Youtubeお宝動画コレクション 竹内まりや その2

このブログを書いているのは、お盆休み、、、

昭和歌謡の時代、この時期には
すでにスタートしていたのが
テレビの音楽賞イベント。

前回触れた【新人賞レース】はじめ
各賞を決める
レコード大賞のような音楽イベント。
先陣を切る形で日本テレビが催した
「日本テレビ音楽祭」は、
確か7月末か8月上旬の開催だった。

そんな早い時期に
【音楽シーンの総決算】をやる合理的な理由
など有るはずが無い。

それゆえ、のちに廃れていくのだが。。。

振り返ってみると、
こうした【バーチャルなお祭り騒ぎ】の動画も、
今となっては貴重なアーカイブだ。
今や日本音楽シーンの至宝である
竹内まりやの映像も。

1979年夏、東京音楽祭で
新人では最高の栄誉シルバーカナリー賞を受賞。
勢いに乗るまりや。
新人賞レースで有力候補に名乗りを
上げる。

この年も対抗馬がひしめく大混戦。
第一候補は、
♬わたしのハートはストップモーション
を前面に押す、桑江知子。
当時の映像がこちら。
おそらく、NHKで放送された
「レッツゴーヤング」。

二番手は、
倉田まり子。
勝負曲は ♬How ワンダフル
当時のアイドル歌謡で王道を征く
ライトなラブソング。

そして、竹内まりや。
3人が、最優秀新人賞2名(レコード大賞は1名)のイスを争い、
それを杏里や越美晴らが追う展開。

新人賞レースとひとくちに言っても、
競馬の世界で言う重賞レース(G1)とそれ以外とが
有る。
TBS主催のおなじみレコード大賞、
それ以外の在京キー局が主催の歌謡大賞。
これらの最優秀新人賞が、
新人歌手の二大ステータスだ。

G2レース的な存在だった
各民放テレビラジオ局主催の音楽祭では
手堅く決め、
11月に歌謡大賞の最優秀新人賞をゲット。
その勢いで大晦日にはレコード大賞の最優秀新人賞も受賞。

さらに、その足で紅白歌合戦に初出場、、、
というのが
新人歌手【勝利の方程式】とされた。

この年、新人歌手は例年よりも不作といわれ
紅白に1人も選ばれ無かったことが
「椿事」として報じられた。
それでも、激戦に変わりは無い。
新人賞レースは例年通りの盛り上がりを見せる。

竹内まりや陣営が投じた一曲が、
かの有名な ♬セプテンバー。
作詞は、
すでに歌謡界でも確固たる地位を築いていた
松本隆。
作曲はのちに ♬真夜中のドア(松原みき)を手掛け
ジャパニーズシティポップスのマエストロと評されるまでのヒットメーカー
林哲司。

G2的位置付けの音楽祭では、評価は分かれた。
まず、テレビ朝日の全日本歌謡音楽祭は
倉田まり子。

フジテレビのFNS歌謡祭も倉田。

文化放送主催の新宿音楽祭
(新人賞だけのイベント。
新宿音楽祭と言うタイトルながら、
会場は千代田区の日本武道館)グランプリは、
竹内まりやと桑江知子。

そして、いよいよ歌謡大賞。
最優秀新人賞はふたり。

歌謡大賞で候補曲を歌う桑江、、、

受賞したのは、
この桑江と倉田。
倉田の受賞シーンだ。

そして、残るはレコード大賞。

ここからは筆者の記憶。
最優秀新人賞は、桑江とまりやとの一騎打ち。
審査員の投票結果が生中継で開票される。
ホワイトボードに【正】の字。
まりやが1票取るごとに
桑江は2票。
まりやが2票なら桑江は3票。

結局、大晦日決戦を制したのは桑江知子。
まりやは重賞のいずれをも逃がした。


ところが、、、、、
この年、音楽シーンでは
地殻変動とも言うべき
パラダイムシフトが進んでいった。
大変な追い風に乗って
まりやは日本を代表するアーティストへと
成長を遂げる。

詳しくは次回。。。
(続く)
(敬称略)

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