深く、広く、永く。その前に。
原稿を読んで涙がこぼれた。
少し前に社外で1時間くらいの講演をする機会があった。
終わった瞬間、もう一度やり直したいと思うくらい反省がたくさんで久しぶりに凹んだ。(まだ引きずっていて思い出すだけでまたへこむ…)
そんな講演が記事になることになり、原稿が届く。
自分のダメさ加減を確認しなきやいけない。
だいぶ気が重い。
印刷してはみたものの見る勇気が出ない。
あぁでもダメだったんだ、認めよう。
次の機会があればその時にもっとよくできるように、見なきゃだめだ。
なんとか自分で自分を説得しておそるおそる読み始める。
びっくりした。
その原稿は、というかその原稿を書いてくれたライターさんはわたしの想いをとても丁寧に掬いとってくれていた。
そしてわたしの隣に立ってその想いを一緒に届けようとしてくれていることが伝わってきた。
自分の想いや考えは自分がいちばんわかってる。そう思い込んでいたけれど、ライターという役割の他者によって自分の想いや考えを言葉としてつかみ直すことができた。
伝わった、という体験だった。
今までにも自分が話したことが文章になるという経験はあったけれどこんな風に感じたのは初めてだった。
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わたしの仕事はweb編集者だ。
最近は、育児漫画やコミックエッセイと呼ばれるジャンルがメインで、企画や作家さんによって作り方は変わるんだけど、素材をもっているのはわたしではない。
記事の素材となる経験や伝えたい想い作家さんがもっていて、それを形にするのも作家本人さんだ。
編集者としてわたしは、その作家さんの想いが「深く」「広く」「永く」届くように関わっている。
その想いを必要な人に届けられるように。
だけど、わたしは自分が担当している作家さんにわたしが今回感じたようにわたし以上にわかってくれてる、わかってもらえた、と感じてもらえているだろうか。
届けたいその想いを、深く、広く、永く届けるためにねじまげたり、過剰に演出したりしていないだろうか。
自分が伝えたかったこととちがう形になったものがいくら深く届いてもその相手とはわかりあえないし、いくら広く届いてもそこに喜びはうまれない。
深く、広く、永く、届けたい。
だけどその前にもっと大事なのは、当たり前だけど伝えたいことが伝わることだ。
自分が伝えたいことは、自分ではうまくつかめないこともあるからこそ、編集者としていちばん最初にその人の伝えたいことをキャッチして、その輪郭を一緒に濃くしていくような、そんな存在に…なれたらいいなぁ。