき地において尋常小学校ができる前に設置されました。面河地区にも、明治20年から明治24年頃までに設置された記録が残っています。
つまり、この令が出された14年前である明治5年に簡易小学校という形態で存在していた可能性は、ほぼ皆無と言えるでしょう。(仮に、他校と同じ明治8年に開校していたとしても、11年前となります。)
そして、初めに提出された一覧表中の5校の中に大成簡易小学校および大成小学校の文字はありません。(一覧表についてはNo.3でお話しています。)
正規の過程を踏まない”変則小学校”だった可能性もありますが、この資料のみでは大成に小学校が存在していたと断定するのは、大変心苦しいですが難しいでしょう。
「こころの芽」から紐解く
“大成の自然と人文”だけで大成に小学校があったことが証明できないのなら、他の資料を探せばいいじゃない!
というわけで、これまでに読んだ資料を読み返していると、なんとか一つだけ見つけることができました。
それがこちらの本「渋草小学校開設50周年記念誌・面河中学校創立50周年記念誌こころの芽(両校共同で平成9年に発行)」です。
渋草小学校および面河中学校の50周年を記念して発行されたこちらの本は、大勢の卒業生が在学時の思い出などについて寄稿されている他、歴代の卒業写真、PTA会長、学校長などが紹介されています。また、44ページからは渋草小学校の年表、172ページからは面河中学校の年表が掲載されています。
ここから小学校の誕生に関わる部分を抜き出していくと、まず最初に「明治8年 敬身小学校の分校として誕生」とあり、その後は、
「渋草簡易小学校(明治24年)」
「渋草尋常小学校(明治26年)」
「杣川尋常高等小学校(大正8年)」
「杣川国民学校(昭和16年)」
「杣川小学校(昭和22年)」
「渋草小学校(昭和22年)」
と変遷していったことが分かります。明治以前に統合などがあったという項目はなく、村誌と同様にこちらの資料をみても、渋草地区には1校のみ存在していたと考えられるかと思います。
そしてこの年表を見ていくと、
「大正13年10月31日 大成分教場閉鎖、本校に統合」
の項目が確認できました。
“大成の自然と人文”にあった大成の小学校が分教場となった歴史は、こちらの資料を見ると確かに存在していたようです。
以上2つの資料から、比較的信頼できる情報をまとめ、年表になおしていくと以下のようになります。
こちらの表は、不確定な部分を断定しない書き方にした上で、渋草の小学校の表記を、その時代に則した形に直したものです。
修正前より、かなり事実に近いものになったのではないでしょうか?
敬身小学校は結局どこにあったのか?
さて、いよいよここからが本題です。
明治初頭、”大成簡易小学校という名前”では開校していないと思われる大成の小学校ですが、小学校もしくはそれに代わるものが大成に存在していたことは確か。
私は、その学校こそが「敬身小学校」だったのではないかと考えています。
ここからは、敬身小学校が大成に存在したと仮定して考察していきます。
まず誕生したのは明治8年となりますので、誕生年が他より3年早かった矛盾を解消することができます。
当然、敬身小学校であれば、初めの一覧表にあった5校に入っていますので、表の中に”大成小”などの名前が記載されていなかったこともうなずけます。
また、大成地区に存在したのであれば、面河村誌における杣野村内の他4地域の記録に、敬身小学校の記載が無かったことも納得できます。
唯一、笠方小の記録にあった「渋草校」の名称が不可解ですが、大成から渋草小までは徒歩で通学していたという証言があるほど、この2地区は密接な関係にありました。このことから、大成にあった敬身小学校を、大きなくくりで「渋草校」と呼んでいた可能性は否定できません。
ちなみに、渋草地区が村の中央として発展していったのは、少なくとも杣川村役場(面河村役場の前身)が設置された明治23年以降となります。
それよりも15年前の明治8年ならば、本校にあたる敬身小学校が大成にあっても不思議はありません。(当時の杣野村には、前組と大成に戸長役場があったとされています。)
反対に、渋草に役場が設置されてから10年後の明治33年(笠方小の記録があった年)であれば、便宜上”渋草校”と呼ばれていた可能性があります。
このように、敬身小学校が大成地区にあったと考えると、他地域の記録の穴埋めができ、大成に関する断片的な記録の矛盾も、ある程度解消することができます。
よって本記事では、「幻の小学校“敬身小学校”は“大成地区”に存在した」と結論付けたいと思います。
なお、あくまで3つの資料から、筆者が独自に結論付けたものですので、事実とは異なる可能性があることをご留意いただけますと幸いです。 また、これを裏付けるような資料、もしくはこの説を否定し、さらに事実に近づけるような資料をお持ちの方がおられましたら、ぜひともくわなまでご連絡ください!
まとめ
全2回にわたって敬身小学校について掘り下げていきましたがいかがでしたでしょうか?
次回からは、もう少し面河全体に関わるようなお話に戻っていきたいと思いますので、ぜひ今後ともお付き合いくださいませ。
最後に、敬身小学校が大成に存在したと仮定した場合の年表を貼らせていただいた上で、この記事を終えたいと思います。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
【参考文献】
・面河村誌(1980年・面河村)
・大成の自然と人文(1992年・長岡悟)
・渋草小学校開設50周年記念誌・面河中学校創立50周年記念誌 こころの芽(1997年・渋草小学校、面河中学校)
・小学校令の制定:文部科学省 (mext.go.jp)