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現代の感性で読む近代文学: 『魚服記』(後編)
「夏目漱石」「太宰治」「芥川龍之介」……
名前はよく知る、あの文豪たち。でも教科書以外で読んだことはない。
しかし、「名作」と言われるからには、それだけの理由があるはず。
そこで、令和を生きる27歳の私が、近代文学の名作を読んで感じたところを記しました。
今回は、前回に引き続き太宰治『魚服記』です。
前編はこちら↓
ネタバレ解説
ググって見つけた記事によると、こうだそうです。
疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
ここはまさかの、父親からスワへの近親相姦の暗喩だそうです。まあ言われてみればそんな感じもする。「あのくさい呼吸」は、この少し前に出てきた表現を受けてるので、父親のことと想定されるようです。
続いてはこちら。
ほとんど足の真下で滝の音がした。狂いうなる冬木立ちの、細いすきまから、
「おど!」
とひくく言って飛び込んだ。
(ここでスワは大蛇になったかと思いきや、小さな鮒になったことに気付く)
それから鮒はじっとうごかなくなった。時おり、胸びれをこまかくそよがせるだけである。なにか考えてるらしかった。しばらくそうしていた。
やがてからだをくねらせながらまっすぐ滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。
この2つが、「2度の自殺」を意味してるそうです。
自分なり解釈
特に解説を読み込んだわけではないので、同じような解釈があるかもしれませんが、自分なりの解釈を記します。
太宰は魚服記の執筆までに、2度自殺未遂をしていますが、そのプロセスには途中まで満足していたものと考えました。その根拠は以下です。
水のなかの小えびを追っかけたり、岸べの葦のしげみに隠れてみたり、岩かどの苔をすすったりして遊んでいた。
それから鮒はじっとうごかなくなった。時おり、胸びれをこまかくそよがせるだけである。なにか考えてるらしかった。しばらくそうしていた。
やがてからだをくねらせながらまっすぐ滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。
鮒を太宰に重ねると、「一度めの自殺」で、「大蛇にはなれなかったが鮒にはなった。暫く鮒のからだで遊んでみた」ことが分かります。
つまり、人から恐れられる「大蛇」にはなれなかったが、鮒は鮒なりに、途中まで楽しんだ。自殺は失敗したが、目的を叶えるための手段として、一旦は満足した。そう考えられないでしょうか。
しかし魚服記を「遺書」といっているように、結局未遂は未遂でしかなかったことに気付いた太宰は、改めて命を断つ決心をし、「まっすぐに滝壺へむかって行」こうとしている最中なのでは、と思うわけです。
おわりに
折角輝かしい大人の階段を歩み始めた(?)スワも、絶対的であったであろう父親という、「どうしようもない外敵」にやられてしまったわけです。太宰の人生をなぞらえてるのでしょうか。
今回もちゃんとぺらっぺらな感想で締めようと思いますが、私の人生は小説にぶつけたくなるような、やり場のない絶望とかも特にないので、まあよかったな〜という感じです。R.I.P 太宰、ですね。